■3.竜と少年

 その夜の月は真円には一晩足りていなかったが、十四日目の月は翌晩と遜色そんしょくなく冴え渡って山々を照らしている。

 人里の灯は遥かに遠いが、月光と星明かりだけで夜は十分にあおかった。


 そんな夜のただ中で、一人と一頭は向かい合っている。

 人間の少年と、赤きうろこを持つ炎のドラゴンは。


 夜番に立つ兵士に発見される面倒を避けるため、たき火はしていない。

 しかし少年の二つの眼は闇の中、それでもまっすぐに竜を捉えている。

 捉えて、そして離さない。


「というわけで、僕は魔法使いの森で獣たちを兄弟みたいにして育ったってわけさ」


 ユカと名乗った少年は自らの素性と生い立ちを彼女に――リエッキに解き明かした。人間の友達に語りかける朗らかさで。

 ユカの語るに任せて、彼女は聞き役に徹している。

 ともかく、それによっていくつかの不明な点に得心はいった。

 たとえばこのユカが森に住む魔女(骨の魔法使い、獣の森の盟主)の息子で、物心つく前から世に恐れられる猛獣たちと慣れ親しんで育ったということ。これはそのまま彼が竜であるリエッキを恐れない説明となった。

 やたらとよく利く夜目をはじめとした獣じみた能力もまた、その特殊な幼児環境に由来しているらしい。

 そして、自分を助けたいというユカの言葉が本心であることも、彼女は理解した。


「……なるほどね。まぁ、だいたいのことはわかったよ。助力の申し出にも一応は感謝しとく。……なに嬉しそうな顔してんだよ! いいか、一応だかんな! 一応!」


 ユカの話が一段落ついたあとでリエッキは言った。

 ぶっきらぼうで愛想のない物言い。しかし数時間前の邂逅であいの場面におけるそれと比べれば、彼女の口調は格段に砕けている。

 変化が生じているのは口調だけではなかった。

 ユカとの対話に、彼女は気負いというものを少しも感じていない。言葉は自然体に交わされて、緊張のこわばりは指先ほどにもない。

 気分はどこまでも落ち着いていて、くつろぎの感すらそこにはあった。


 そんな自分の内面を、リエッキは驚きをもって見つめる。

 不思議だ、と彼女は思う。

 わたしの置かれている立場と状況はたぶんこれ以上にないほど剣呑けんのんで、しかも状況は夜が明ければさらにきわまる。

 なのに今、わたしはどうしてこうも平然としているのだろう。どうしてこうも当たり前のようにこいつと……このユカと向かい合ってるのだろう。

 いままでわたしは、たったの一言として誰かと口を利いたこともなかったというのに。


 胸を満たす雑念を、リエッキはとりあえず脇にのける。そして再びユカに言った。


「……でも、助けてくれるって簡単に言うけど、あんたさ」

「ユカ、だよ」


 リエッキの言葉を遮ってユカが訂正した。彼はなにかを期待する目で彼女を見る。


「……ユカ」

「えへへ、はい、なーに?」


 遠慮がちに彼女が言い直すと、名を呼ばれた少年は満足そうに頬を緩ませて言った。

 なんだか奇妙な感覚をリエッキは覚える。はじめて抱くその気分に『照れくささ』とか『気恥ずかしさ』とか名付けるための語彙ごいを、リエッキはまだ所有していない。

 名状に至らぬ含羞がんしゅうに突き動かされて、リエッキは「はん」と鼻をならした。


「……それで、助けてくれるって、具体的な考えはなにかあるのかよ」


 顔はまだユカから背けたまま、ひとまず気を取り直して彼女は言った。


「言っておくけど、闇雲に暴れ回るだけならわたしひとりのほうがよっぽどやりやすいんだかんな。あんたが親譲りの魔法の使い手だとかなら話はまた別なんだろうけどさ」

「親が魔法使いだからって子供まで魔法使いになりはしないよ。呪使いじゃあるまいし」


 苦笑混じりに言うと、ユカは蜂蜜菓子をもう一つ口に運び、幸せそうに咀嚼そしゃくする。

 リエッキはため息をついた。

 剣呑な立場、危うい状況……そうしたすべてが、ユカと一言言葉を交わすたびに現実感を失っていく。

 しかしそれらは厳然として目の前にある。兵士たちは山道に陣を張って野宿同然に寝泊まりしているし、こいつらに指図を飛ばす偉そうな連中(呪使いとかいうらしい)も麓の村に宿を取っているのだとか。

