第2話

 廊下から顔を覗かせたのは、人の良さそうな中年の女性だった。


「あら。恋鐘さん、もしかして先客かしら?」

「ああ、登紀子さん。もう打ち合わせの時間でしたか。いえ、彼は違います。どうぞお入りください」


 恋鐘と中年の女性とは顔見知りのようだった。やり取りを中断させられた緑栄はその様子を眺めているだけだったが、彼の肩を恋鐘がぽんと叩く。


「話は後回しにしよう。私はちょっと身支度してくるから、君は彼女を面接室にお通しして。給湯室にお茶があるからお出ししなさい」

「え、僕が?」


 いきなりの指示に面食らうと、恋鐘がジロリと睨めつける。


「他に誰がいる。君はこの会社の従業員だろう?」


 それはそうだが来たばかりで何も分かっていない。などとツッコむ前に「よろしく」と言って、彼女はオフィスにある別のドアを開けて出ていってしまった。

 取り残された緑栄は玄関の女性の方を向く。女性は見知らぬ男に困惑と警戒を滲ませながらも、社交辞令的な笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。

 緑栄もまたぺこりと頭を下げる。何なんだあの人は、と心中で悪態を吐きながら。


***


 龍造寺ブレインテック・メンタルケアテクノロジーズが借りているフロアには、物が散乱しているオフィスと、テーブルとソファーしかない小さな部屋の二部屋しかなかった。部屋と部屋は廊下で繋がっており、その廊下の間に給湯室とトイレがあるだけ。

 小さな部屋がおそらく恋鐘の言っていた面接室なのだろうと当たりを付けた緑栄は、中年の女性を部屋に通したあと、狭い給湯室で何とかお茶を探し出して煎れて、応接室まで運んだ。

 女性の前に湯飲みを置き、一応恋鐘の分を対面のソファーの前に置いた緑栄は、手持ち無沙汰になってお盆を持ったまま部屋の脇に立つ。


(……なし崩し的に手伝ってるけど、まずいよなぁ)


 インターンシップ先であることは間違いない。所長である恋鐘も、今日から就業体験に学生が来ることを認識していた。

 しかし想像していた展開とまるで違う。大きな問題は、この会社に恋鐘という女性が一人しかいないことだ。なぜ彼女一人なのかは分からないが、逆説的に小規模な会社であることを意味している。こんな環境と規模で学ぶことなどあるのだろうか。

 大月教授が斡旋した理由もわからない。普段から捉えどころのない人だと思っていたが、今回は一層わけが分からない。なにか担がれていやしないか。

 ぐるぐると疑心暗鬼に思考を費やしていると、お茶を飲んでいた中年の女生と目が合った。


「あなた、新しく入った職員さん?」

「えっ、あー、えーと」


 答えに迷っていると女性が苦笑いした。


「凄いでしょ、恋鐘さん」

「凄い、とは」

「ほら、あんな感じだし。ついていくの大変じゃない?」

「あぁ……まぁ」


 緑栄は曖昧に受け答えする。ただ、女性が言わんとしてることは何となく察せられることだった。


「でもちょっと安心した。彼女、人一倍頑張り屋だったし、あっちの部屋もあんな風でしょ? サポートしてあげられる人がいたらなってずっと思ってたの」

「はぁ」


 よくわからず生返事をすると、女性が今気づいたように口元を手で覆った。「あらいけない」


「私ったら、自己紹介がまだでした。こういう者です」


 女性はバッグから名刺入れを取り出して立ち上がる。戸惑った緑栄だが、断るのも申し訳ないので一応受けとっておくことにした。

 名刺には、<スクールカウンセラー 高橋登紀子>と書いてあった。

 スクールカウンセラー。学校で問題を抱える生徒、もしくは教師や親などの相談やメンタルケアを請け負う専門職員だ。

 この企業は心理療法を扱うから、同じような専門職の人が来てもおかしくはない。ただ学校関係というのがピンとこなかった。医療クリニックみたいに、外来患者を受け付けるイメージを持っていた。


「お待たせしました」


 応接室のドアが開かれる。名刺を持ったままの緑栄は顔を向け、目を瞠った。

 そこに居たのは龍造寺恋鐘その人だが、先程までの姿とまるで違う。ボサボサだった髪は綺麗に整えられてポニーテールでまとめられている。頬にもほんのりと赤みが差して生気があった。身だしなみはブラウスにスラックスのままだが、着替えてきたからかぱりっとしている。

 細見で長身だから、キャリアウーマン然とした雰囲気がある。眼鏡をかけていないところを見るに裸眼かコンタクトに変えたのだろうが、それだけでもずいぶんと印象が違って見えた。


「いつもお見苦しくてすみません」


 恋鐘が微苦笑すると、高橋というスクールカウンセラーは「いえいえ」と首を振って着席する。驚きがまるでない。恋鐘の言葉通り、その変貌っぷりを見るのはこれが初めてではないようだ。

 恋鐘は颯爽と歩いて高橋の対面に座る。と、突っ立ったままの緑栄に気づいた。


「君も座りなさい」


 恋鐘は自分の隣のスペースをぽんぽんと叩く。

 まだ部外者でいたかった緑栄は迷う。ここで話を聞いてしまうと本当に関係者扱いになる。


「ほら早く。話が始められない」

「……はい」


 だが、圧力に屈しやすいのが緑栄という人間だった。己の優柔不断さを恨めしく思う。


「彼のことは気にしないでください。後学のために同席させているだけですので。もちろん守秘義務は彼にも発生します」

「そうですか、わかりました」


 恋鐘はそう言うが、契約はまだ交わしてない。不安がずんずん増していくものの、ここで問い詰める勇気もないのが緑栄だった。


「先にお伝えしていた通り、現在受け持っている不登校児についてのご相談です」

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