第10話

 直子なおこはしきりと首をひねっている。表情は笑っているのだが、どちらかといえば見ている側が薄ら寒くなるような類のものだ。

 太一たいちはさすがに心配になってきた。


「お前、ここに来る前に何か変なもん拾って食ったりとかしてないだろうな?」

 凍った。もともと妙な具合になっていた直子の笑顔が、破綻はたんの限界に達したように完全に動きを止める。


 太一は戦慄とともに理解した。

 これまでほとんど意識したことはなかった。たとえていうなら空気みたいな存在だった。たまに強く吹きつけることもあるが、普段はいないも同然の相手。

 だがそれは間違っていた。


「ふざけるんじゃねーわよ」

 直子は女だった。男が避けて通ることを許さない、美しき天敵。

「まあ落ち着け、ナオ、なっ」


 ゆらりと立ち上がった直子を押しとどめようと、両手を前に突き出す。しかし効果などあるはずもなく。

 太一がどうすることも出来ないでいるうちに、まるで剣の達人か何かのように直子は目前まで詰め寄ると、おもむろに胸ぐらを掴み上げた。


「うぐっ……」

 実際にはそれは特に運動をやっているわけでもない高一女子相応の力でしかなかっただろう。しかし太一はプロレスラーに首を締められているような気分になった。


「……ずっと、好きだったんだから」

 震える声音がこぼれ出す。

「子供の時から、ずっと、ずっと、ずーっと、好きだったんだ、からっ!」

 こぼれた雫はふくらんで、せきを切って流れ出す。もしも「いや知ってたけど」などと素で返そうものなら、きっと水圧でぶっ飛ばされる。


「絶対ター坊もそうだって思って、ただ今は自分の気持ちにもあたしの気持ちにも気付いてないだけで、でも時が来れば自然と通じるようになるんだって信じて、なのにター坊はちっともあたしのこと見てくれなくて、それで今度の七美ななみ先輩のことがあって、あーそうなんだって……。ター坊には他に好きな人ができちゃったんだ、だったら気付いてくれなくてもしょうがないかなって思って……。じゃあせめて応援してあげようって。ター坊のことが大好きだから、喜んでるとこが見たいから、協力してあげようって。……なのに」


 直子はぐずっとはなを啜り上げた。太一にしてみれば一方的な勘違いと思い込みの末に逆切れされているわけで、理不尽のきわみだったが、強いて抵抗しようとはしなかった。

 できないわけではなかったが。

 そしてこの少し後に。太一はそのことをいたく後悔することになる。


「……ねえ、ター坊は本当に七美先輩のこと好きじゃないの?」

「ああ」

「じゃあ、あ、あたしのことは……?」

「少なくとも、つきあいたいとか思ったことはない」


「なら誰が好きなの!? マユちん? クラスの子? あたしの知らない人? 答えてよ、ねえっ」

「って言われてもな。今はいないとしか答えようがねえよ」

「ひどいよ、そんなの……」


 直子の手に一層の力がこもる。強まる窒息感に太一は生命の危機を覚えたが、詫びを入れようにも怒りの出所が分らない。なぜ好きな相手がいないからといって責められなければいけないのか?

 さすがにそろそろ限界近い太一へ、頬を濡らした直子が疑問の答えを叩きつける。それは恋する乙女だけに許される超論理。


「昔からずうっと一緒にいるのに、なんであたしばっかりター坊のことが好きで、ター坊はあたしのこと好きじゃないのよっ。そんなの不公平じゃない! しかも他に好きな女の子がいるわけでもないなんて、そんなの絶対許さないんだから!!」


 突然、太一の目の前が真っ暗になった。何が起こったのかと不思議に思う間もなく、体が前のめりに崩れかける。

 太一の身体を引き寄せた直子が、股間に膝蹴りを食らわせたのだ。


 激痛に声も出ない太一の顔を直子は両手でがっきとホールド、そして押しつけられる唇。

 どのくらいの間、そうしていたのか。


 直子は手を放し、太一は沈んだ。既に転げ回るほどの痛みではなくなっていたものの、まだ立ち上がるのは無理だった。追加の攻撃が来ることにおののきながら、上目遣いに直子を見ると。


「へ、へへ。はは、あはははは」

 身体中の血が集まったかと思われるぐらいに真っ赤な顔をした直子が、ビンの底が抜けたみたいに締まりなく笑っていた。


 これは……完全に壊れたか?

 本気でこの場から逃げ出す算段をはじめた太一を、直子の視線がぎろりと捉える。股間を押えた間抜けな格好のまま太一は金縛りにあう。


「ざまあみろ、だ」

 直子が勝ち誇ったように言い放った。

「あたしがター坊の初めての相手だよっ。ほっぺたなんて関係ないもん、ファーストキスはあたしなんだっ。これからはもう、ただの幼馴染み扱いなんてさせないんだから!」


 一方的に宣言すると、直子は指先で自分の唇をなぞった。そしておもむろに顔を伏せると部屋を飛び出していった。階段を慌しく駆け下りる途中、「きゃっ」という悲鳴に大きな振動が続いて太一は肝を冷やしたが、すぐに玄関扉が開け閉めされる音が聞こえる。太一は一息ついて浮かせかけていた腰を落とした。

 ようやく痛みも引いてきた。床の上に大の字に引っ繰り返る。


「初めての相手、か」

 まるで泣きながら笑っているみたいな、怒りながら照れているみたいな、ついでに最高に嬉しそうな幼馴染みの顔を思い返して、太一の口元が自然と綻ぶ。


 ──けど全然初めてじゃねーし。

 とりあえず、明日のコンサートの時にはそのことは黙っていようと、太一は心に誓った。

                 (了)

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