図書館ドラゴンは火を吹かない

東雲佑

プロローグ

■ 火を吐かない火竜

 ――理想の図書館とはいかなるものか?



 かつて、彼女の友人は幾度となくそれについて語った。

 そのときに彼が浮かべていた得意げな笑みを、彼女はいまでもまざまざと思い出せる。

 いくつになっても幼稚さの抜けることがない、呆れるほどに屈託のないその笑顔を。


 理想の図書館に求められるものは――彼は言った。


「そうだね。一つにはまず静かでなくてはいけない。雪の夜にも似て森閑しんかんとした、無音をも上回る絶対の静けさ。現実を遮断する羊水のような静謐せいひつ。その内側で、読者は一心に本の世界へと没入するんだ。胎児が夢を見るようにね。こんな風に、優れた図書館っていうのは母胎にも通じるものなんだ」


 人間の胎児の気持ちなんかわたしにわかるもんか、と彼女は言った。


「だけどまぁ、それじゃできるだけ物音は立てないようにするよ。そおっと、そおっと動いてさ」


 彼女のこの申し出に友は苦笑でもって応じた。それから、彼は無音と静けさの違いを彼女に説明し、図書館に求められるのは後者であるのだと言った。

 

 彼女がその違いについて理解を得たのは、それからずっとあとになってからだった。

 そのとき、すでに彼は彼女のそばにはいなかった。



 理想の図書館に必要なのは――彼はまたこうも言った。



「蔵書の豊富なることはもちろん外せないけど、でもそれはわざわざ触れるまでもない前提事項。それよりも、図書館が良き図書館である為には、良き司書と良き読者の双方が不可欠なんだ。図書館の格を真に左右するのは、蔵書の充実具合よりもむしろこっちのほうだと僕は思うね」


 この二つは最初から解決済みの問題であると彼女には思えた。なぜならそれを語る彼こそ、最良の司書と最良の読者、そのふたつを共に兼ねる存在であったからだ。

 木漏 こもれ日の差し込む昼下がりに、彼女はたった一人の読者がページを捲る音を耳に微睡 まどろんだ。

 彼が本を手繰 たぐるさらさらという音は深く彼女の魂に刻み込まれている。

 在りし日を象徴する音の記憶。彼女にとって、それはまさしく青春の音楽だった。



 それから、理想の図書館には――そして、彼は最後に言った。



「良き図書館には厳然げんぜんたる面も必要なんだ。図書館の訪問者は、残念ながらそのすべてが好意的な客人とは限らないからね。書棚の稀覯書きこうしょを狙う泥棒やページを破り去ろうとする不心得者も中にはいる。だから、そうした歓迎できないやからを追い払う番人、悪意に対して無力な書物の庇護者ひごしゃが、絶対に、る」


