第6話

 なんなんだよ一体。

 太一たいちは結構な量の不審と、幾許かの不満とを抱えながら、音楽準備室へ向かっていた。


 昼食は購買のパンを口の中に押し込んだだけで手早く済ませた。大半の生徒はまだ食べている最中なのだろう、廊下に人の姿は少ない。

 まして西棟に入ってからは誰にも会うことなく、まるで別の世界にでも彷徨さまよい込んでしまったようなちょっと不思議な気分を味わった。

 しかしそれも部室の前に立つまでのことだ。

 

「ふーん、ふふふーふん、ふ、ふ~ん~♪」

 わずかに開いた隙間から、何やら楽しげな鼻歌と、がちゃがちゃあちこちをかき回すような物音が洩れてくる。スポーツの優勝セレモニーなどで聞いたことのあるメロディーは、いささか調子が外れていた。


「ちは」

 太一は気にせず中に入った。鼻歌を聞かれたぐらいで恥ずかしがるような性格でもないだろう。

 振り返った七美ななみは驚いたような顔をしていたが、それはやはりナイーブさのためではなく。


「あれ、太一くんも来てくれたんだ」

 太一くんも?

「もっていうか、俺だけですけど。駄目ですか?」


 むしろ駄目と言われることを期待する。それならばさっさと退散できるかもしれない。

 だが七美は簡単に太一の登板を受け入れた。


「いいよ、手伝ってくれるんならもちろんオッケー。それにあんまり大勢でやってもかえって効率悪いだろうしね。ここ狭いから」

「そーですね確かに。……で、俺は何をすればいいんですか」


「え。聞いてないの」

「全然」

「呆れた」

 七美はこれみよがしにため息をつく。


「すこーし、強引過ぎじゃない? もっと弁えた子だと思ってたんだけどな。過大評価だったかしら」

「…………」

 なぜ直子なおこのことで自分が怒られなければいけないのか。太一はいささか不機嫌になったが七美はさらに言い募る。


「だいたい君、人見ひとみちゃんの気持ちちゃんと考えたことある? 全部わかっててこういうことするんだったらちょっと幻滅だよ。言っとくけどね、昨日のあれは深い意味なんてないんだからね。確かに私もちょっとばかし軽はずみだったかもしんないけどさ……。でもまさか君がマジんなっちゃうなんて思いもしなかったし」


「あの、先輩」

「なによ、後輩」


「先輩がなんの話してんだかさっぱり分んないんですけど。俺は直子に言われたからここに来ただけで、あいつ内容とか全然言わなかったから。それで直子の気持ちがどうとかって言われても、はあ?って思うだけです。先輩が俺に幻滅するのは別に先輩の勝手ですけどね。で、俺は結局どうしたらいいんです? 何か手伝いますか。それとももう帰っていいですか」


 太一としては最大限の譲歩だった。ともかくも相手の意向を尋ねたのだから。

 これでなおうるさく言ってくるようならもう知ったことではない。回れ右をするだけだ。

 しかし七美は怒り出したりはしなかった。不思議なものでもあるようにまじまじと太一を見返してくる。


「人見ちゃんが、君を、ここに寄越したわけ? 君が無理矢理代わったんじゃなくて?」

「違いますよ。なんで俺がそんな面倒臭いことしなきゃいけないんですか」


「あはは、確かにね。そうだ君はそーゆー奴だった。ごめん、私の勘違い。そっかそっか、人見ちゃんがねー」

 七美は独りうんうんと頷く。


「何を納得してんのか知らないですけど、要は直子が悪いってことでいいんですか?」

「いいや。君が悪い」

 七美がびしっと指を突き付ける。


「少なくとも責任がある。君がどうにかしなさい」

「どうにかって……。どうすりゃいいんです」

 太一はほとんど途方に暮れた。七美が何を言いたいのかがどうにも分らない。

 しかし七美はさらに太一を混乱させることを言ってきた。


「人見ちゃんは太一くんを私とくっつけようとしている」

「…………は?」

「やめさせて。迷惑だから」


 何の冗談かと思ったが、七美はいつになく真剣だ。とはいえ真剣な表情で冗談を言っているという可能性も捨て切れない──というかむしろ太一はそうであることを望んだ。


「なんであいつがそんなことすんのかまったく意味不明ですけど。……でも迷惑ですか、すいません気が付かなくて。俺やっぱり引き上げますよ。部活ももう来ないんで」


「太一くんのことは好きだよ。わりとね」

 またしても唐突な台詞に、今度こそ太一の思考はフリーズする。瞬きを繰り返し、七美が言葉を続けるのを待つことしかできない。


「一目見て気に入ったし。私面食いだから。で、部に引っ張ってみて、わりと仲良くなって、もっと好きになった。微妙に失礼なとことか、かなり気が利かないとことかも」

 それは遠回しに嫌いだと言われているのだろうか? 太一の戸惑いはますます深まる。


「タイミングが合えばつきあってもいいかなって思うぐらい。そうじゃなきゃキスなんかしないよ。いくらほっぺたでもね。でも今は駄目なの。絶対的に。だって私、彼氏いるから」


「──へえ。そりゃ良かったですね」

「そうだね。悪くはないかな」

 七美は控え目に肯定した。


「だからね、人見ちゃんのつもりがどうだろうと、私と太一くんが深い仲になることはないし、彼女のやってることは誰にとっても厄介でしかないの。理解した?」

「とりあえず。先輩の言い分は」


「よろしい。では人見ちゃんのケアは君がしっかりとやること。もしまた今日みたいな良からぬことを企んだりしたら、君に国吉のサーロインセット奢らせるから」

「絶対やですよ」

 そんなことになったら一か月分の小遣いが丸々飛んでしまう。しかも自分は水の注文だけで。そしてそれでも足りない。


「あーでもそう考えると、人見ちゃんにこのまま続けてもらうっていうのもありだな。一回ごとに一食ってすればかなりおいしいじゃない」

「断固拒否しますから」


 されど七美が一度決めたことを撤回させるのは大変に難しい。残りの昼休みどころか、午後の授業までさぼらされてCD探しを手伝う破目になった太一は、そのことを改めて思い知らされた。

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