生命の谺 発達障害者として。

第11話 少年Aとは違う私

私は今まで、発達障害への偏見で苦しんできた。


 その主な偏見は『発達障害の人は犯罪者になる』といったもので、報道や出版物で何度も傷ついてきた。


 この文章を読んでいる方も、過去に発達障害が主に少年事件と関連があるような誤った報道がされ、目にした経験はあるだろう。


 私自身、小学校の卒業式の前で『お前はあの事件の少年Aと同じアスペルガー症候群だから危ない。自分から死ぬべきだ』とよりによって、みんながいる前で担任の男性教諭から叱責された。


  私自身はホラー映画も今でも好きではないし、その頃だってもっと好きでもなかった。共通点はその元少年Aと同じアスペルガー症候群があるという点くらいで、担任の悪意によって、12歳の私の心は大きく切り裂かれた。


 私立中に進学した私は再び、障害への偏見で悩むようになる。


 14歳の私はほんの些細なことで図書館に立ち寄り、少年犯罪の本を手に取った。


 ほんの少し、確認するだけだった。


 これがきっかけで人生が大きく狂うなんて微塵も思わなかった。


 


 あの日の秋の暮れの図書館を今でも鮮明に覚えている。


 その本を1ページ読んで、世界はたちまち暗転した。


 その本に書かれていたのは発達障害へのスティグマだった。


 


 今でもその嫌悪感は忘れられない。人の悪意がまだ身近じゃなかった私はこの日本でそこまでして、一定のグループを偏見で煽ることを信じられなかったのだ。


 まだ、2009年当時は『ヘイトクライム』や『ヘイトスピーチ』といった用語もなく、姿の見えない悪意に私は怯えた。


 2022年の日本は『正義中毒』や『自粛警察』などあの頃、感じていた悪意を時代が追い付いたかのように命名されている。


 まさしく、あの本の著者は事件に対する怒りのあまり、関係のない発達障害への正義中毒や自粛警察に侵されていたように思えた。


 まるで、罪を犯した彼ら/彼女らと発達障害の当事者を同一視し、彼ら/彼女らの犯した罪に摺り寄せていた。 



 障害があるから、あんな残忍な事件を起こした、と単刀直入に主張し、巧妙に当事者を責め立てていた。

 特に最大の誤診だったと後に指摘される、豊川主婦事件殺害事件の事件当時は、新聞の大見出しで『思いやり欠落の障害 発達障害』と新聞などで大々的に報道され、多くの当事者が傷ついた。


 だが、この少年事件の少年は後に、岩波明の『発達障害』によれば、発達障害ではなかった、ということが証明されている。



要するに誤診だったのだ。

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