 彼はそこで言葉を切ると、誇るような瞳を彼女に向けて、続けた。


「その大役を君が引き受けてくれるなら、ねぇリエッキ。こんなに嬉しいことって他にないよ」


 そう言って彼女に笑いかける彼の顔は、二人が子供だった頃からなにも変わらない。

 自由で無邪気でガキっぽくて、そして……時にドラゴンさえ泣かせるほどの友達想い。


 彼女の親友はそういう男だった。







 なにが潜んでいるかわからない。そして、なにが潜んでいようとも不思議ではない。

 そう感じさせて余りある闇を、図書館はその内側にたっぷりとやしなっている。


 紙魚しみと年経た書物の匂いに満たされた室内に、カーテンの隙間から幾条いくすじかの木漏れ日が差し込んでいる。

 細い光は宙を舞う埃に反射し、足下にわだかまる闇に点を穿うがち、そうして、結果としては闇の存在感をかえって補強している。


 通路を挟んで伸びる書架は、見る者の遠近感を狂わせ漠然としたまどいをもたらす。

 つらなり交差する無数の通路と通路は、眺めるうちにいつしか無限の奥行きを感得させる。


 魔力的な空間。そして、魔力的な静けさであった。

 それはまるで、迷宮さながらの。


 そんな書物の迷宮の中心で、彼女はいつものように深い眠りから浮上した。

 閲覧机につっぷしていた上半身がゆっくりともたげられ、長い髪が気怠けだるくかきあげられる。


 夢の残滓ざんしを引きずったぼんやりとした瞳で、彼女は周囲をぐるりと見渡す。

 誰もいない図書館が、誰もいない現実がそこにはある。


 途端に、彼女の瞳に涙のかすみがかかる。


 現実の浸透は、いつも喪失を伴った。幾度となく繰り返されるそれ。

 夢と現実の境界を踏み越えるたびに彼女はうしない続けている。

 何度でも、何度でも。百年間、ずっと。


「……もう、いやだ……もう」


 溢れだした涙が頬へと伝い、小さな顎先からしずくとなってこぼれ落ちた。


「もう、耐えられないよ。もう……わたしはわたしをやめてしまいたい」


 広大な閲覧室の広大な沈黙の底に、すすり泣きの声が生じる。細い肩が震える。涙がぽたぽたと机の上に落ちる。

 そして、空気すらも悲哀に染まる。


 歳月の波頭はとうが在りし日を遠くさらい、あらゆる過去が人の世の歴史となった。

 けれど、悲しみは百年を経てなお消えていなかった。

 夢に現れる日々が輝かしければ輝かしいほど、目覚めがもたらす喪失は彼女の心を打ちのめす。


 光が闇を養うように、思い出が悲しみを育てる。


 わたしはわたしをやめてしまいたい――その言葉を、彼女は頭の中で何度も繰り返す。

 ここにはもういないのだ。良き司書も、良き読者も。

 だから、ここはもう理想の図書館ではないのだ。


 ここにはもう、わたししか――。


 それから、不意に涙はぴたりと止まる。小さくしゃくりあげていた声も、肩の震えも消える。

 番人は感じ取ったのだ。無人のはずの図書館に生まれた複数の、不愉快極まる気配を。


 彼女は顔をあげる。充血した瞳には、それまでになかった感情があらわれている。


 椅子を蹴って立ちあがると、勢いそのままにエントランスへと歩きだす。

 足取りに迷いはない。そして瞳はまっすぐに前だけを見据みすえている。


 にごりのない敵意、獰猛どうもうな使命感をたたえたその瞳は。


 理想の図書館でなくても、ここはあいつの図書館だ。

 ここは、あいつとわたしの。

 だから。


「わたしはわたしをやめない」


 厳然と呟く。


「招かれざる客のある限り」




   ※



 連なる深緑を踏破してようやく辿り着いた建物へ一歩踏み込んだ瞬間、男たちはまず聴覚に違和を覚えた。

 彼らの耳にさわったものはしかし、音ではない。


 静けさだった。耳朶じだを打つ静寂、沈黙を圧する沈黙が、空間に張りつめていた。


 六人の男たち――遺跡荒らしの六人組の盗賊は、息を呑んで周囲を眺め渡した。

 室内であるはずのそこを、大きく振りあおいで。

 広すぎる。その一語が全員の胸を共通して支配していた。

 外から見た建物は、荘厳そうごんな造りではあったがけっして巨大ではなかった。生い茂る木々の合間にあって、その館は肩身を狭めて息づく隠者すら連想させた。


 しかし今、彼らの前にあるのは名だたる聖堂を遥かに凌駕りょうがする高さと広さだ。

 建物の内部には、その外観をまるごと飲み込んでまだ余るほどの大空間が存在していた。


 まるで自分たちが縮んでしまったかのような錯覚すら盗賊集団は覚える。

 しかもここはエントランス、まだこの奥に本館が控えているというのに。

