第3話
高橋がバッグの中から資料を取り出し、机の上に広げる。何やら個人情報を含めた小難しい説明文と共に表、グラフが並んだ書類が複数あった。
「クライエントは佐野洋平君、現在は十五歳です。依頼主は彼のお母様ですね。家族構成は両親二人ですが、彼が幼少期に再婚されています。今年度から私立高校に通っていましたが、五月の始め頃から腹痛や頭痛を訴えるようになり、そのまま休みがちになって現在はほぼ不登校になりました。心配になられたお母様から学校に相談があり、スクールカウンセラーとして私が派遣されカウンセリングを実施しています」
恋鐘が相づちを打つ。緑栄は目立たないように身を小さくしながら情報を整理する。現在は7月の後半だから、大体三ヶ月弱は不登校ということだろう。
「カウンセリングを通して把握した情報はこちらにも記載していますが、既往歴は特になし。腹痛、頭痛に関しては医師の診察により、心因性であることが十分に考えられるとの所見でした。心理的抑圧、過度のストレス、社会性不安障害などが原因で変調をきたし、登校拒否に到ったのではないかと考えています」
「ふむふむ」顎に手を添えた恋鐘が、資料の一つを取って読み始める。
「ということは、高校に入学してから彼に何か起こった?」
「そう、なるのですが」
今までスラスラと説明していた高橋が初めて言いよどみ、資料に目を落とす。
「真っ先に思い浮かぶのはいじめ、ですよね。きっと恋鐘さんも同じことを考えたんじゃないですか?」
「ええ。その線は調べたのですか」
「はい。いじめの事実はありませんでした。ご家族や先生方からの聞き取りでは、いじめが行われている形跡は確認できていません。彼も孤立していたわけではなく、それなりにクラスに馴染んでいたようです。中学時代の先生にも聞き取りを行いましたが、彼自身はとても聡明で活発なクラスの中心人物で、目立った衝突もなかったと」
緑栄は話を聞きながら内心で首を傾げる。家族、教師からの聞き取りだけでいじめがなかったと断定するのは早計じゃないだろうか。陰湿で狡猾ないじめは、大人の目には映りにくい。外からは仲が良い関係だと見えていても、影では悲惨なことになっているなんてよくある話だ。
だがそんなことを指摘するのは恐れ多いので、黙って心の中に留める。
「ただ、少し気になる点はありました。彼が入学した私立高校は通っていた中学からの友人が一人もいない環境で、やはり一人の時間が多かったそうです。なんとか打ち解けようとしていたそうですが、ノリが合わなかったというんでしょうかね。冷ややかに受け止められて恥ずかしい思いをしたようなんです」
それもよくある話だった。ある環境で面白がられていた行動が、別の環境になると途端にウザがられるなんてこと、緑栄も心当たりがあったし見聞きする場面もあった。
「少ないですが彼自身とのカウンセリングの中でも、学校の雰囲気が合わないとか面倒になったっていう言葉はありました」
「だけど、友人はできていたんでしょう」
恋鐘の確認に、高橋は頷き返す。
「ええ、休み時間に一緒に居る子たちはいるようです。ただ彼に言わせると、単に一人が嫌だったから一緒にいただけで、本当は喋りたくもなかった、と漏らしています。この情報だけなら、無理をしてきたことの反動かな、なんて思うんですよ。偏差値の高い進学校だったからか、結構頑張って受験したみたいです。それでいざ入ってみたら現実はうまくいかなかったとなって、ガックリきてしまうことは考えられます」
「でも登紀子さんはそう断定できない。だから私のところに来たんでしょう?」
恋鐘の指摘に、高橋は苦笑いを浮かべる。
「そうね、その通り。今まで似たような子の支援を行ってきたけれど、彼はちょっと違う気がする」
「違うとは?」
恋鐘と高橋の視線が緑栄に向かう。そこで初めて、自分が無意識に問い返していたことに気づく。
「す、すみません、口を挟んで」
「いいんですよ。気になったことはぜひ聞いてください」
