第4話
恋鐘は資料を手に持つと応接室を出ていく。
「お茶を片付けたらさっきの雇用契約へサインをして。社労士が来るまではデスクの整理を。契約関係が一段落したらこれからの仕事について一通り説明するから。おそらく君の初仕事は先程のクライエントの件になる。まだ実務に関しては私が指示するから、徐々に覚えて」
早口にまくし立てた恋鐘がさっさと自分のデスクに向かうので、緑栄は慌てて声を上げた。
「すみません、その前に色々と教えて欲しいんですけど」
「ああ、そういえばそんな話をしていたね。忘れてた。そもそも本当に大月先生から何も聞かされてないの?」
「はい。全部インターン先から聞くようにって」
「――インターン?」
ピタリ、と恋鐘が立ち止まった。
振り返った彼女は、綺麗な柳眉が歪むほど眉間に皺を寄せていた。
「インターンとは、なに」
「え? 職業体験のことですけど」
「そんなことを聞いているんじゃない。どうしてインターンなんて言葉が出てくると聞いてるの」
「それは、大月教授が就職に迷ってるなら三ヶ月だけ就職体験してみたらいいって、この企業を紹介してくれて、それで申し込んだ、んですけど」
緑栄はそこで声を出しそうになる。
恋鐘が物凄く剣呑な目つきで睨んできたからだ。
恋鐘が身じろぎする。「ごめんなさい!?」思わず腕で顔面をガードする緑栄だったが、彼女は単に自分のデスクに向かっただけだった。
ガチャンゴトンと物々しい音を立てながら恋鐘がデスクの上を物色し、手のひらでスマホを掴み上げる。それからどこかに電話をかけ始める。
だが、耳にスマホを当てた姿勢のままで一向に喋り始めない。相手が電話に出ないようだった。
「あんのタヌキ親父がっ」
くわっと目を見開いた恋鐘がスマホをデスクに叩きつける。その反動で重なる物がどんどん崩れていく。緑栄はその光景を呆然と眺める。まるでドミノ倒しみたいだ。
恋鐘は苛立たしげに髪の毛を掻き回す。せっかく綺麗になっていたのにまたボサボサになっていた。
「……君」ジロリと睨めつけられ、緑栄はビクリと肩を震わせる。
「担当教授からはインターン先を紹介された。三ヶ月の職業体験だと説明されていた。そうだね?」
「あ、は、はい」
「私が聞いたのは、自分の教え子を紹介するから雇ってくれ、という話だった」
「――はぁ!?」
素っ頓狂な声を出した緑栄は慌てて記憶を辿る。間違いない、高月との会話では就職するなんて話はしなかった。あくまで進学か就職かの参考にするという理由で、そのまま就職するなんてことを言った覚えはない。
「ど、どういうことでしょう」
「私と君とで聞かされてる話が食い違っている」
恋鐘がふんすと荒い鼻息を吐く。数秒経って、緑栄は、ようやく一つの事実に気づく。
「もしかして、騙された?」
でもなぜ。二人を騙す理由がわからない。
そのときポケットの中のスマホが振動する。取り出して確認した緑栄は驚き、画面を恋鐘に見せた。
「ちょうどボスからメール来たんですけど、これ……」
書いてあったのはこうだ。
『そろそろビックリした頃合いかと思うけど、進学か就職か選ぶための参考になるという話は嘘じゃないよ。むしろ就職を選んだらそのまま自動的に働く場所もゲットできるから一石二鳥だよね☆ ひとまずバイトでも何でもいいからそこでお試しに働いてみるといい。質問は受け付けないのでよろしく』
傍若無人そのものみたいなメールだ。意味もよくわからない。
しかしこの文面からは、大月教授が緑栄を騙していたことだけは伝わってくる。
「た、確かめます!」
「無駄だろう。質問は受け付けないって書いてある」
恋鐘が投げやりに言うが、緑栄は試しにメールを返してみた。数分待っても反応はなし。完全に無視されている。
「一体なんでこんなことを」
「おそらく、引き合わせたら何とかすると思ったんだろう」
恋鐘は椅子にどっかりと座り、天井を見上げて目頭を揉む。
「ここにはインターンのつもりで来た学生が一人。他に援軍はなし。私を助けるどころか、私を使って都合の良い展開にしようとしてるな。まったくあの先生はほんと」
「ええと、どういうことでしょう」
なにやら一人で理解し始めている恋鐘に問いかけると、彼女は天井を見上げたままでぼやく。「君は背後関係を知らないからわかるわけがないな」
「まず、私は使える人材を欲している。この会社は私一人で動かしているわけだが、さすがに一人ではきつくなってきた。でも人材募集をかけても全然集まらないんだ、これが。ようやく面接となっても、オフィスに来た途端にやっぱりいいですと帰ってしまう」
恋鐘は横目で緑栄を見る。「なぜだと思う?」
「……さぁ」
緑栄は半笑いで誤魔化した。明らかにこのオフィスの乱雑具合が原因だが、これで自覚症状がないのだからやっぱりこの女性は変人だ。
機嫌を損ねないうちに逃げたほうがいいかも、と天秤が傾いていく。
「そんなわけで恩師に泣きついた。有望な人材を斡旋してくれと。そしたら専門知識と技術を有した人間を寄越すと連絡があった。貰っていた情報からとても期待していたんだ」
恋鐘が一枚の書類を無造作に投げる。足元に落ちた書類を拾った緑栄はギョッとした。そこには緑栄の個人情報と共に、その人間が持つ資格や技能が箇条書きにしてあった。
しかし緑栄にしてみれば、どれもこれも身に覚えない。何なら大学時代からスタートアップ企業で経験を積んでいたことになっている。経歴詐称にも程がある。
本当になぜ大月教授はこんな嘘をついたのか。考えた緑栄は疑問に突き当たる。
「そもそも、龍造寺さんを騙す理由がな――」
「恋鐘」
声を遮るように恋鐘が強く言う。
「私のことは名前で呼ぶように。名字で呼ばれるの、何となく不快なの」
「えっ、あ、はぁ。じゃあ、恋鐘……さん」
さんづけにしてみたが恋鐘は特に嫌がったりする様子はなかった。これでいいらしい。つくづく変人だ。
「恋鐘さんを騙す理由がない気がします。恋鐘さんは即戦力を求めていたのに、教授はわざわざ学生を与えた。なぜでしょうか?」
「――さぁ」
恋鐘はつまらなさそうに呟く。だが彼女の表情はなにか言いたげというか、不満がありありと現れていた。思うところがある様子だった。
突っ込んでいいものか逡巡した緑栄だったが、そもそもそんな話をしたいわけではないことを思い出す。
お互いが大月教授に騙され、お互いの要望は無視されているのだから、これ以上の進展はない。
「あの、話はわかりました。では僕はこれで失礼します」
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