第5話

七美ななみ先輩……」

 だって、まるで勝てる気がしないから。

「すいません、ちょっと考え事してて。何かご用ですか? えっと、あたしに?」

 ここは一年生の教室が並んでいる廊下で、階の違う七美がはるばると来た以上、それなりの理由があるに決まっている。

 しかし直子なおこには思い当る節が……あ、あった。


「その……太一たいち、ですね、あたし呼んで来ます!」

「へ? ちょっと人見ひとみちゃん?」

 いきなりきびすを返して走り出そうとした直子を、七美は手を伸ばして文字通り引き止めた。ぬるい文化部で高校生活を過ごした受験生にしてはいい反応だ。


 直子は腕を振り払って逃げ出したい衝動に駆られたが、実行に移すような度胸はない。

 気まずい思いを抱えつつ、七美の方に向き直る。とりあえず七美に怒っている様子がないことに少しだけほっとする。


「んー」

 七美は直子の手を放して腕を組んだ。

「何か誤解があるのかもしれないけど……そのことは今はいいや。ちょっとね、頼みたい事があるの。人見ちゃん、今日昼休み時間取れる? もし良かったらでいいんだけど、手伝ってくれないかな」

 CDを探している、と七美は言った。


「多分部室にあると思うんだよね。なんとか今日帰るまでに見付けたいの。お願いできる?」

 七美はアーチスト名とアルバム名、ジャケットのデザインを説明した。だが直子にはどれも心当りがない。


「ちょっと覚えがないですけど……。本当にあるんですか?」

「そう改まって言われると私も自信ないんだけど。かれこれ二年ぐらい見てないし。ね、駄目かな? 私の個人的な用事だから、断ってくれても全然いいんだけど」

「個人的、ですか?」

 なんだか含みのある言い回しだ。


「分りました。お昼食べた後でよければ」

「ほんと? 助かるわ、ありがとう。じゃまた後でね」

「はい」

 直子は小さく頭を下げた。七美はひらひらと手を振ると去っていく。なんとなく忙しげだ。


 どうしてよりによって自分なのか。

 引き受けてはみたものの、昨日の今日で七美と二人きりで過ごすのは正直気が進まない。

 それとも。


 胸の奥がいがいがと疼く。

 昨日の今日だから、なのだろうか。太一とのことで話をつけようと思って。

 しかし直子はすぐにその考えを否定した。


 今の自分は太一とつきあっているわけではない。だから七美が断りを入れる必要もない。

 では直子に自慢するために? 太一とキスしたことを?

 そんな。まさか。


「──何ぼけっと突っ立ってるんだ。邪魔だろ」

 直子はぎくりと背中をこわばらせた。昔に比べたらずいぶん低音になっているものの、自分にとって一番近しく感じられる声なのは間違いない。はずなのに、どうして。

 太一は乱暴に直子を押し除けようとして手を止めた。


「なんだお前、どっか具合悪いのか?」

 こんなに怖いんだろう。まるで自分を殺しにきた相手を前にしているみたいに、身体が震えて止まらない。


「保健室行くか? それか、もう早退するっていうなら送ってくけど」

 いつもは見上げる場所にある(かつてはすぐ隣にあった)顔が、直子の様子を確かめようと距離を縮める。今ならほんの少し背伸びするだけでキスできる。

 だけどそこはもう七美が触れた場所だ。


「なんでもないよ」

 直子は太一の身体を突き放し、教室の中に一歩入ると廊下にいる太一と向かい合った。

「だいたいさ、太一は自分がさぼりたいだけでしょ。あたしをダシに使わないでよ」

「あーそう……なら勝手にすれば」

 太一は踵を返した。教室の後ろ側の扉へ向かうつもりだ。


「あ、待って、違うの、ねえター坊!!」

 気付けば自分でも驚くような声を上げていた。教室中が一瞬静まり返ったほどで、下手をすると隣のクラスにまで聞こえただろう。注目が集まっているのを感じて耳たぶが熱くなる。特に言う事を考えていたわけでもなかったからなおさらだった。


 太一は思い切りしかめ面になって、それでもその場で足を止めた。直子のためというより、ただ周囲の目をはばかっただけかもしれないが。


「えっと、あのね」

 何、何を言ったらいいんだろう。ター坊に伝えないといけないこと、そもそもどうして自分がこんなふうになっているのかというと。


「そ、そうだ、七美先輩がね、昼休み部室に来てほしいんだって。手伝ってほしいことがあるからって」

「俺に?」

 違う、と答えようとした。


「そうなの、太一に。良かったね、七美先輩と二人っきりだよ? 嬉しいでしょ」

 一息に言い放つと一目散に自分の席へ突進する。椅子取りゲームみたいな勢いで腰を落とし、机の中から教科書を引っ張り出して視線を据えた。


「人見さ、一応言っておくけど」

「な、なにかなマユちん、あたし予習しないとなの、今日当りそうだからっ」

 前の席から話し掛けてきた立野に、顔も上げないまま直子は答える。声が上擦っているのが自分ではっきりと分って軽く死にたくなる。


「次、数学。古典はさっき終わった」

「…………」

 ──本格的に、死にたいかも。


 “ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり”


 千年以上も昔に詠まれた片恋のせつなさを嘆く歌を眺めながら、直子は心の中で泣いた。

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