 広すぎる――いや、広いなんてものではない。


 そして、その広さを埋め尽くすある物の存在こそが、男たちから真に言葉を奪い去る。


 高い天井を支える四方の壁は、そのすべてが埋め込み式の本棚となっていたのだ。

 見上げきれずまた見渡しきれぬ書架の壁である。

 もちろん、本棚という本棚には書物なかみがぎっしりと収納されている。


 盗賊の一人が、たまらず含み笑いをもらした。強気の中にふるえを隠したような笑いを。


「……はたして噂は真実だった、というわけか。おい、わかるか? いままで散々つれなくし続けた幸運の女神様が、とうとう俺らにも愛想のいい顔を向けてくれたらしいぞ」


 これに反応して別の一人が同じように笑いだす。続いて三人がこれに加わり笑いは輪となった。最後に、他の五人に遅れて残りの一人もその輪に参加する。

 全員に浸透したと同時に、笑いは陽性の波長を帯びて渦となる。声量が一気に高くなる。

 図書館の静寂にあらがうかのごとく、六人は騒々しく声をあげて笑い立てた。


 半年ほど前のことだった。彼らの一人がこの場所の情報を仲間たちにもたらしたのは。

 古き森のただ中に眠る図書館。大昔のなんたらとかいう魔法使いが住処 すみかとしていたそこには数多あまたのお宝が眠ったままになっている、と。

 たとえば挿話そうわの数だけ表紙に玉石をちりばめた物語集に、古今東西の金貨や銀貨をページにい留めた貨幣の大図鑑。

 それらいかにもお宝然とした代物の他に、装丁に人革ひとかわを用いた魔術の書などまでもが。


 種別と分野を問わず、一冊が千金に、いや万金に値する、天下の稀覯書きこうしょたちが。


 大きな仕事は絶えて久しく、全員がくすぶった日々を送っていた。それに情報を持ち込んだ仲間の異常な熱心さに負けたということもあった。

 かくして盗賊たちは、この眉唾まゆつばものの伝説にひとつ取り組んでみようと決めたのだった。

 ダメでもともとというような、それは限りなく期待値の低い賭けだった。


 だが、大博打の結果は見ての通り彼らの勝ち――それも、これは破格の大勝利である。


 ふたたび、全員が大笑に湧く。

 笑いながら、盗賊たちはこのお宝をどのようにして持ち出すか、いかなる伝手を頼って金に換えるか、はたまたその金はどう使うかなどを論じ合った。

 いっそここを俺たちの拠点にしちまうか、と一人が冗談めかして言った。

 それもいいな、ああそれもいい――全員が口々に同意した。


 そしてまた笑いの渦。

 それは、自分たちがなにを得たのかを、なにを成し遂げたのかを確認する儀式でもあった。

 彼らは成功者となったお互いを大いに祝福し合った。


 この瞬間、自分たちの無惨な末路を予想できた者は、六人の中には一人もいなかった。


「――図書館の客は、利用の対価として沈黙を支払うものだ」


 暗闇の中から、彼らのものではない声が響いた。凛然りんぜんとしてよく通る声だった。


「そこをいくと、貴様らは書物を愛する読書家、というわけではなさそうだな?」


 六人全員が、弾かれたように声のしたほうを見た。

 そこにいたのは一人の女だった。

 風変わりな雰囲気を影にまでまとった、しかしけっして醜くはない妙齢の女が、本館へと通ずる通路の闇を割って現れたのだった。


 長い髪はつやを帯びたくれない

 白皙はくせきの肌は男であれば思わず汚してみたくなるような白で、しかし純白にはないしなやかさもまたそこには宿っている。

 すらりとした長身をよそおう衣服は民族衣装のような風情に満ちていながら、そこにある情緒がかもしだす特色はあくまでも土地や文化の特定をこばんで幻想的。


 そして切れ長の二つの瞳は、さげすみを超えた蔑みを込めて六人を睨み付けている。


 予想外の事態に男たちは言葉もない。全員、ただ呆然として女を見つめ返すばかり。

 そんな彼らに対して、女が侮蔑ぶべつを込めて鼻を鳴らす。

 高慢というよりはただただ尊大に腕を組んで、はん、と。


「……おい、べっぴんさんよ」


 女の態度に抵抗するように、六人中でもっとも年若の者が口を開いた。


「アンタはなにか、ここの家政婦か?」


 ふざけた物言いで彼は勇気を誇示する。


「だとすりゃ、可哀想だが失業だ。なにしろこの図書館は一切合切俺たちのモノになったんだ」

「誰がそれを許すと?」


 女が短く問うた。


「俺たちがだ」と、別の一人が答えた。「俺たちが俺たちにそれを許すのだ」


 この返しに一人が手を叩き、一人が口笛を鳴らす。言うねぇ、とはやす声がそれに続く。


