第3話
「ちゃっす」
タイミングがいいのか悪いのか。鉛みたいに重たくなった場に、やけに気軽い声が割って入った。
「あやっ、
「先輩……」
美少女、というより美人と形容した方がしっくりくる髪の長い女生徒は、音楽部前部長の
「おおっと、
「そんなんじゃないです。それにあたしもう帰りますから。七美先輩はゆっくりしてってください。失礼します」
「え?」
「えーっと、私、本当に邪魔しちゃったのかな」
「問題ないです。だいたいここは部活やるとこだし」
「それはそうだけど、でも君が言っても説得力ないっていうか。逆に何かありました、って自白してるみたいなものだよ」
七美は当り前のように太一の隣に椅子を並べた。艶やかな黒髪が甘く香って刹那胸を詰まらせ、太一は扇風機みたいに反対側に首を振った。
「そんなあからさまに避けなくったっていいじゃない。トラブルならおねーさんが相談に乗ったげるよ? こう見えてもけっこー恋愛経験豊富なんだから」
切れ長の目を細めてにやりと笑う。黙って澄ましている分には古風な佳人という感じなのに、まるで不敵な盗賊みたいな印象に変わる。
「いらないです。ってか何しに来たんですか? 先輩はもう引退でしょう」
「息抜きだよ。運動部じゃないんだから参加したって体が疲れるわけじゃなし。……ワルターか。定番だね。太一くんもこういうの聴くようになったんだ」
「それは直子が。俺はそんな名前初めて聞きました。曲の方はなんとなく知ってるような気もするんですけど」
「超有名曲だよ。ベートーヴェンの交響曲第六番、通称『田園』」
ベートーヴェン? 今ワルターとかって言わなかったか。あ、ワルター・ベートーヴェンって名前なんだっけ。いやなんか違う気がする。
疑問に思ったがわざわざ尋ねるようなことはしなかった。無知が恥ずかしいとかそういうことでは全くなくて、純粋にどうでもいいからだ。
「俺も帰りますよ。先輩は存分に鋭気を養ってってください」
「ちょい待ち」
七美は太一の手首を握った。
「まさかとは思うけど、気付いてないわけじゃないよね? 人見ちゃんのこと」
七美が顔を寄せてくる。息がかかるぐらいの近距離に、太一は思わずつばを飲む。
「先輩。……キスしてもいい?」
「たわけ」
* * *
「ん……。そろそろ帰ろっか」
七美はめくっていた古い洋楽雑誌を閉じると演奏途中のプレイヤーの電源をおもむろにぶった切った。
「先輩、停止ボタンって知ってる?」
「どうせ切るんだから同じことじゃない。いいからつまんないこと言ってないでさっさと帰ろうよ。おねーさんは受験で忙しいんだから」
「なら初めからこんなとこ来なきゃいいでしょ」
「太一くん、君ね、私が大切な青春を過ごした場所をこんなとこ呼ばわりはわりと許し難いものがあるんだけど」
「そいつは失礼しました」
揃って部室を出た二人は二階の連絡通路を渡って東棟までやって来た。七美の使う昇降口はすぐ近くだったが、下級生の太一は校舎の端まで歩かねばならない。
「俺はこっちですから」
行く先を目顔で示す。ここで別れる、そういう意味で言ったのだが。
「早くね。私より先に、とまでは言わないけど、一分以上遅れたらペナルティを課す」
「はい? なんの話ですか」
「昇降口出たとこで待ってるからダッシュで来いってこと。分っててとぼけるのは可愛くないわよ?」
「いや、さっぱり分りませんから。サヨナラ先輩」
「一分だからねー?」
背後からの声に太一はあえて歩調を緩めてみる。
しかし七美がそんな
果たしてその予想は当っていた。
「おそいっっ。何分かかってんのさ」
先に帰っていることを期待しつつ、それでも一応三年の昇降口の前まで出向くと、腕を組んで仁王立ちした七美がご立腹だった。
「約束のペナルティね、ピーボのケーキセットだから。今から行こう」
「冗談。なんで一方的に決められた約束のせいで千五百円も取られなきゃいけないんですか」
「だってあそこおいしいじゃない、ケーキもコーヒーもさ。あ、紅茶でもいいな」
「理由になってねー」
「男がつべこべ言わないの。私とキスしたいんでしょ?」
「いや、今はそんなに」
「ほら」
「あ」
「前払い。受け取った以上キャンセルは無しだからね」
「押し売りかよ」
太一は頬をなでた。
「ぶーたれても口にはしないから。あきらめな。ほら、ちゃきちゃき動く。こんなとこ誰かに見られたら誤解されちゃうじゃない」
などとのたまいながら七美は腕を絡めてくる。
「ま、いいですけど」
出費は確かに不本意だが、映画でも観たと思えばいい。きっとその程度には楽しめる。そしておそらくはそれ以上に。
あっさりと割り切った太一だが、その時一年用昇降口の陰に潜んでいた直子が、一部始終を目撃していたことになどもちろんかけらも気付いていない。
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