高橋のにこやかな反応に内心ホッとする。
「違うと思ったのは、そうですね……自分の身の回りのことを話してくれたから、でしょうか」
「え? 話すと駄目なんですか?」
「引きこもる子達のほとんどは何をする気にもなれない、他人を信用していいか判断する力も失っています。だから満足な会話をするにもとても時間がかかります。しつこくすれば一気に扉を閉ざしてしまうから、じっくりと向き合う必要があるんですよ。そうした経験則からすれば、洋平君は短期間で私に色々喋ってくれた方です。でも決して良い傾向には思えなくて……」
そこまで語った高橋は一旦区切り、緑栄をじっと見つめて聞いた。
「たとえば、あなたが不快に思う同級生が居たとします。それを、出会って一ヶ月ほどの他人に相談しますか?」
緑栄は、質問の意図が読めず戸惑いながらも考える。
「時と場合、いや人によるとしか。打ち明けてもいいと思った人だったら、できるかも?」
「そう、通常の状態ですら躊躇いが生じるのが普通です。ましてや精神的に危うい状態の子が早々に他人を信じてくれるのかな、と……私は、自惚れるつもりはまったくありません。ただ彼の状態が本当に考えている通りなのか自信がなくて。それで恋鐘さんに彼を見てもらいたいと思ったんです」
後半は熱のこもった声だった。しかし恋鐘は一つ頷くだけで、資料に目を落としている。その瞳には理知的で淡々とした光があった。
「経緯はわかりました。親御さんは、私が介入することに理解を?」
「ええ。最初は渋られましたが、現状が変わらないことに焦りを覚えているようで。何でも試したいと、受け入れてくれています」
「焦っていますか」
「そうですね……どの親御さんも、我が子が引きこもりになれば少なからず冷静さを欠くものです。クライエントには良くないので家では落ち着いて振る舞ってもらっていますが、やっぱり不安だからか毎日のように相談の電話が来ます。早く学校に復帰してほしい、って。彼女はきっと、母親としての使命感みたいなものが強いタイプなのだと思います」
「使命感、ね」
恋鐘の声に含みがあった。何となく気にかかったが、恋鐘は更に続ける。
「診断書はこれですね。投薬については?」
「未成年ということもあってお医者さんは慎重です。抑うつ状態で、イライラ感が目立つことから漢方や睡眠薬の処方に留めています」
「正しい姿勢だと思います。未成年へのうつ病治療薬の効果は成人よりも低いとされている。投薬後のリスクベネフィットを考えれば、まずは個人精神治療や認知行動療法を試した後のほうがいい」
「ええ、精神科の先生も同意見です。だからこそ、私はあなたを頼っている」
「承知してますよ」恋鐘が微笑して頷く。
二人はそれから幾つかの専門的な話をした後、なにやら日取りを決めていた。その後に高橋が立ち上がる。
「では私はこれで。当日はよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
恋鐘も立ち上がって応接室のドアを開ける。高橋はそのまま通っていこうとしたが、恋鐘の横で立ち止まる。
「……私ね、仮想認知療法には期待しているんです。あれだけ荒れていた息子を高月先生が、仮想認知療法が救ってくれた。間近で見ていたからこそ、きっとたくさんの子達が救えると思うから」
高橋は高月と言った。その名は研究室のボスの名字ではないだろうか。
しかし情報科学科の教授である高月は医療関係者ではない。VR技術と認知科学の関係を研究していても、仮想認知療法を実施しているなんて話はこれまで聞いたことがない。
「善処します」
恋鐘は淡々と応える。その言葉は控えめで、決して他人を励ましたり安心させる類のものではない。
それでも緑栄は、彼女の凛とした姿勢から絶大な自信を感じ取った。
高橋はもう一度頭を下げて、応接室を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます