第3話 浦嶋太郎①

 うら司馬しま太郎たろうは天涯孤独の独り身だ。

 母親は半年前に急性心筋梗塞で呆気なく亡くなってしまった。父親は元々いない。いや、いるのだろうが司馬太郎は認知されなかったのだそうだ。母親はそのかわりに父親からいくばくかの金と都心の一等地に建つこの家を借りる契約をして、シングルマザーになることを決心したらしい。

 どのようなてかわからないが、母親は親戚づきあいを全くしていなかった。だから司馬太郎は頼るべき親戚も知らない。

 

 司馬太郎はしかし、寂しくはなかった。孤独には馴れていたし、むしろそれを愉しんでさえいた。彼はまだ26歳の新米サラリーマンであったが生活に困るということはなかった。住む家もあり土地は借地であったがすべて無償との契約なのであった。

 もしかしたらその所有者が彼の父親なのかもしれなかったが、母親は何も言わなかったし彼も敢えて調べようとは思わなかった。いまさらそれを確認したところで何の感情も湧かないだろう。むしろ現状が壊れることを司馬太郎は恐れた。


 司馬太郎は月に1回ないし2回、繁華街にあるとあるスナックへ行くのを楽しみにしていた。本当は毎日でも行きたいくらいだったが、それは彼の給料が許さなかった。

 司馬太郎がそのスナックに行くのには理由があった。ホステスの氷芽ひめ朱美あけみに会うためだ。彼女は清楚な佇まいの中にも艶めかしさを感じさせる、相反する美しさを兼備した個性的な美人であった。店に入ると真っ先に駆け寄りハグしてくれる朱美に、司馬太郎はほのかな夢を見るのであった。


 4月から5月に連なる大型連休に突入するその前の日。司馬太郎は2週間ぶりにそのスナックに行くため夜の繁華街を歩いていた。スナックは繁華街のはずれ、その喧騒が遠くに聞こえる少し薄暗い路地にある。

 司馬太郎はいつものとおりウキウキと路地に入ってしかし、すぐに足を止めた。複数の黒い影が一斉にこちらに振り向いたからだ。暗がりに白く浮かぶいくつもの目が邪悪な光線を放って、立ちすくむ司馬太郎を射抜く。

 数秒後、チッ、という舌打ちとともに黒い影は路地の奥へと消えたが、路地には背を丸めてうずくまる男がひとり残されていた。

 関りになりたくないと思いつつも、男を跨いでスナックに行くわけにもいかず、司馬太郎は男の傍にかがみ声を掛けた。


「あの、大丈夫ですか?」


 男はびくりと震え、恐る恐る顔を上げ辺りを見回した。


「あの男たちはもう行ってしまったようですよ」

「よかった…」


 男はそう言うといきなり司馬太郎の肩を両手で掴み、頭を激しく上下させ始めた。さながらヘヴィメタのヘッドバンギングを見るかのようだ。


「ありがとうっ、ありがとうございます。あなたのおかげでタコ殴りにされずに済みました。なんとお礼を言ったらいいか、本当に、本当に…」


 男の突飛な行動に驚いた司馬太郎は、カウンターを喰らったボクサーのように動揺し、完全に男に主導権を握られた。


「いえいえ、そんな。大丈夫ならそれでいいんです。では私はこれで…」

「待ってください。お礼を、ぜひお礼をさせてください。いやいや、それでは僕の気が済まないんで、ぜひ。どうかぜひともお礼を…っと、でももうこんな時間だし、差し上げられるような物も持ってないし…そうだ、そこのスナックに入りませんか。おごります。好きなだけ飲んで、好きなだけ寿司かなんかの出前を取っちゃってください。お金ならね、ありますから。さぁさぁさぁさぁ、どうぞどうぞどうぞ」


 男は司馬太郎の肩をがっちりと抱えながら立ち上がると、引き摺るようにして彼をスナックへといざなった。立つと男は案外と背が高く体つきもガッチリしていた。黒縁の野暮ったい眼鏡をかけていたが、その奥の瞳には気のせいかどこか険のある光が宿っているようにも見える。


「いらっしゃぁい」


 スナックのママと氷芽朱美の声が聞こえた。そう、そのスナックは司馬太郎が目指していたスナックであった。


「あら、司馬しまさん、今日はお連れさまとご一緒なの?」

「あ、いや、ちょっとこれには事情が」

「あれ? 兄さん、この店の常連さんだったんですか。ならちょうど良かった。今日は僕のおごりで皆さんどんどん飲んでくださいよ。出前もジャンジャンね。実はね、悪い男たちにそこで絡まれてるところをね、このお兄さんに助けてもらったんです。そのお礼なんですよ、これは」

「いや、助けたって言っても私は…」

「まぁ、司馬さんて優しいだけじゃなくて実は腕力もお強いのね」

「えと、いや、あの…うん」

「強さを敢えてひけらかさないって、本当に強い男の証拠ですね 司馬さん、また惚れ直してしまったわ、私」


 司馬太郎はまんざらでもなかった。多分に誤解を含んでいるし過大に誇張されてはいるものの、唯一の証人であるこの男がそう言うのだから否と唱える者はここにはいない。司馬太郎は調子に乗らない程度にただニコニコ笑っていれば、彼の評価はうなぎ登りに上がるだけなのだ。

 この男、名前を鶴亀つるかめ万年まんねんといった。芸名みたいだと思ったが、貰った名刺には『創業300年 京菓子鶴亀 営業顧問 鶴亀万年』とあってそれで納得した。この男は老舗和菓子屋のらしい。「次男坊ですからね、跡取りじゃあないし気楽なもんです。広告宣伝費と交際費はたんまり貰ってますし」などとうそぶく。


「いいですね。きっと営業と称して日本全国を旅して歩いてるんでしょう? 羨ましいわ」

「ほんとうですね。私なんか月に2回、このお店に来るだけで精一杯ですよ。たまにはゆっくりと旅行なんてしてみたいもんです」

「じゃあ、浦さん。一緒に行きますか、明日から鹿児島。鹿児島の指宿いぶすきに」

「へ?」

「明日からの6連休で指宿に行く予定なんですわ。よかったらご一緒しませんか。もちろん旅費は僕が全部持ちます。そや、朱美さんもどうです? 和風の広々とした旅館に温泉。砂風呂もあります。ゆっくりできますよ」

「え? 私も? でもお店があるし…」

「もちろん、休んだ分のお給料もお店の稼ぎ分も全部、僕が出しましょう。それならいいでしょう、ねぇ、ママさん。…ほら、いいって言うてるよ。行きましょうよ、そうすれば僕も楽しいし」


 老舗京菓子のお店というのはそんなに儲かるものなのだろうか。司馬太郎はいくらか訝しく思ったものの、氷芽朱美がはしゃいで行きたいと言い出したので考えるのをやめたのだった。


(②へつづく)

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