■2.図書館の竜は夢を見続ける

 古い夢から目覚めれば、もちろんそこは現実の図書館だ。

 百年後の図書館。友を失ってから百年後の。


 しかし、もはや実時間は失われて久しかった。

 あるじを失ってから、図書館はただひたすらに空白を刻み続けている。

 この場所では、いまや昨日と今日のけじめすら定かでない。


 目に涙を溜めて、彼女はうつぶしていた机から顔をあげた。

 夢から醒めたときはいつも痛切な喪失感に見舞われる。

 まるで、その都度繰り返しうしない続けているかのような。


 乱れた髪をかきあげる。こわばった肩が震える。下唇を噛み、小さく目を伏せる。

 涙がこぼれ落ちる。大粒の涙が。


 かつて、彼女は孤独に悲しみを感じなかった。自己の存在を認識してから二年ほどで、それを感じる心は完全に鈍麻したのだ。二年間、たったのそれだけで。

 しかしいま、百年を経てなお悲しみはにぶらない。それは依然として彼女の中にある。


 彼女は自問する。

 わたしの精神は正常な機能を失ったのだろうか。あの原初の孤独とこの百年の孤独は、いったいなにが違うのだ。

 あの頃の私といまのこのわたしは、いったいなにが違う?


 そして、自答する。

 そんなのはわかりきっている。いまのわたしには思い出がある。


「……こんなのは」


 声に出して呟いていた。


「……こんなのは、まるで呪いじゃないか」


 図書館の静寂は彼女になにも答えない。書架に並んだ無数の背表紙は沈黙を貫く。

 彼女がそれを読まぬように、書物の側もまた彼女を無視する。完全なる没交渉。


 彼女は机の上に腕を組み、ふたたびそこに顔を埋めた。

 彼女は眠る。孤独を遠ざけるために。

 目覚めたときにはまた喪失の再現があるだろう、そのことはわかりきっていた。

 だが、それでも彼女は眠りに夢を求める。夢を見るためにこそ彼女は眠り続ける。


 孤独をなによりも嫌って、ほとんど恐怖するほどにそれを嫌って。

 しかし孤独をもたらす思い出の数々を、彼女はけっして嫌うことができない。


 彼女は眠る。

 迷宮じみた図書館で、その番人――図書館のドラゴンは夢を見続ける。







 その子供は彼女をおそれなかった。彼はただじっと彼女に見惚れていた。

 刻一刻と深まる夜をよそごとに、天下の美に出会ったかのような感動の表情を浮かべて。


 しばらくして、少年がようやく我にかえった。

 ほうけていた数十秒分の遅れを取り返そうとするかのように急き込んで、彼は次のように彼女に告げたのだった。


「助けに来たんだ! 君のことを! だからつまり、僕は君の味方だよ!」


 あまりにも前のめりで唐突で、そして言葉は決定的に不足していた。


「……なんだよ? あんたは?」


 唖然の度合いを極めて彼女は少年に問うた。彼女がはじめて他者と疎通した記念的な一言はそのようなものだった。

 さっきまであったはずの破壊の衝動は、完全にどこかに消えていた。


「だから、僕は君の味方なの、なんだってば。だって君のことでしょ? 山の主って」


 少年は答えた。もはや惚けてはいないが、やはり恐怖もまた感じてはいないようだ。

 それから、彼は自分が見聞きしたことのあらましと、追いつめられつつある山の主(つまり彼女のことだ)に味方しようと思い立つに至った経緯などを彼女に説明した。


 ひとくさり聞き終えたあとで彼女が示した反応は、やはり呆れであり、そして意図的な失笑であった。

 彼女は冷え切った視線で少年を見下ろした。


「お前が助ける? この私を?」

「そう、助けるんだ。僕が君を」


 言葉に込めたはずの皮肉には気づいた様子もなく、少年は「いかにも」と肯いた。

 彼女は再び鼻で笑う。嘲笑と皮肉と、本心からのいらつきを露骨なまでに乗せて。


「馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ここらの山々で最強を誇るこの私を、あんたみたいなガキがいったいどう助けてくれるっていうんだ? ……笑わせるな。とっとと失せろ」


 青き虹彩に縁取られた金色の双眸そうぼうが少年をめ付ける。

 王者の眼。生物を圧倒する眼。……彼女に孤独を強(し)いている眼。


 その眼に、しかし少年はひるまない。

 恐怖やそれのもたらす緊張とは無縁のまま、しかし気分だけは害したというように唇を歪めて、少年は自身もまた彼女を睨み返した。


「僕のことガキよばわりしたけど、君だってそんなに年取ってないじゃん。というか、ひょっとして君、僕より年下ガキなんじゃない? 山の主とかいう割に全然貫禄もないしさ」


 真っ向から口答えして、どうだといわんばかりの挑戦的な笑みを彼は口元に浮かべた。

 少年の反応と態度のすべてが、彼女を再び唖然とさせた。相手に威圧を与えるどころか、逆に自分のほうがそれを与えられたかのように彼女は絶句する。

 そんな彼女の狼狽ろうばいぶりを見て取った少年が、してやったりという顔になる。どうだ図星だろ、とでも言いたげな、勝ち誇った風の。

 それ以上の衝撃を相手に与えたという自覚は、そこにはない。


「とにかくさ、困ったときはお互い様ってことで、僕にも協力させてよ。君の力になりたいんだ。それに君がどんなに大きくて強くたって、あれだけの数を相手にするのはちょっと大変だよ。あ、ところで君、名前はなんていうの?」


 こいつはいったいなんなんだ? 

 彼女は胸中に畏れにも似た感触を抱く。あらゆる生物が畏れをなして逃げ出す自分に対し、この子供は一片の怖じ気も見せず、どころか対等に相手取って忌憚きたんがない。

 その上、竜である自分をまるで一個の人間とみなしているような、この扱いはなんなのだ?

 彼女にとって少年は未知そのものだった。少年の存在を、彼女はまったく掴みかねる。


 しかしそうであるにもかかわらず、警戒の念は驚くほど薄い。

 彼の笑顔があまりにも頑是がんぜ無くて明け透けで、だから、猜疑さいぎの心が正常に働かない。


 彼女は戸惑う。生まれてはじめて、彼女は心を乱す。


 ――それから、自分が問われていたことにはたと気づいた。


 問いかけられていた質問の内容を、胸のうち反芻はんすうする。

 そして、ほとんど反射的に、彼女の無意識がそれに答えていた。


「……リエッキ」


 簡潔に、それだけを彼女は告げた。

 少年と、それにきっと、自分自身に対して。


 リエッキ。


 自己の認識と同時に脳裏に情報として去来し、しかしこのときまでは退化した臓器のように無価値とみなされ存在の深淵しんえん埋没まいぼつしていた、それこそが彼女の名前だった。


 この瞬間、彼女の存在は確かに更新された。

 無記名の彼女から、匿名の竜から、リエッキへと。

 あるいはこの時こそ、彼女が真に世界に生まれた瞬間だったのかもしれない。


 ぽかんとした数秒のあと、少年はそれが自分の問いに対する答えなのだと気づいた。

 太陽の笑みが夜を照らした。

 顔中に笑顔を引き伸ばして、少年もまた彼女に名乗る。


「僕はユカ。ねぇリエッキ、お腹減ってないかな? 蜂蜜のお菓子、一緒に食べない?」

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