龍造寺恋鐘は気づかせたい

伊神一稀

エピソード0 龍造寺恋鐘との出会い

第1話

 ドアを開いた先には混沌があった。

 決して誇張表現ではない。天宮緑栄あまみやつかさの目に映るのは、雑然とした物という物の山脈。

 銀色のラックには所狭しと電子機器が押し込められ、本棚には書籍と書類がぎゅうぎゅうに押し込まれている。小さなオフィスフロアの中央に設置されたデスクの上には書類の束、何色ものファイル、大小様々なケースが積み重なっている。しかもところどころにぬいぐるみやらチェス盤やら服のジャケットが混ざっているという、なぜこうなったとしか言いようがない有様だ。


(ここで、間違いないんだよな?)


 ドアを開けて立ち尽くしていた緑栄は、ポケットに入れていた名刺を取り出す。

 「株式会社 龍造寺ブレインテック・メンタルヘルスケアテクノロジーズ」という長ったらしい名前の後に「所長 龍造寺恋鐘」という名前が書いてある。その脇には住所と電話番号の記載もある。

 スマートフォンを取り出してマップを確認する。検索した住所はこの建物をピンで示している。

 緑栄は更に念を押して、廊下につけられたプレートを確認する。「龍造寺ブレインテック・メンタルヘルスケアテクノロジーズ」とゴシック体で書かれてある。

 鈍い音が鳴りそうな動きで部屋に向き直る。午前中だというのに部屋の電気は点いておらず、ブラインドの隙間から漏れる陽の光で埃がキラキラと反射していた。

 

(ほんとにここが、インターン先の企業……?)


 天宮緑栄は大学院2年目だ。専門は仮想現実――VRヴァーチャルリアリティと呼ばれる技術を応用したサービスとその社会的、人的影響を研究している。そして目下、自分の進路を模索中だった。

 博士課程に進むか就職するかで悩んでいたとき、所属する研究室のボスこと大月教授から、良いインターン先があると紹介してもらった。曰く、VR技術をメンタルヘルス改善や精神病治療に応用する「仮想認知療法」を実施している企業があって、博士課程に進むにも就職するにしても参考になるし、修士論文の執筆にも役立つだろう――とのことだった。

 

 緑栄にとって、医療関係はできれば関わりたくない候補だった。けれどボスの推薦でもあるし、修士論文を書くときのデータ入手や実例を示せるのは魅力的ではあった。

 悩んだ末、ボスに押し切られる形でインターンシップに申し込んだのが、今から三日前。

 三日後にこんな光景を目にしているなんて、欠片も想像していなかった。もっとこう、ハイスペックマシンが並んでいて、白衣を着た社会人達がコーヒー片手に高度で専門的な会話を繰り広げているものだとばかり思っていた。

 ここにはハイスペックマシンも、なんなら人の姿も見当たらない。というか普通に誰も居ないので留守かもしれない。時刻は十時を過ぎていて、とっくに始業していてもおかしくないのに。


(――帰ろうかな)


 この有様を前にして、そんな考えが浮かぶのは自然なことだった。

 誰も居ないのなら仕方がない。今ならまだ契約前で、断ることだって難しくない。

 緑栄が踵を返そうとしたそのとき、フオーン、という微かな排気音が聞こえた。

 音の正体を探ろうと目を凝らして、デスク下にある網目模様の収納ボックスから微かに光が漏れていることに気づく。チカチカと点滅する青色は、ハードウェアが稼働しているときの光だ。おそらくデスクトップだろう。

 ちゃんとPCがあったことに驚いた緑栄は、次の瞬間、別の意味で驚愕した。

 恐る恐る玄関から近づいてマシンを覗き込む。間違いない。

 レガリアV3モデルだ。

 第14世代Coreを搭載したハイエンドPCで、CPUもCore i10、ストレージはテラバイトを確保している。つい最近展示会でお披露目されて話題になっていた最新鋭のマシン。価格は軽く百万円を超える。そんなものがこの小さい汚フィスに設置されてるなんて。