 集団はにわかに勢いを取り戻した。仲間と女のやりとりのうちに自分たちの優位を確信したかのように。

 女へと注がれる視線からもおそれは消え、代わりに値踏みするようないやらしさが添加てんかされていた。


 一人だけ、浮かれた空気の外側に身を置く者があった。


 さっき最後まで笑わなかった者、粗暴さでなる破落戸ごろつきたちの中にあっては、なにか異質な知性を隠しきれず放つ痩せぎすの男。

 盗賊仲間の新参者であり、どこからともなくこの図書館の情報を掴んで来た、これがその張本人だった。


 彼は仲間と女とを見比べる。緊張感なく女の容姿について卑猥ひわいな密談を交わす男たちと、そんな彼らとその一員である自分とに虫でも見るような目を向ける女とを。

 女の放つ威圧に仲間の誰一人気付いていない、それが彼には不思議でならなかった。


 それから、許容を超えた緊張が、問いかけとなって漏れ出す。


「……そなたは、司書王にゆかりある存在か? まさか、司書王その人というわけは……」


 強ばった声で彼は言い、いや違うはずだ、と己に言い聞かせるように独語を紡ぐ。

 違う、司書王は男のはずだ、それにもう百年も前に――。


「――知っていたか」


 女が、司書王の名を口にした男を睨み付けて言った。

 その瞬間、女の纏う空気が変化した。誰にもわかるほどにそれは一変した。


「ここを司書王の図書館と、そう知っていて、貴様らは……そうか、そうなのか」


 怒りの思念が波となって周囲に張りつめ、六人全員の心を目に見えぬ氷の手となって鷲掴わしづかんだ。

 獰猛な笑みが麗容れいよういろどる。笑いながら、女は一同に告げる。


「ならば、許さない。貴様らは司書王をあなどり、この場所に眠る思い出を冒涜ぼうとくした。だから――」


 ゆるさない、と、最後にもう一度言った。


 盗賊たちはわけもわからず、しかし女の発する尋常でない威圧は肌で感じ、はらで理解する。

 彼らは瞬時のうちに恐慌に駆られた。


 戦端を開く一砲はそのような状況下で放たれた。

 場に満ちる圧力にそれ以上抗いきれなくなった一人が、愛用の火銃を素早く構えて、女を狙った射撃を行ったのだ。

 虎の子の弾丸は、惜しくも狙いを外して女のすぐ傍をかすめるに終わった。

 しかしこの初手が、わずかに残された容赦を番人に捨てさせる最後の決め手となった。


 目に見えぬ変化が目に見える変化へと移ろいはじめた。

 長い髪が鮮紅せんこうの風となって舞った。

 暗がりの中で、巨大な影が膨れあがった。

 女の瞳から白い部分が失われ、瞳孔が細まって縦に伸び、たちまち蒼い虹彩に縁取られた。


 熱波が侵入者たちの頬に吹き付けた。


 それ以上の変身の過程を見極められた者はいなかった。

 次の刹那せつな、あらゆる生物を戦慄させる咆吼ほうこうが衝撃波となって彼らの身をすくませたのだ。


 全員が固く目を閉じていたその隙に、変身のすべては完了していた。


 彼らはまず色を見た。断罪の火と亡者の流す血とを思わせる、地獄の色の赤を。

 また翼を見た。形は蝙蝠こうもりのそれに似てしかし圧倒的に禍々しい、皮膜のある大きな翼を。

 そして瞳に絶望した。縦長の瞳孔と蒼き虹彩からなる、獰悪どうあくにして残忍なその瞳に。


 古今無双ここんむそうの財宝の番人が、招かれざる侵入者たちの前に悠然と立ちはだかっていた。


「ド……ドラゴンだ!」


 誰かの引きつった叫びが、混乱を助長し、絶望を加速させた。


 女は――赤き鱗を持つ火竜は、恐怖をわめく男たちに向けて尾を鞭のようにしならせた。

 槍を連想させる尾先が一人の胸を穿つ。最初に射撃を行った小心者だった。

 破壊された心臓が脈打つままにえぐり出され、ぼたりと音を立てて床へと落ちる。


 一人目の犠牲者が出るに及んで、恐慌はついに狂気となった。


 段平を抜いた二人が、意味をなさぬ叫びをあげながら竜へと斬りかかった。

 竜は諸手に死をたずさえてこれを歓待かんたいした。血濡れた尾の一振りで片方の首を呆気なくへし折り、もう片方は飛び込んで来る勢いそのままに顎に迎え入れた。

 水音を含んだ破砕の音が二度、響いた。


 これで三人が物言わぬ死体に化けた。実に呆気ないものだった。


 残された男たちの中にうずくまって神への祈りをまくしたてている者がいた。この男を次の標的と選んだのは番人なりの慈悲であったのかもしれぬ。

 死に直面した侵入者たちが最後の最後に神へとすがる様を、竜はこの百年のあいだに幾度となく目にしてきた。そしてその都度そうしてきたように、このときもまた竜は慈悲ではなく神罰を代行した。