 そしてその敵たちは、朝になればまた行動を再開する。彼女の首を狙って。

 なんだか笑えてすらきた。張りつめた現実といまここにある弛緩しかんした空気の、滑稽こっけいなまでのその落差に。


 ……と、リエッキが自嘲するようにまたも鼻を鳴らした、そのときだった。


「あ、なるほど。そうかそれだ」


 ひらめいたとばかりぽんと手を打って、ユカが唐突にそう言ったのだった。


「まさにそれだよリエッキ。呪使いだ。糸口はそこにあるんだよ」

「はぁ? なんだよそれ?」


 怪訝な調子を隠しもせずに説明を求めるリエッキ。指に付着した蜂蜜を舐め取ったあとで、綺麗になった指をピンと立ててユカは語りはじめた。


「いい? 君を狙ってる領主の手勢は二つの人種で構成されてるんだ。一つは兵士たちで、こっちについては特に説明はいらないよね? で、肝心のもう片方が呪使い」

「あの杖持った偉そうな奴らだろ? 兵士どもの上司というか、現場監督みたいな」


 自分の得た印象をリエッキが語ると、ユカは彼女の見る目を褒め、説明を先に進めた。


「まさに呪使いたちは現場監督、頭脳役だよ。汗水たらして頑張るのは兵士の皆さんだけど、彼らがどう働くのかは呪使いの指図次第なんだ。呪使いはお偉いさんだからね」

「つまり、その呪使いどもをどうにかしようってのがあんたの考えか?」


 リエッキの合いの手に、「つくづく飲み込みが早くていいなぁ」と笑って応じるユカ。


「うん、とにかく呪使いたちに負けを認めさせるんだ。それで敵は退却してくはずさ」


 これぞ名案と胸を張るユカに、リエッキが渋い顔を向ける。


「どうなんだそれ? 皆殺しにしちまったほうが話が早いってわたしは思うんだけど」

「ダメだよ」ユカが言った。「できるだけ一人も怪我とかさせないでお帰り願うんだ」


 リエッキの渋面じゅうめんが渋みの度合いを増した。

 なに言ってんだこいつ? とその顔には書いてある。


「世の中悪い人はいないよ」


 リエッキのいぶかる気色には気づいた様子もなく、ユカはあっけらとそう続けた。


「まぁ、もちろんたまにはいるだろうけど、でも本当の悪人ってのはそうそうはいないよ。だからさ、人死になんて出さないように穏便に済まそうよ」


 そう語るユカに偽善の気配は皆無だった。彼はまったく自然体に性善説じみた考えを口にしていた。

 その純真さがいかに浮世離れしたものか、リエッキにもそれはわかる。


「呆れた……。あんた、自分がなに言ってるかわかってるのか? 『奴らは君を殺して剥製にしようとしてるけど根は善人だから殺さないで帰してあげよう』って、あんたの言うのはそういうことだぞ。どうしてわたしがそれに付き合わなきゃいけないんだよ?」

 怒るでもとがめるでもない、純粋な呆れだった。

 おめでたい奴、とリエッキはユカを横目に見る。


 リエッキの言葉に、しかしユカは、しょげるどころか笑顔の温度をさらに高めた。

 どうしてわたしがそんな情けを持たなければいけないのだ――そんな反発を込めた文脈を、ユカは持ち前の純粋さで真っ向から読み違えたらしい。

 彼はそれを、額面通りの問いかけと受け止めたのだった。そして、誤解したままで答えた。


「どうしてって、そんなの決まってるよ。だって、僕と君ならそんなの朝飯前でしょ?」


 なんでそんな当たり前のことを、というようにユカは声を出して笑った。

 笑顔と声と、そして言葉がリエッキのと胸をいた。彼女はひどく動揺し、呼吸すら乱す。


 なんだこれは、と、どぎまぎしながら彼女は思う。

 わたしはいま、いったいなにをされた?


