第5話

「? なぜそうなる?」

「だって、僕は求めていた人材じゃなかったわけですよね。恋鐘さんはインターンを取るつもりもないわけだし。今回の話はなかったってことで」


 緑栄は鞄を背負い直し、そそくさと玄関のドアに向かう。一刻もはやくこの場を去りたかった。


「待ちなさい君」


 背後でガタンドタンと物凄い音が鳴ったと思ったら、目の前に人影が現れた。ドアはすぐそこという段階で人影に立ち塞がられたせいで、緑栄は歩くスピードが落とせずその人――恋鐘にぶつかってしまう。


「わぷ」

「誰が帰っていいと言った?」


 当たったのに柔らかい感触。しかもいい香りがする。

 確か彼女は自分より少し背が高い。つまり自分の顔面はだいたい彼女の首筋か胸元あたりにある――。

 勢いよく顔を離すと、後頭部を鷲掴みにされ脇に抱えられた。


「ち、ちょっと!」

「人が結論を出す前に帰るんじゃない」


 人の頭を脇に抱えながら恋鐘が淡々と喋る。

 緑栄はといえば、逃してくれない状況にいい香りと柔らかい感触が合わさってパニック。


「――思惑は理解できる。技術水準を二の次にするなんてあまりにも失礼な話だけど、好きに使えという思惑だろう。それで教育のつもりなのかは甚だ疑問だが、何もないよりはマシ、と考えるべきか? それに院生とはいえあの大月先生が選んだ人材だ。期待値もなくなはない」


 恋鐘がぶつぶつと独り言を漏らしている間、ヘッドロック状態の緑栄はずっと地面を眺めさせられていた。どうしてこうなったのかまるで分からない。

 すると恋鐘が、盛大なため息を吐いて、観念したように言った。「仕方ない」


「私は腹立たしいよ。とっっっても腹立たしい。が、こちらも事情が事情だ。もう一度人材を探す余裕はない。ということで君には申し訳ないが、先生の奸計に乗って事を運ばせてもらう」


 そして、恋鐘は言い放った。


「君を採用しよう、天宮緑栄あまみやつかさ


 混乱する頭に入ってきた言葉で、緑栄は冷静さを取り戻す。


「なにを言ってるんです? 僕は教授に騙されてここに来たんですけど」

「うん。だから申し訳ないと言ってる」


 待て待て待て。

 緑栄は逃げようと身じろぎしたが、ヘッドロックは解除されない。本気で逃さないつもりだ。


「うちにも事情があると言ったろう。もう君を雇うしかない」

「何でそうなるんですか!? 大体求めてる人材じゃなかったんでしょう僕は!」

「将来に期待することにした。それにね君、応募がなかったり面接で逃げられるのはかなり虚しいんだぞ。この私ですら心が折れかけている」

「そんなの知りませんよ! 僕だってこんな感じで将来決めたくないですよ!」

「据え膳食わぬは男の恥って言うだろ?」

「意味が違うっ!」


 そのとき、恋鐘が掴んでいた手を離した。

 緑栄は即座に距離を取って汗ばむ首元を手の甲で拭う。

 「強情だな君も」呆れ気味の恋鐘だったが、やはり彼女は玄関ドアに立ち塞がって離れない。


「だが確かに、将来ある若者の未来をこちらが決めるわけにはいかない」


 腕を組んで考える仕草を取った恋鐘は、ややあって思いついたように指を弾く。「ではこうしよう」


「予定通り、三ヶ月のインターンシップを行う。その職業体験が終わったあとで、就職するかどうかを決めてほしい」


 緑栄は眉をひそめる。これまでと言っていることが違う。


「インターンシップなんて、やるつもりなかったんじゃないんですか?」

「そうだね。人に物事を教える余裕はない。教育なんてしたこともない。だから文字通り体験をしてもらう。私が行っている<仮想認知療法>がどういうものか。VRがどうやって人の心を治すのか。私たちが作った偽物の現実がどうやって人を救うのかの過程。君は私の横で、それを見ているだけでいい。もちろん映像制作では手伝ってもらうけれど」