 緑栄は目をこすり、収納ボックスにそっと触れる。稼働中なのか温い排気の風を感じる。

 きっと使用感は抜群にいいはずだ。モーションの調整もレンダリングもストレスなく動くだろう。研究室のマシンはスペック不足で、買い替える経費も出ないからずっと不満だった。

 触ってみたい。使ってみたい。そんな欲望が鎌首をもたげると同時に、疑問はより強くなる。


「なんでこんなところにレガリアなんて」

「ほう、マシンの価値がわかるのか」


 緑栄はビクリと肩を振るわせ、勢いよく立ち上がった。

 同時に、デスクに積もった物の山の上から、のっそりと人の頭部が現れる。

 女性だった。細い身体がブラインドから漏れる光で照らされている。おそらく緑栄と同じか、少し上の身長。

 しかし何より目を奪われたのは、そのボサボサの髪の毛だった。まるで髪の毛を濡らしてそのまま放置していた後のように乱れきっている。

 女性は眉間に皺を寄せ、かけた眼鏡の奥では鋭い眼光を携えている。


「泥棒かと思って様子を伺っていたけれど、どうやらその類ではないみたいだな。君は誰だ?」


 少し低めの凛とした声。その声が何を言っているのか、一瞬遅れて理解した緑栄は慌てた。


「違います! 泥棒じゃないです! あの、今日からここでお世話になる……」

「ああ、そうか。君が天宮緑栄あまみやつかさか」


 察したらしき女性の声に合わせて、緑栄はこくこくと何度も頷く。

 すると女性は腰に手を置き、目を眇めた。


「だったら“こんなところ”呼ばわりはよくない。君の職場になるのだから。あと挨拶はきちんとすること。一部始終を見ていたけど、無言かつ無断で入ってこられたら普通に警戒する」

「す、すみません」


 そのどちらも部屋の汚さに起因しているのだが、初対面で指摘していいものか迷った緑栄はつい謝ってしまう。

 「以後は気をつけなさい」と淡々と発した女性は、一枚の紙を持って緑栄の方まで歩いてくる。ブラウスにパンツという普通のオフィススタイルだが、何日も着ているかのようで皺が目立った。人も部屋も、全体的にだらしがない。不安が加速する。


「私は所長の龍造寺恋鐘りゅうぞうじこがね。君の上司になる人間だ」

「は、はい、よろし――え? 所長?」

「なんだ、私が所長ではいけない?」


 咎めるような響きに、緑栄はぶんぶんと首を振る。しかし内心では動揺していた。

 女性――龍造寺恋鐘はおそらく二十代、大きく見積もっても三十代に見える。こんな若い女性が所長の職責を担っているのは、日本的な感覚からすれば不思議だった。


「まぁいい。じゃ、早速だけどここにサインして」


 手渡された書類には、雇用契約書、と書いてあった。

 インターンシップは職業体験のはずだ。こういう場合も雇用契約を結ぶのが普通なのだろうか?


「ちゃちゃっと済ませて。この後は契約している社労士に来てもらって社会保険と厚生年金の手続きを行うから。でもその前に片付けかな」


 女性――この企業の代表者である龍造寺恋鐘その人は、レガリア3が置いてあるデスクを眺めてぼやくように言った。

 

「あの、サインの前に聞いてもいいですか」


 さっさと進めたいという気配を感じて若干焦る。さっきから想像と食い違い過ぎている上に、引っかかることが多い。頭の中でアラートが鳴りっぱなしだ。


「もう就業時間を過ぎていると思いますけど、他の社員さんはまだ出社されていないんですか?」


 「他の社員?」恋鐘が首を傾げる。


「なにを言ってるんだ。当社の従業員は私一人しかいない」

「えっ」

「ああ、今日から二人になったな」

「えっ」


 指を差されて唖然とする緑栄の様子に、恋鐘が眉をひそめる。


「おかしいな。大月先生に詳しい話を聞いているだろう?」

「ええと、その教授からですけど、詳しい説明は会社に行ってから直接聞くことになっていると」


 一瞬の間が空く。お互いの言い分に食い違いが生じている。


「あの」

「待て」


 二人の声が重なったとき、ピンポンとチャイムが鳴った。

 

「ごめんください」


 控えめな言葉と共に、玄関のドアが開く。

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