◆6.もうひとりの主人公

 こうして、我々の主人公はいよいよ旅立ちます。

 母と獣たちに「行ってきます!」と元気に手を振り。揺籃ようらんの森に背を向け。小さな胸には大きな夢を目一杯詰め込んで。


『物語ることで母をはじめとする魔法使いへの偏見を吹き散らし、その汚名を晴らす』


 いかにもそれは大きな夢、呆れるほどに大それた目標です。

 ですが、それがこれから旅立つ十四歳の少年の夢であるならば、いくら大きくたって大きすぎるなんてことは絶対にないはずです。


 さて、駆け出しの旅人はまず足の赴くままに東へと向かい、街道沿いの里に記念すべき第一夜の宿を求めました。

 ユカが資質として備えた素直さ、人好きのする性格はここで早速に幸いし、宿主夫婦や泊まり合わせた他の客たちから彼はたいそう親切にしてもらいました。

 お客と亭主の垣根を払って歓談にいたこの夜、ユカは客仲間の行商人から「南の山脈の向こうにはな坊主。そりゃもう眼を三度瞠るような大都市があるんだぜ」と聞かされ、すっかりこの平原の都の話に魅了されます。


 かくして、彼は旅の最初の目的地をまさにそこと決めて、翌日からは南に向かって進路を取りました。

 まだまだずっと遠くに霞んで見えるだけの山並みを目指して。


 ユカは先々の村で宿を取り、その都度例外なく亭主や客たちに気に入られ親切にされ、旅立ちから三日目には満天の星の下、野趣やしゅ溢れる野宿の醍醐味だいごみだって覚えました。


 ああ、なんという旅の楽しさ!

 素晴らしいのは人との出会い!


 森を出発してから七日目、ユカは一風変わった家族と出会い、たちまち意気投合して打ち解けます。

 壮年の夫婦と二人の娘からなるこの家族は一風変わった遊牧民、蜜を求めて土地から土地を回る放浪のはち飼い一家でした。馬車の荷台からは蜜蜂たちの羽音のうなりが聞こえます。

 それから二週間、この蜂飼いの家族が旅の道連れとなりました。ユカは一家と寝起きを共にし、なにくれとなく彼らの仕事を手伝い、遊びと団欒だんらんの輪に加わります。

 さて、ここでもユカ持ち前の親しみやすい人柄は大いに幸いしたのですが、それよりなにより役に立ったのは彼の生い立ちそのものでした。

 自然の中に育ったユカは、複雑にして熟練を要求される養蜂ようほうの仕事を瞬く間に理解し覚えてしまったのです。

 大黒柱の父が舌を巻くほどの才覚を発揮するユカに一家はすっかり信頼をあずけ、ほとんど第五人目の家族として彼を扱ってくれました。


 家族を通してユカが知ったのは、やはり人々の温かさです。

 蜜蜂は作物の受粉を司る大事な家畜で、一家は村々にとっては季節季節に請うてまで出向いてもらうほどの大切な客でした。街道筋のどの村でも家族は大歓迎され、その一員とみなされたユカもまた同様に手厚くもてなされました。


