第7話

 翌日。

太一たいちくんと二人で行ってくれだってさ。どうする?」

 七美ななみはチケットの入っているとおぼしき薄桃色の封筒を目の前で振ってみせた。おそらく、いや確実に、誕生日プレゼントの名目で直子なおこが誘ってきたコンサートのものだろう。


「演目はシベリウスのヴァイオリン協奏曲、ソリストはびっくり、あのジュリアン・フロベール。一緒に行って、その後ステーキでも私は全然構わないけど。なにしろ全部ただだもん、とってもお得だし。太一くんもそう思うでしょ?」

「受験生は勉強しててください」

 太一は七美の手からチケットを奪い取った。


「あらそう、残念。それじゃこれはノーカウントってことにしておいてあげる。でも次はないからね。人見ひとみちゃんと仲良くね」

 七美は指先で太一の胸をつっついた。


 わざわざ太一の教室までやって来たのはプレッシャーをかけるためなのだろう。話自体は廊下でしたから、内容までは分らなかったろうが、直子の気を揉ませるには十分だったはずだ。


 実際、教室に戻るとすぐに直子が目をそらすのが分った。どうやらずっとこちらの様子を窺っていたらしい。

 太一はいささかげんなりしながら自分の席へ戻ろうとして、しかし途中で気を変えた。


 七美の行動力と実行力は侮れない。もしこれでまた直子がおかしなちょっかいをかけてこようものなら、本気でステーキを奢らされる破目になる。

 太一は直子の席へ方向転換した。太一が来ると知って直子はびくりと身を竦ませる。


 なんでこっちに来るの?という声にならない声が聞こえてくるようだ。

 直子の気後れが分っても太一はもちろん足を止めない。いまさらつまらない遠慮が必要な相手ではないのだ。それは直子にしたって同じことで、思うところがあるのなら、もって回ったやり方などせずに直に伝えるべきだ。そのことをはっきりと分らせてやる必要がある。


「直子」

「えっ、何!? ごめんあたしちょっとトイレ!」

 恥ずかしい言い訳で逃げ出そうとする直子の腕を捉まえる。半袖シャツから伸びる素肌がやけに熱く感じられたのはきっと気のせいではない。


「ちょっと、ターぼ、太一、放してよ、漏っちゃうっ」

 何事かとこちらを注目していた立野たてのが「ぶっ」と噴き出しかけて慌てて口元を手でおおったが、それでもこらえきれなかったらしく顔を伏せて肩を震わせているがとりあえず今はどうでもいい。


 太一は腕を引っ張って強引に直子を座らせた。反対側の手にあるチケットに気付いて直子が目を見開きバネ仕掛けみたいな勢いで立ち上がろうとしたが許さない。ほとんど覆いかぶさるようにして押えつけ、どうにか顔だけでもと背けようとする直子の目の前に太一は自分の顔を突き出した。まるで無理矢理唇を奪おうとしているみたいな体勢に(もちろん太一にそんなつもりはなかったが)、直子は血を噴かんばかりに上気して、酸欠にあえぐ金魚みたいに、ぱくぱくと口を開けては閉じを繰り返した。


「話がある。明日、俺んに来い」

「な、なん……」

「なんでもだ。いいな。絶対来いよ。もし来なかったら俺とお前はもう金輪際他人だ。これからは一切関係無し、過去も未来も全部なくなる」

 開きかけた形のまま直子の口は固まる。もともと丸い目が一杯にまで見開かれる。まるで不細工なダッチワイフだ、と太一はひどいことを考えた。


「どうして、そんなこと……」

 かろうじて絞り出されたような声は震えて今にも泣き出しそうで、ここまで大袈裟な反応が返ってくるとは想像の外だった太一はいささか引いた。だが今さら取り消すつもりはない。生活がかかっている。


「と、とにかく一回ちゃんと話をするぞ。あとは明日だ。時間は適当でいいから、なっ」

 最後は念を押すというよりなだめるような口調になると、壊れ物を扱うみたいに太一は直子から手を放した。

 立野が興味が三割批難が七割といった視線を寄越したが、太一は知らない振りをした。

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