第3話 浦嶋太郎②
御殿には40畳ほどの大広間に居間、寝室は5部屋あった。ほかに温泉の露天風呂が2つにシャワールームが2つ、浜へと少し下りれば砂風呂もあるという。
いったい1泊でいくらかかるのか、
夜の食事は広間で始まった。40畳に3人ではいかにも寂しいと、鶴亀万年は宴会コンパニオンやら土地の芸人やらを呼び込み、夕食はやがてどんちゃん騒ぎの大宴会と化した。
司馬太郎はといえば当初、事の成り行きに戸惑っていたが、鶴亀万年がひとりで宴会に興じているのを見て、もっぱら
朱美もほどよく酔いが回っているようで、司馬太郎の話に時おり司馬太郎の肩や背中、膝などに手を添えてよく笑った。司馬太郎は朱美に触られるたびにそこの部分が熱く火照るのを感じ、そしてそれを噛み締めるように堪能した。
「いやいやいやいや、こんなときに無粋ですんませんが、お二人ともこちらにサインをして頂けませんか、忘れんうちに。旅館がですねぇ求める確認書です、ええ」
軽い陶酔状態にあった司馬太郎とほろ酔いの朱美の間に、大分酔っている様子の鶴亀万年が割り込んできた。司馬太郎はムッとしたが彼がこのイベントの強大なスポンサーであることを思い出し、顔に出すのは辛うじて抑えた。
しかし邪魔をされたという意識は拭えない。早いとこきゃあきゃあと嬌声をあげているコンパニオンのところへ戻って欲しいものだと思った。
「確認書、ですか?」
「確認書っていっても、旅館での一般的な禁止事項を確認しましたっていう署名ですよ。ほら、この旅館、広くて開放的で自由度が高いでしょう? ときどき羽目を外し過ぎて粗相をするお客がいるらしいんですよ。それでね、トラブルにならないように一筆入れるってのがここのルールなわけです」
「なるほどね」
そう言ったのは朱美だった。
「良い方法ですわ。うちのスナックのお客さんにも毎回書いてもらいたいくらい。…もちろん、司馬さんは…別ですよ」
朱美は差し出された確認書を受け取ると、膝の上ですらすらと署名をして司馬太郎に流し目をくれた。
「あぁ、早速に有難うございます。お楽しみのところをお邪魔しました。ではでは」
鶴亀万年は中腰になって手刀を切ると、そそくさと二人から離れていった。
司馬太郎はそれからのことを実はよく覚えていない。ただしかし、ひとつだけはっきりしているのは、その夜、朱美とは結ばれなかったということだ。
「酔っちゃった」と言ってトイレに立つ朱美の足元が心許なく、司馬太郎は肩を寄せて付き添ったのだったが、朱美はトイレまで行かずに自分の部屋の前まで来ると司馬太郎の腕からするりと抜けて部屋に入り、後ろ手に素早く引き戸を締めカチャリと鍵を掛けたのだった。
狐につままれたような気分になって司馬太郎はただだらしなく笑ったわけだが、次に気がついた時には自分の部屋で大の字になって寝ていた。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえている。
朝食の広間で、朱美に悪びれる様子はなかった。
「昨晩は部屋まで送ってくださって有難うございました。あんまり楽しくてつい飲み過ぎてしまいましたわ。ずいぶんと酔ってしまっていたでしょう? 恥ずかしいわ」
そう言うと丁寧に頭を下げるのだった。
そんなふうにされると
*****
まだしばらくここに滞在するという鶴亀万年は、帰り際にちょっと高価そうな木箱を携えて玄関に現れた。
「これ、ちょっと荷物になってしまいますがお礼です。ウチの謹製の菓子なんですが、どうぞお持ち帰りください」
「いえいえ、旅行までさせていただいて、そのうえにそんなお土産まで…」
司馬太郎は遠慮したが鶴亀万年は引かない。
「いえ、
「命の恩人って、そんな大袈裟な」
「決して、大袈裟ではありません。ささ、どうかどうかお受け取りください。…ただ、ひとつだけ注意してほしいことがあります。この菓子は手前味噌ではありますが特製品で希少価値があります。決して家に帰るまでは開けないでください。わかる人にはわかりますから、もしそうなるとちょっと面倒なことになります。くれぐれも手提げ袋からも出さないよう注意してください」
京菓子『鶴亀』はそこまで有名な老舗和菓子屋なのだろうか。司馬太郎は少し違和感を覚えたが、もっとも司馬太郎には老舗和菓子店の知識が皆無だから知らないだけで、ひょっとして偏執的な京菓子マニアに襲われないとも限らない。注意は素直に聞くが良かろうと思い直した。
司馬太郎は恭しく木箱を受け取ると、米つきバッタのように頭を下げつつ空港までのハイヤーに乗り込んだ。もちろんハイヤーは鶴亀万年が手配したものだ。そして隣には氷芽朱美が座っている。
空港までは1時間半を要したが、高級セダンの乗り心地と
途中、
なるほど、そういうものかと司馬太郎も微笑みを返し、そして朱美のことをさらに好ましく思ったのだった。
その朱美は空港に着くと、せっかくだから自分は四国まで足を延ばす、と言って司馬太郎にあっさりと別れを告げた。司馬太郎も一緒に行きたいのは山々であったが断念せざるを得なかった。ヒラの若輩サラリーマンが急に休暇を取るなど許されることではなかったし、そもそも資金力は常に限界状態にある。司馬太郎はフツウの人間である我が身を呪った。
司馬太郎はひとりぽつんと機上の人となり、退屈に苛まれる時間を過ごしつつ待つ人のいない羽田空港に降り立った。
孤独な身の上に感想はなかったはずの司馬太郎の胸に、この時ばかりは僅かではあるが寂しさの痛みが疼いていた。
空港から私鉄、JRを乗り継ぎ、途中下車して昼食を摂るなどのんびり帰っていたら、最寄りの駅に着いたころにはもう夕方になっていた。バスに乗り土産の菓子折りと荷物を膝に座ると、ようやく落ち着いた気分になった司馬太郎はいつしか舟を漕ぐのであった。
(③へつづく)
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