「世の中に悪い人はいないなぁ」と、旅立ちからこのかた人々の親切に浴し続けてきたユカはそうがえんじます。

 そして同時に、この優しさ、この温かさが魔法使いたちにだけは少しも向けられていない、その不条理に寂しい気持ちになりもしました。


 ユカは意気込みを新たにします。

 僕が変えてやるぞ。偏見も悲しい不条理も、いつか必ず僕が追っ払ってやる。

 物語ることで僕はそれを為してみせるぞ、きっと、絶対に。


 やがて別れの時は訪れます。

 平らな街道が山道へと変わる場所、ユカが目指していた山脈の麓の村で、彼と家族はその後の行く先を別にします。

 家族は街道を引き返し、そしてユカは山越えの道に進むのです。


「なぁユカ。お前さん、いっそこのまま、本当に俺たちの家族にならないかい?」


 一家の父親が切りだしたこの誘いに、「お父さんありがとう」とユカは応じます。


「だけど、ごめんなさい。僕にはどうしてもやりたいことがあるんだ」

「それは、大事なことなんだな?」

「大事なことです」


 ユカはほとんど即答で応じました。


「一生をすにあたいすることです」


 その意思の揺るがぬ様を確認した蜂飼い一家の父親は、まずは己も固く肯いてユカに応じ、そのあとで妻と二人の娘にも諦めるよう促します。


「俺たちの息子を、ひとつ快く送り出してやろうじゃないか」


 彼の言葉に、女三人もそれぞれ悲しい顔に笑顔を浮かべて肯き、それから、蜂蜜やそれを使ったお菓子、蜂蜜酒をごっそり持ってきてユカの前に広げて置きました。


「山越えの前に荷物を増やして悪いんだが、せめて持っていってくれ」


 またしても父が一家を代表して言い、続けました。


「さよならユカ。短い間だったが、お前は確かにうちの家族だったよ」


 ユカは家族全員と順番に抱擁を交わして別れを惜しみ合い、何度も振り返って手を振りながら山道を登りはじめました。

 いつしか一家の姿が死角へと去って見えなくなるまで、何度も、何度も。


 こうして久方ぶりに一人に戻ったユカは、餞別せんべつの品々で膨らんだ背嚢はいのうの重さを苦にもせず、どころかその重みに一家の愛を噛みしめ、これまでのところ順風満帆じゅんぷうまんぱんそのものであった旅を続けます。


 ですが、長い山道を一時間ばかり登ったところで、彼の旅ははじめての障害に見舞われます。


 山道の交通が封鎖されていたのです。

 道に陣取って旅人たちを追い返す兵士たちと、追い返される旅人たち。そして、兵士らをあごで使う揃いの術衣ローブの男たち――呪使いたち。

 ユカの行く手にあらわれたのはそうした光景でした。

 いましも苦い顔をしてこちらに引き返してくる行商人をつかまえ、ユカは事情を尋ねました。


「山狩りだとよ」


 男は吐き捨てる口調で言いました。


「麓の狩人がこの山の主を目撃したとかでな。で、山向こうの領主様がそいつの剥製はくせいをご所望になって、その挙げ句がこの有り様さ。『怪物退治に民草の巻き込まれる悲劇を避けるため、一切が終わるまでこの道通ることまかりならん!』ってな。……チッ、おためごかしを並べやがって。ようは邪魔だから近寄るなってことだろうが」


 それだけ説明すると、行商人はなおもぶつぶつと文句を言いながら下山して行きました。


 一人その場に取り残されたユカは、なんだかひどくむっとした顔をしていました。

 彼は腹を立てていたのです。

 一つにはもちろん、己の都合でみんなの山道を封鎖してしまう領主の身勝手が気に入りません。

 ですがそれ以上に彼の心に強く兆していたのは、愚かな権力者の欲に狙われて命を危うくしている山の主とやらへの憐れみの念でした。

 なにしろ骨の魔法使いの森には似たような事情で居場所をなくした獣たちが無数に住んでおり、それらはみんなこの少年の友達だったのですから。


「……山の主に会おう。会って、せめてこの僕だけはその味方になってやろう」


 そう思い立ったが早いか、ユカは普請ふしんされた山道を外れて山中へと分け入っています。

 探索ははじまります。

 道なき道をほとんど自在に馳(は)せて。獣同然に四つ足で駆けて。山狩りの連中なんて、たった一人で完璧に出し抜いて。ああ、これぞまさしく自然児の面目躍如めんもくやくじょ


 未だ正体すら不明の山の主の姿を求めて、深山みやまへと、深山へと。

 人跡未踏の境界をも呆気なく踏み越えて、それでもユカは止まりません。


 やがて夏の陽も傾き、月が星たちを引き連れて東の空からやって来ます。

 そして虫たちが鳴きはじめ、鳥の声が夜の猛禽のそれへと移り変わりはじめた頃。

 ユカはついに探していた相手に巡り合ったのでした。


 読者よ。私は、ここまでユカについて語って参りました。

 ユカというひとりの少年の生い立ちを。


 ですがここから先は、ひとりではなくふたりについて語ってゆきましょう。

 ユカは出会ったのです。森を発ってから一月近くが経過したその夏の日に。


 それが探していた山の主であることは一目で知れました。

 しかしその瞬間、発すべき言葉は出てきません。

 言葉は失われて、代わりに少年のうちから漏れ出たのはため息、感嘆の吐息でした。


 最初に眼に飛び込んだのは色彩です。いかなる宝石も恥じ入るばかりの、天下無双のくれないです。

 それから翼。形は蝙蝠こうもりのそれに似て、しかしその偉容において決定的に異なるしなやかな翼。

 そして、金色の瞳孔と吸い込まれそうな虹彩からなる、知性の輝きを宿したその瞳の美しさ。


 骨の魔法使いの森にも存在しなかった幻想の獣。ユカはその名を陶然とうぜんと口にします。 


「ドラゴンだ……」


 読者よ。物語がふたり目の主人公を得た、これがその劈頭第一へきとうだいいちの瞬間でした。

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