 さっきとは打って変わって、譲歩した条件提示だった。

 だがいくら歩み寄りを見せても、これまでの流れからはいわかりましたと素直に頷けるはずはない。


「仮に三ヶ月経過したとして、僕が大学に戻りますって言うかもしれない。そしたら三ヶ月は無駄になるんですけど」

「構わない」


 断言された。なにか裏があるんじゃないかと邪推してしまう。


「本当はこんな考え微塵もなかったけれどね。時間も限られているのに三ヶ月を棒に振るなんて、考えるだけで腹立たしい」

「だったら、なんで」

「君を見ていたら少し気が変わった」


 恋鐘が微笑む。緑栄はドキリとした。それはどういう意味だろうか。


「それにね。君という人間の心を変えることは、私の目的とも合致する。三ヶ月間の実験期間と考えたら決して無駄じゃない」

「ど、どういうことですか」

「おいおい話すよ」


 はぐらかされて、緑栄は続く言葉を見失う。

 「それでどうする」恋鐘は答えを求めてくる。


「いや、でも、僕は」

「まだ決断できないか」


 恋鐘はやれやれと肩をすくめる。さっきから気になっていたが、彼女はとても見目麗しくスタイルもいいのに、行動は大ざっぱだし言葉遣いも男っぽい。女性らしい仕草に気をつけたら更に魅力的になろうものなのに、不思議なくらい無頓着だ。

 緑栄が黙っていると、恋鐘はうーんと唸った。そしてなぜか自分の胸を両手で持ち上げて首を傾げる。何をしているのかこの人は。


「うん、やっぱりあっちだな」


 独白するように言った恋鐘は、すっと細い指を上げる。

 彼女が指さしたのは緑栄の後方、物だらけのデスクの下。


「私の提案を受けてくれるなら、あのマシンの使用権を君にあげよう」


 一瞬呆けた緑栄は、弾かれるように後ろを向く。それからまた恋鐘の方を向き、瞠目する。


「あのって、あのレガリアを!?」

「うん」

「僕に!?」

「うん」


 恋鐘がニヤリと笑う。狙った魚が釣れたかのように。


「興味はあるんだろう?」

「それは、そう、ですけど。でも本当にいいんですか? 百万近くするんじゃ」

「壊さなければいいよ。というか仕事で使うし」


 緑栄は唾を飲み込む。正直、喉から手が出るほど欲しいマシンだ。個人では到底買えない代物で、きっと様々なことが試せる。


「ここに就職したら、あれが貰える」

「そうじゃない。インターンシップに参加してくれる時点から、と言っている」


 電撃が駆け抜けていった。

 なんだそれは。そんな好条件があっていいのか。あのPCを何だと思っているんだちゃんと価値がわかっているのか。

 いや。むしろ分かっていないからこそあんな雑に扱って、他人にあげるなんて言うのかもしれない。

 

「で、どうする?」


 余韻を含む問いに、緑栄はぐっと拳を握りしめる。

 悔しい。悔しすぎる。うまいこと手のひらの上で転がされている気がする。

 だが――就職するわけじゃない。

 あまりにも不審すぎる会社に所属するのは気が引けるが、三ヶ月我慢するだけだ。

 恋鐘という変人が人の心を治しているというのも胡散臭いが、大月教授の推薦なら詐欺まがいのことはないはず。実績やら実情が想像以下の可能性はあれど、むしろそういう部分も見ておいて損はない。

 さっきの引きこもりの少年の件もある。ここまで話を聞いて逃げるのは寝覚めも悪い。せめて少年の件がどうなるのかくらいは見届けてもいいかもしれない。

 固く唇を引き結んでいた緑栄は、迷いに迷った末――こくりと顎を引いた。


「交渉成立、だね」


 恋鐘が満足気に笑っていた。


 このとき緑栄は気づいていなかった。

 最初はインターンするかどうかという選択肢だったはずなのに、三ヶ月間我慢するかどうかという選択肢にまんまとすり替えられていたことに。

 それこそが龍造寺恋鐘の誘導術だと知ることになったのは、もう少し後のことになる。

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