狂気と決別

「瑠夏、今日は最高の一日だったわ! ありがとう!」

「俺の方こそありがとう。お陰で最高のデート日和になったよ! それに、どんな形であれ、大切な友達と恋人同士になっていたことも分かったし!」

「もう! 瑠夏ったら!」

「あはははは……」


 デートの帰り、楽しく会話をしながら俺たちは歩いていた。最初は俺が梨音を家まで送ろうと提案したが、彼女が「瑠夏の家に行きたい!」と言われた。そのため、今は俺の家に向かっている最中だ。


 ――その判断が間違いだった。


「……ん?」


 俺たちが横断歩道で信号待ちをしている時、向こう側で立っている人が目に映った。普通は無関心になると思うが、その人はふらふらしており、どこか危なっかしい雰囲気を感じた。

歩いている途中で信号が赤になって、車両側に迷惑をかけたりしないだろうか? 最悪轢かれたりしないだろうか? そう思っていたが……


「る、瑠夏……」

「ど、どうしたの!? 梨音?」

 彼女の様子がおかしい……身体中を震わせている。その震えは繋いでいる手を通じ、俺の身体中にそれが伝わってきた。


「あの人……手になにか持ってない?」

「……ん? はっ!?」

 俺は気づいてしまった。そう……その人は、手にカッターを持っている。それによく目を凝らして見たら、体格や髪の色……なにもかも見覚えがあった。


「あああああああああああああああああああああああああ!」


 そして、その人は俺たちが正体に気づいたことを察したのか、信号が赤なのにも関わらず、発狂しながら物凄い勢いでこちらに迫ってきた。


 その影響で、横断歩道を渡ろうとした車のクラクションが何度も鳴り響いていた。俺たちは恐怖心と耳の鼓膜が破れそうなほどの煩わしいクラクションのせいで、身体が動けなかった。


「梨音! 君だけでも逃げて! 早く!」


俺はその音たちをも凌ぐ大声を出し、彼女に逃げることを促した。


「でも、瑠夏はどうするの!?」

「あいつが狙っているのは、君だけだ! いいから逃げるんだ! 俺がなんとかする!」

「分かった!」


 躊躇していた梨音だったが、俺はそれでも力強く説得をした。それが効いたのか、彼女は急いで走り去って行った。


「逃がすかあああああああああああああああああああああああああああ!」


 そして、その人……紫苑は梨音を追いかけようとした。


「やめろ! 彼女には手を出すな!」


 俺は大きく腕と足を広げ、どうにか行く手を阻もうとした。


「はぁ……はぁ……るーちゃん、どうして邪魔するのっ!?」


 意外なことに、紫苑は俺を押しのけようとせず、俺から少し離れた場所でピタッと動きを止めた。今から説得すれば間に合うだろうか……? 俺は藁にもすがる思いで、声を張り上げた。


「自分の今からやろうとしていることを考えろ! お前はとんでもないことをやろうとしているんだぞ!」

「るーちゃん! まだ分からないの!? あいつはるーちゃんをたぶらかしたんだよ!? このままだと、るーちゃんが汚されちゃうんだよ!」


 ……ダメだ。全く話を聞いてくれない。完全に狂ってやがる! 殺意がマシマシのかっ開いた彼女の目を見て、そう確信した。


「るーちゃんはあいつの味方なんだ……だったら、まずはるーちゃんから殺す!」


 発狂しながら、紫苑は刃を俺に向け、身体全体で突進してきた。もうここまでか……カッター如きでは死なないとは思うが、入院確定かな。ごめん、梨音。


 ――そう、諦めかけた時……


「なにやってんだ! 平野!」

「うぐっ……なにするんだよ! 邪魔するなぁ! 離せええええええええええ!」


 紫苑は何者かに抑えられ、じたばたと抵抗していた。って、ことは……俺、助かったのか? だが、刺されそうになった恐怖心が忘れられず、頭の中はまだ混乱していた。


「瑠夏! 早くそのカッターを拾え!」

「ああ!」


 俺は正気に戻り、言われるがまま紫苑が落としたカッターを拾った。それにしても、聞き覚えのある声だ……


「って、充希!?」


 そう、紫苑を押さえつけている男の正体は、充希だった。


「おう、瑠夏。怪我はないか?」

「なんとか大丈夫だけど……どうして充希がここにいるんだ!?」

「お前らのデートという晴れ舞台に、こいつがなにかしでかさない訳がないと感づいてな。ずっとお前らの後をつけていたんだ」

「えっ……!? あの、じゃあ水着の試着とか、眼鏡屋でキスしていたとこもか!?」

「ああ、見てたぞ」

「お前っ!」


 最悪だ……まさかよりによって充希に俺たちのイチャイチャシーンを見られていたなんて……仮に見ていたとしても、見なかったことにしてくれよ。はっきりと言うな。


「それよりも、こいつをどうにかしないとな……押さえつけても暴れているんだよこいつ」

「放せ! 離せ! 紫苑は門矢さんを殺してやるんだ! それでるーちゃんの目を覚まさせてやる!」

「ちっ……うるさいな。瑠夏、お前はひとまず逃げていいぞ。ここは俺がどうにかしておくからな」

「で、でも……」


 正直、このままだと充希がなにかされるかもしれない……だから、俺はそのまま尻尾を巻いて逃げることなんてできなかった。


「るーちゃん! 今すぐ門矢さんと別れろおおおおおおおおおおおお! じゃないと、門矢さんを殺すぞ!」

「いい加減にしろ!」

「「!?」」


 俺は往生際悪くわめき続ける紫苑に対して苛立ちを感じ、思わず怒鳴り声を上げた。その声には、当の紫苑だけじゃなく、充希も驚いていた。


「お前、さっきから殺す、殺すとか言いやがって……それで、本当に俺たちのこと殺そうとするし……いいか? 俺は梨音と付き合っている。これは紛れもない事実だ! いくら俺たちの仲が気に入らないからって、犯罪行為に手を染めるのもどうかと思うぞ! それに、俺は梨音にたぶらかされてなんかいない! 俺たちは正真正銘対等な恋人関係だ!」

「……」


 二人は話を続ける俺を黙って見つめていた。と思ったら……


「ねえ、るーちゃん? どうして名前で呼んでいるの……?」

「あっ……」

「前まで門矢さんって呼んでいたのに……」

「はーっ……」


 俺は紫苑の震えた声にひるみそうになったが怯まず、話を続けた。


「後、前々から思っていたんだが……紫苑のそういう情緒不安定なとこ、前々から迷惑していたんだ! それになにかにつけて俺に纏わりついてくるし……もううんざりだ! 俺は情緒不安定になる前の、小学校の頃の優しいお前が好きだったのに! こんなに変わってしまったお前のこと、正直気持ち悪いとも思っているよ。じゃあな。しばらく関わらないでくれ!」


 俺はそう吐き捨て、紫苑の前から去って行った。


「おい、瑠夏! 待てよ!」


 充希が俺を呼び留めていたが、今は紫苑と離れたい。だから、敢えて聞こえないふりをした。


「るーちゃん……紫苑、るーちゃんに嫌われた……本当に本当にるーちゃんに嫌われちゃったんだ……あはははははははははははははは! 紫苑、るーちゃんに嫌われちゃったよぉ! あはははははははははははははは!」


 そして、狂った笑い声が聞こえてきたが、そんなの知ったことではない。俺はまた聞こえないふりをし、逃げるように、走り出した。

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