 低く下げられた頭を右前肢で鷲掴みにし、果物のようにぐしゃりとつぶす。

 赤いものと白いものとが混ざり合って床を汚した。


 これで四人。


 発狂の度合いを極めて、顔中を涙と鼻汁で汚して突っ込んでくる男があった。竜の尾は穏やかとすら思わせる挙動で男を包み込む。

 包み込んで、それから、一気に締め付けを加える。

 全身の骨が音を立てて砕け、断末魔の代わりに盛大に体液を噴出させて男は息絶えた。


 これで五人全員。


 戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な殺戮さつりく劇は、こうして幕を閉じた。


「……いや、そういえば、もう一人残っているはずだったな」


 人語の呟きが竜の顎より発せられ、視線が、外へと通じる出口のほうに走る。

 どさくさに紛れて逃げ出そうとしていた最後の一人が、石のようにその場に固まった。

 翼を広げると竜は男まで飛翔する。

 希望のわらであった距離が、一瞬で無効となった。


 眼下に男を見下して竜は問う。


「最後に、なにか言い残したいことはあるか?」

「……見逃し……見逃してくれ、頼む」


 男が乞う。しかし竜は首を横にする。


「できない相談だ。貴様だけ生かして帰しては先に死んだ五人が冥府で不平を垂れる。それに、貴様は知っていたな? 司書王の名を。つまり奴らをここに導いたのは、貴様なのだろう?」


 男が、観念した顔をしてうつむいた。

 この図書館の伝説を知り、長の年月を掛けてその所在を突き止め、そして盗みと探索行の実行役に駆り立てる為に盗賊の一味に紛れ込んだ魔術師――それがこの男の正体であった。


 男の頭を竜の前脚が包み込む。

 殺意はなく、しかし許容や慈悲とも無縁の動作で。


「……最後に、ひとつだけ教えてくれ」


 竜のたなごころのうちで魔術師は言った。


「司書王の竜よ。さっきの戦いで、そなたはどうして一度も炎を吐かなかったのだ? 鱗の色でわかるのだ。そなたは火竜なのだろう? なのに、なぜ……?」


 魔術師の末期まつごの問いかけに竜は呆れ顔となり、「知者と賢者を兼ねるのはよほど難しいことらしいな」と言い捨てる。

 それから答えた。


「いいか、炎は書物を燃やすものだ。そしてわたしは図書館の番人。無力な書物を守護し、庇護する存在だ。……なぁ、どうして炎が吐ける?」

「……ああ……そうか……そうか……」


 人生最後の得心を満面に広げた男の頭を、竜は呆気なく握りつぶした。





 果たすべき役目を果たし、彼女は再び人の姿へと戻った。

 血に酔った心が急速に冷めていくのを感じながら、その場に散らばった六人分の死を彼女は無感動に見渡す。


 ひどく虚しかった。

 虚しくて、浅ましいほどに虚しくて。


 良き読者と良き司書。かつて『理想の図書館』の条件として挙げられ、そして最も盤石であると思われた二つは、今では喪われてしまった。

 それらはもう、永久に戻りはしない。


 この場所がかつてその体現であった理想の場所へと戻ることは、二度とない。

 なのにわたしは、条件の最後の一つであることをやめようとしない。書物の庇護者、図書館の番人。

 あいつがくれた役目に、わたしはそれが無意味と知りながらしがみついている。


 虚しかった。虚しくて、虚しくて、虚しくて。

 ……そしてそれ以上に、泣きだしたいほどに寂しくて、悲しかった。


「……戻ろう」


 彼女は声にだして呟く。


「……夢の続きを見なくちゃいけない」


 死体は起きてから片づけよう、と彼女は思う。

 それよりも、今はただ夢が見たい。それが繰り返し喪失をもたらすとしても、構わない。

 眠ろう。迷宮や洞窟の奥底で、多くの同属たちが財宝の上に鎮座しそうしているように。



 彼女はドラゴン。けっして炎を吐かない、図書館のドラゴン。




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