第8話
どうしてこんなことになっちゃってるんだろう。
ここに来るのはわりと久し振りだ。高校に入学してからは初めてのこと。前に来たのは中三の終わり、高校の合格と中学の卒業と高校の入学を兼ねたお祝いを貰ったお礼に来たのが最後だから、だいたい半年振りぐらい。
だが期間がもたらす気後れよりもはるかに高い壁がある。
本当なら、ここに来るのは楽しいことのはずだった。
明日の段取りを決めたりとかで、わくわくしているはずだった。
けれど幸福な未来へと通じるチケットはもう手放してしまった。
手放してしまったのに、これから行く先にはそれがある。
一体どんな話を聞かされるのか、まるで想像もつかない──というのは嘘だ。本当は色々と思い当る。でもそれは考えたくないことばかり。
「俺、
「俺、七美先輩のこと好きなんだ。これからも上手くいくように協力してくれ」
「七美先輩のことは俺の問題だ。お前には関係ない。余計な手出しをするな」
どれも最低。
とりわけサイアクなのは、全部自分が招いた結果だということだ。
だけどしょうがない。
七美と張り合うなんて、考えることさえ愚かしい。だったらせめて──。
直子はインターフォンのボタンを押した。扉の向こうでチャイムの音が鳴るのが聞こえる。すぐに応答があるかと身構えていたのに、黒いスピーカーは沈黙したままで少し拍子抜けがしてしまう。
だけど考えてみれば、
もし来ることになっているのが七美なら。太一は家の外で待っていたりするのだろうか。少しでも早く見付けられるように、ただでさえのっぽなのにもっと高く背伸びをしたりして。
それは直子の知っている太一の姿とはおよそかけ離れたイメージ。
だけどきっと。あるいはひょっとして。もしかしたら。
──帰りたくなってきた。
さっきからずいぶんと長いこと待っているような気がする。直子が来ることは分っているはずで、それなのに全然反応がないのはおかしい。もしかすると留守なのかもしれない。きっと急な用事とかで出かけたんじゃないだろうか。そうだそうに違いない。
よし帰ろう。
直子は扉に背中を向けた。
「よう、遅かったな……って、なに帰ろうとしてんだよ、お前」
そっちがいつまでも待たせるからじゃないか、ばーかっ!
叫んだのは心の中だけで、直子はこわごわと振り返った。
「そんな、ただちょっと道路の方見てただけじゃん。怒んなくったっていいでしょ」
口では不平がましくしてみせたものの、目線は下に向けたままだ。頭の上で太一が小さくため息をつくのが分った。
「上がれば」
予想外に冷たい響きに直子は身を竦ませる。しかし太一は直子の様子には頓着せず一人で家の中に戻っていった。扉が閉まる。
「何してんだ?」
閉まり切る寸前、太一が苛立たしげに顔をのぞかせる。
「なんでもない……。お邪魔します」
太一はつっかけを脱ぎ散らかして階段を上っていった。直子はそのつっかけを揃え直し、自分も靴を脱いで上がり
このまま廊下を真っ直ぐ進めばリビング、右手の階段を上がると太一の自室がある。少し待ってみたものの、太一が下りてくる様子がなさそうなので、直子も二階へ向かうことにする。
太一の部屋に入るのはいつ以来だろう。あれは中学校に入る直前、新しい制服を見に(見せに)行った時が最後だから、もう三年半前のことだ。
次に来るとしたら、今度は高校の終わりだろうか。それとも。
もう二度と、来ないだろうか。
部屋のドアは開いていた。太一は勉強机の前の椅子にこちら向きに座っていた。視線に促されるまま、直子はベッドに腰を落とした。カバーがきちんと掛けられていたおかげで、余り抵抗を感じないで済んだ。まめで綺麗好きな太一のお母さんに感謝する。
「おばさん、いないんだ」
「たぶん買い物。そのうち戻って来んだろ」
直子は幾分ほっとした。もしも今日太一の家でずっと二人きりだとしたら、色々とその、胸が痛い。
何か特別なことが起こるかも、なんて期待して、じゃなかった心配しているわけではなかったが。
「話って?」
思い切って、というよりも間に耐えられなくなって、直子は自分から口火を切った。太一がどんな表情になったのかは分らない。ひたすら藤色のカーペット(少し褪せてはいるが記憶にあるのと同じだ)を見つめていたから。
「どういうつもりだ?」
胸の鼓動が小さく跳ねる。
「どうって、タ、太一が呼んだんじゃない。あたしが自分で来たわけじゃないもん、どんなつもりもないよ」
「そういう意味じゃねえよ。分っててとぼけてんのか?」
「…………」
その通りだった。太一が尋ねているのは七美とのことだ。
直子は膝の間に挟んだ手をきつく握り合わせる。出来ることならいっそ身体を丸めてこの場にうずくまってしまいたい。
穴があったら入りたい、というのは本当は恥ずかしい時に使う言葉なのだろうが、直子はまさにそういう心境だった。とにかく身を隠せる場所が欲しかった。太一に面と向かって
「迷惑だから。やめてくれ」
そっち、か。
依然として心は苦しかったものの、少しだけ救われた気分にもなる。この言い方からすると、太一と七美はまだつきあってはいない。
でも。
まだ、だ。もう、になるまであとどれくらいだろう。
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