第一章 図書館の竜は夢を見続ける

◆1.魔女と捨て子

 これは最も幸福な男の物語であり、同時に、彼の生きた時代を廻る年代記でもあります。

 このお話の主人公は実に平凡な男でした。力や知恵に秀でていたわけでもなければ特別の勇気の持ち主でもなく、もちろん高貴な血筋の生まれでもない。そういう男です。


 ですがそんな彼の傍には、いつだって良き家族に良き仲間、それに良き敵手……そしてなにより、最高最良の友達がいてくれました。

 彼の一生に破格の幸いが――本人の資質を思えば幾度の人生を繰り返してなお余りあるほどの幸福が与えられていたのは、ひとえにそうした愛すべき人々の存在があらばこそ。


 言ってみれば、彼は七光りと威光の冴えない申し子なのです。


 ――読者よ。親愛なる読み手よ。


 もちろん、私はあなたが良き読者であることを知っています。その点について、疑念を差し挟む余地なんてどこにもありません。

 私は、この私の矮小な魂に懸けてそれを請け合いましょう。


 あなたが最良の読み手であることを。

 ようやく巡り合えた、理想の読者であることを。


 物語はあなたを待っていたのです。

 あなたという読者を、歳月の堆積たいせき雌伏しふくして。


 読まれる限り、物語は不滅です。読み手のある限り、物語は死にません。

 あなたという読み手を得て、いま、物語はふたたび蘇るのです。


 それでは、説話をつかさどる神の忘れられた御名みなにおいて――はじめましょう。






 彼の人生に最初の光を与えてくれたのは、その養い親でございました。

 実の両親、ではありません。血を分けた父母ふたおやについては、彼はそのぬくもりを知らず、その愛を知りません。

 いいえそれどころか、彼はその顔すらも知らないのです。


 有り体に言ってしまえば、彼は捨て子だったのです。


 読者よ、感じてください。骨まで染みるような夜の寒さを。それに、見てください。なんにも見えない夜の闇の、その濃さを。

 それから、ふるえてください。四方よもに密集し八方から殺到する、真夜中の不安に。


 我々の主人公が登場する第一の場面は、そういう闇の夜、闇の森の入り口なのです。

 邪悪な魔女の住処すみかとして知られ、近隣の人間たちは悪童ですらが近づくことを恐れる暗黒の森のそのほとり


 ああ、そして……ほら、耳を澄ませて聞いてください。力なく風に乗るあの声を。

 いまにも途絶えて消えてしまいそうな、あの哀れな赤子のむせび泣きを。

 凍えた月の下、森のほとりに置き去られた籐籠とうかごの中に、乳飲み子が泣いています。

 産声をあげてから、臍の緒を切られてから、まだ三日と経ってはいないと見える嬰児みどりごが。


 おそろしい魔女の森のとばくちで、赤子は悲しいほどに無力でした。

 このまま捨て置かれたならばそう時をおかずに野の獣や夜の猛禽もうきん餌食えじきとなるのは不可避と見えて……いいえ、あるいはそれを待たずして衰弱の死を迎えるのは、目に見えて明らかです。


 ですが、そうはなりませんでした。

 そうなる前に、赤子の存在は見いだされたのです。


 爛々と光る目で赤子の入れられた籐籠を覗き込んだのは、しかし人間ではありません。

 しなやかな毛皮と雄牛よりもなおおおきな体躯を誇る、それは一頭のめすの山猫でした。


 山猫は赤子を食い殺したりはせず、かわりに、その産着の首元をそっとくわえて森の中へと運び入れたのです。

 赤子をくわえて獣道を行く山猫を、いつしか無数の気配が取り囲んでいます。

 まず最初に樹幹じゅかんを縫って降りてきたのは、太い胴体に毒の色彩しきさいをあしらった大蛇です。

 次に遠慮がちにおずおずと顔を出したのは、二つの頭を持つ双頭犬の、左右それぞれのその頭で。

 かと見れば、逆に馴れ馴れしく山猫の足下をよぎってはまとわりつく、これは平らな土地に住む人間たちからは不吉の象徴とみなされて嫌われている悪霊兎あくりょううさぎです。

 これらに続いてさらに、さらに。すぐにも枚挙の不可能となるほどに、多様にして大勢の獣たちが、まるで赤子を運ぶ山猫に付き従うかのように続々と姿を現します。


 獣らの行進は進むほどに大きくなりながら、森の奥へ、奥へと、赤子を運びます。

 やがて、鬱蒼と入り組んでいた森が、ほとんど唐突にひらけます。

 獣道を抜けた先、森の内部にあったのはいとも広大な空間でございました。それこそ、外部から見た森の全景、その大きさを何倍にも裏切って遥かに広大な自然の大地です。

 そこには山があり、川があり、遠く目を凝らせば地平線の先の先には水平線が、すなわち海さえもが、小さな森の中であるはずのこの場所に存在しているではありませんか。


 夜闇に沈んだ風景の中、獣たちの進む先に、星明かりではない灯りが一つだけ見えました。

 外界から隔離された野生の土地に、ぽつんと建つ一軒の人間の屋敷が。

 遠慮も物怖じも一切抜きで、まるでそれが森と自然の延長ででもあるかのように屋敷へと入り込んだ獣たちの一団は、大小の骨が並ぶ居間で暖炉にあたっていた年若く美しい淑女に、運んできた赤子をそっと差しだしました。


 屋敷の主にして獣たちの盟主、そして街の人々が邪悪な魔女と噂する、骨の魔法使いその人です。


 まだ目もろくすっぽ開いていない赤子を一目見るや、骨の魔法使いは深いあわれれみに心を打たれます。

 魔女はすぐさまその慈悲のかいなに捨て子を抱き上げてやりました。


 そして、考慮の間などたったの一秒も必要とせずに、腕のなかのその子を自らの養い子とすることを集まった獣たちに告げたのでした。

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