 その瞬間に自分が与えられたものの正体を、リエッキはやはり掴めない。

 信頼という語彙を、彼女はまだ持たない。彼女がそれに触れたのはこのときがはじめてだった。

 ただ、不快とは真逆の胸の高鳴りだけが、感情の初心者たる彼女になにかを証明していた。


「ん? リエッキ、どうしたの?」


 急に押し黙ったリエッキに、ユカが案じる視線を向ける。


「……わたしはいま、ようやく確信した」


 ユカの心配は無視してリエッキが言う。


「今この山にいる人間の中で一番に厄介なのは、矛を持った兵士でもお偉い呪使いでもない」


 ユカがきょとんとした顔をする。「え、どういうこと?」と一番に厄介な少年は言う。

 リエッキは深々と息を吐いて、「……なんでもない。忘れろ」と力無く告げた。


「……わかった。あんたの趣味に付き合う。できるだけ傷つけない……できるだけだぞ」


 負けを認めるように言ったリエッキに、「うん!」と嬉しそうに応じるユカ。

 ありがとう、と彼は言わなかった。

 彼女ならそう言ってくれると、最初から信じきっていたかのように。


「だけど、具体的な作戦はなに一つ決まってないぞ?」


 とリエッキ。


「有り難いことについたのは条件の縛りだけだ。負けを認めさせるって、どうやるつもりなんだよ?」


 この当然の疑問に、ユカは「ちょっと待ってね」と言い置いて考え込む姿勢となる。

 深刻さは不在のまま、真剣さが少年の横顔に兆した。

 彼は夜に目を凝らし、月光に映える山並みを一瞥する。星影を遮り漂う雲の動きを眺め、風に耳を澄ませる。

 自分たちのいる場所からずっと下、山道に設営された敵方の陣地、その所在を明らかにしている常夜のかがり火を眺める。


 そのあとで、突然「よし!」と一声発して、ユカはリエッキに向かいなおった。


「うん、これでいこう。いいかい、説明するよ? まずね、『リエッキはこの山の主だ』」


 もうこの日何度目になるだろうか、リエッキが唖然とした表情となってユカを見る。


「真面目に考えてるかと思えば……おいユカ、あんた、なにをいまさらわかりきったことを……だから言ってるだろ、わたしはここらで最強の存在で……」

「まぁ、いいからいいから。とりあえず最後まで聞いてよ」


 疑問符にまみれたリエッキの言葉を遮るユカ。彼はさらに続けた。


「『リエッキはこの山の主、それも山脈を司る神格の化身たる存在だ』……神様にしては君はまだ全然若くて貫禄も足りちゃいない気がするけど、まぁそんなのわかる人間なんて滅多にいないからさ、とにかくハッタリで押し切ろう。で、僕はその従者とか眷属けんぞく、さしずめ『山の神の使い』ってとこかな。それでね……」


 ユカはなおも語る――かたる。


 最初こそ半信半疑に耳を貸していたリエッキだったが、しかし、話が進むにつれて彼女は唖然の度合いを深めていく。

 そして、やがては完全に言葉を失って、大きな目をさらに大きく瞠った。


 当然の反応だった。なにしろユカが彼女に話しているのは、作戦であって作戦でない。

 それは、物語だった。

 危うく緊迫したこの状況を解決し、円満な結末へと導くための物語。ユカが語っているのはそれなのだ。


 やがて説明を終えたユカは、なんでもないような顔をしてリエッキに告げた。


「夜が明けたら連中は山狩りを再開するから、そしたらこっちも行動開始だ。まずは兵士たちに接触して布石を打つところから。呪使いはそのあとのお楽しみさ。ね、腹が減ってはなんとやらだよ、君もすこし食べておいたら? これ、すんごく美味しいよ」


 言いながら蜂蜜菓子を差し出すユカに、「……いらない」とどうにかそれだけをリエッキは伝えた。

 でたらめ過ぎる、と彼女は思っていた。

 ユカの打ち立てた作戦も、それを語るユカも。

 そしてなにより、そのでたらめに命運を預けてみたくなっているこの自分も。


 ――ああ、ちきしょう、なにもかもがでたらめだ。


 リエッキはユカを見る。形を変えながらも心に在り続けた疑問を、彼女はぶつける。


「……あんた、いったい何者なんだよ?」


 少年は竜に答える。どこまでもてらいのない笑顔で。


「僕は物語師、語り部だよ」

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