第9話

「うん、分ったよ。自分で頑張るってことだね。ちょっと見直した」

 直子なおこは空々しく笑ってみせた。これは儀式なのだ。知らないうちに自分の方だけ止まってしまっていた時間を前に進めるための。


 太一は不審げに眉根を寄せた。やはり直子の気持ちは届いていない。太一たいちにとって自分はずっとただの幼馴染みでしかなかったのだ。

 本当に馬鹿だ、あたし。


 互いにとって互いが一番大切な存在なんだと一人で勝手に決め付けて。太一が直子の気持ちに気付かないのは、子供気分が抜けないせいだと思い込んで。

 本当は太一はもうとっくの昔に大人になっていたのに。


「あたし、太一のこと応援するね。上手くいくように祈ってる。いいよね、それくらいならしてもさ」


 そしてこの想いはずっと胸の内に秘めておく。

 いつかそう、何年も何十年も経って、子供や孫なんかもできて、二人がおじいちゃんとおばあちゃんになったら。

 打ち明けよう。


 あたしはター坊のことが好きだったんだよって。

 ター坊、どんな顔するかな?

 その時のことを想像するとおかしくて、でも真面目な話をしている最中に笑い出すわけにはいかなくて。頑張って、我慢して。

 そのせいで。

 涙が、こぼれそう。


「いや全然良くねえから」

「…………え?」

 直子はごしごしと目元を擦った。


「ごめん、良く聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」

「だからちっとも良くないって。なんだよその上手くいくように、とかってたわごとは。人の望みを勝手に捏造するんじゃねーよ」


「え、だって」

 直子は目をしばたたかせる。

「太一、七美ななみ先輩のこと好きなんでしょ?」


「俺がいつそんなことを言った」

「確かに言ってないけど、でも……」

 思わず口ごもってしまったが、太一の視線に促されて先を続ける。


「あたし、見たんだよ。……ター、太一が、七美先輩と、その、キ、キスしてる……とこ。学校で」

「あー」

 やっぱそれか、と太一は嘆息するみたいに言った。


「もしかするとそうじゃないかって思ったんだけどな。でも見てたんなら分っただろ? あれは先輩がふざけただけだ。全然まじなもんじゃない」

「そんな言い訳しなくったって。それにターぼ、太一が、七美先輩のこと好きなのはほんとなんでしょ」


「だからなんとも思ってねえって。少なくともそういう意味ではな。あといちいち呼び直すな。うざい」

「……う。ご、ごめんなさい。でもずっと慣れてた言い方変えるのって案外難しくて」


「変えなけりゃいいだろ」

「え?」

 直子は太一の顔を見返した。

「いいの?ター坊って呼んでも」


 それとも自分の勘違いだったのだろうか。学校や人前でそう呼ぶとなんだか嫌そうにしているように見えたのは。もしかして、本当はただ照れ臭かっただけ、とか?

 直子は思い切って提案してみる。


「じゃ、じゃあさ、ター坊もあたしのこと昔みたいに呼んだらいいんだよ。ナーちゃん、って。そしたらお互い様だし、別に恥ずかしくないでしょ」

「なんでそうなるんだよ……とにかく、先輩と俺は何もないんだ。これ以上余計なことはすんなよ。いいか」


「う、うん。分ったんだよ」

 太一の勢いに押されて直子は少しばかり怯んだが、考えてみればこれはかなり良い知らせだ。


 それに、他の女の人のことを好きじゃないということをこんなにも一生懸命に伝えようとしているということは。

 もしかすると今ってすごいチャンスなんじゃ──。


 待っているだけでは駄目だ。向こうに自覚がないのならこちらから気付かせてあげればいい。この場には二人だけ、トラブルの種は誤解と分って消えたところ、告白するには絶好の状況だった。

 でもどうやって伝えよう。


 事が済んだと思って気が楽になったのか、太一はどこかゆるんだ感じだ。さっきまでの苛立つような気配も消えている。

 いきなりストレートに突撃するのはさすがにちょっとためらわれた。せっかく穏やかになった雰囲気がまた緊張してしまうかもしれない。


「ねえ、ター坊」

「ん」

「どうしてあたしがこんなことしたんだと思う? ター坊と七美先輩をくっつけるみたいなこと」

 太一はたちまち眉間に皺を寄せた。直子は慌てて両手を振って否定する。


「ううん、違くて。これからも続けようとか、そういうことじゃ全然ないんだよ。たださ、不思議に思わなかったかなあって」

「何考えてんだ、とは思った」

「やっぱり?」


 直子は頷いた。つまりはそういうことなのだ。背丈は伸びても、太一はまだ恋がどういうものかを知らないんだ。

 だからあたしが教えてあげよう。

 好きな人のためには、どんなことでもしてあげたくなるのだということを。たとえそれが、自分の胸が潰れてしまうような辛いことでも。


「それはね、自分の好きな人の役に立ちたかったか……」

「本当によ、自分の好きな奴と別の相手をつきあわせようなんて頭おかしいとしか……ん?」

「ら?」


 直子の思考は漂白された。たぶん脳細胞のシナプス結合の98パーセントまでは断線していただろう。

「あのー、たいち、さん?」


 一気に老境に突入したみたいな口調に変わる。もしかしたら本当に六十年後の直子が憑依していたのかもしれない──花の十六歳である直子の意識は、この時ほとんど飛んでいたのだから。


「一つお尋ねしたいんですけどね、よろしいでしょうか?」

「あ? ああ、いいけど。お前変だぞ?」

「いえいえ、どうぞあたしのことはお構いなく。それで質問なんですけれど、あなた、実はあたしがあなたのこと好きだってご存知でした?」


「そんなん当り前だろ……って、お前まさか気付かれてないつもりだったのか!? ぜってーあり得ねーし。誰が見たって丸分りだろうが」

「おやまあ、そうでしたか。へー。ほー。なるほどー。うーん、参ったなー」

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