第4話

人見ひとみ、おはよっ」

「……ああマユちん。おはよ」

 立野たてのの元気な挨拶に直子なおこは鬱病のゾウガメばりのローテンションで応じた。

 立野はその理由を知らなかったが、見当は付いた。


「どしたの? 平原ひらはらくんとケンカでもした?」

 握っていたシャーペンの芯が折れ、宿題の英作文に黒いノイズが混じる。直子はのろのろと消しゴムを取り上げ、ゆるゆるとノートを擦った。

 ほんと、分り易い子だなぁ。

 微笑ましいような気の毒なような気分で立野は思う。


「してないもん」

 下を向いたまま直子がポツリと呟くがその声は小さ過ぎて届かない。

「英作ならあたし一応やってきたよ。写す? って言ってもあんまり自信無いんだけどね、あはは」


「ありがと。でも自分でやるし。あと、ターぼ……太一たいちとケンカなんてしてないから。変な気とか遣わないで」

 字面だけ取れば露骨な余計なお世話扱いで、気を悪くしてもいいところだったが、ここまでしょんぼりした様子で言われては怒れようはずもない。


「そ。でも困った事とかあったら言いなね。あたしにできることだったら協力する」

 直子はすがるように顔を上げた。眼が充血しているのは単なる寝不足のせいだろうか。だが立野はあえて深くは突っ込まない。話したいなら聞く、という待ちの姿勢を取った。直子はいったん下を向いて。思い切ったように口を開いた。


「あのね、実は昨日」

 しかし刃物を振り下ろされたみたいに言葉は途中で切れてしまう。やはり話したくなくなったのか、と立野は初めは思ったが。

 直子の視線を追って、すぐに本当の理由に気付いた。

 大抵の男子より高い位置にある細面が、怠そうに欠伸をしながら教室に入って来る。


「おはよ、平原くん」

「はよ」

 立野がいつも通り挨拶すれば、同じく太一も返してくる。特に変わったところはないようだ。

 しかし直子の方はかなり普通ではなかった。


 「…………」

 まるで見えない巨人に頭を押えつけられたみたいに、うつむいて太一を視界に入れようとしない。そのくせ様子を気にしているらしいのがありありと分る。

 太一はちらりと直子を見たが、真っ直ぐに自分の席へ向かった。特に含むところは無さそうだ。


 何かあったわけじゃないのかな?

 事情聴取を検討するが、その間にも太一は近くの席の男子と話を始めてしまっていた。一方の直子はますます頑なになったように背中を丸める。

 ──アルマジロみたい。

 立野は思った。


        #


 ショックじゃないと言ったら嘘になる。むしろ今までの人生で最大級の衝撃だった。

 キスしてた。

 七美ななみ先輩と、ター坊。


 正確には、七美が太一の頬にキスをした、である。ドラマのラブシーンのような二人で見つめ合って抱き合って、みたいなのとは違っていた。


 離れた場所から見ていた直子には二人の会話までは聞き取れなかったものの、それまでの仕草やその後の太一のリアクションからして、おそらく七美の不意打ちだったと思う。それもいつもしているという感じではなく、むしろあれが初めだった。


 だから二人はまだつきあってるわけじゃない。

 希望的観測かもしれない。

 けれどあの二人が本当にそういう関係だったとしたら、さすがに自分には分るはずだ。


 とりたてて耳聡みみざといとか勘が鋭いとか自負しているわけではないが、太一とのつきあい(この場合は一般的な意味だ)はこの学校の誰より長いし、同じ部の先輩後輩として七美ともそこそこ仲は良い。それに七美はそういったことをオープンにしそうな気がする。


 学校であんなことするぐらいだし。

 いくら人の少ない放課後とはいっても誰もいないわけではない。現に直子もいたのだ(もっとも直子が居合わせたのは偶然でも何でもなかったが)。


 ター坊、先輩のこと好きなのかな。

 あり得ないことではないと思う。というかそう考えると色々なことが腑に落ちる。

 熱心に誘われていたバスケ部に「面倒だから」というしょうもない理由で全く関心を示さなかった太一が、どうしてバスケよりももっと興味がないはずの音楽部などというものに入部したのか。


 そして。

 せっかくの誕生日のコンサートの誘いを、どうしてあんなにもあっさりと断ったのか。


 二人の仲が進まないのは、太一が鈍いからなのだと思っていた。小さい頃と同じような幼馴染み気分がいつまでも抜けないせいだと。

 だが本当の理由が、太一が別の女の子の方を向いているせいだとしたら。

 しかもその相手が同性の自分でも見惚れてしまうような年上の綺麗な人だとしたら。

 あたしの気持ちに気付いてくれなくてもしょうがない、のかな。


「あ、人見ちゃん? ちょうど良かった」

「いやっ!?」

 直子は思わず悲鳴を上げた。


「うわ、なによその化物でも見たみたいなリアクションは。おねーさん傷ついちゃうじゃない」

 おどけて首を竦める長身の黒髪美人は、直子にとってはある意味本当に化物だったかもしれない。

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