第4話 カリグラフィー

 「ぶくぶくぶく……」


 私は風呂に浸かりながら今日の出来事について思い返していた。恥ずかしかったことを思い出しからか、のぼせてきたのかわからないが、顔が火照って仕方ない。思わず湯船の中に顔を半分ほど沈めてみるが、お湯につかったって頭が冷えるわけではなかった。


「また会おうねって言われたってねえ」


 カフェを出るときにナギサにそう言われたけど、私は携帯電話を持っていないから連絡先を教えることができなかった。だからと言って……


『そっか、教えてもらうべき番号がないなんて想定外だよ。

 じゃあ僕も教えないからこれで公平だね』


 どう考えても言い分がおかしい。家からだって公衆電話からだってかけることができる。でも番号を知らなければそれすらできないのだから。


「もう、ホント意味わかんないよ!」


 って、思わず声に出してしまった。お父さんの帰りはまだだから家には麻美一人である。そうだ、もうずっといつも一人……


 中学生になってようやく始めた父親との二人暮らしだが、まだ一人でいることに慣れたとは言い難い。以前のように祖父母の家にいた方が良かったのかもしれない。


 でもいくらお父さんの実家だと言っても、気兼ねなくのんきに生活できるような歳では無い。小学校高学年にもなってくると二人が気を使っていることが気になって仕方なかったし、そもそもお父さんとおじいちゃんおばあちゃんの仲が悪いのが最悪だ。


 お母さんが麻美を産んで間もなく病気で亡くなった後、お父さんは一人で育てるのが無理だと判断し、麻美を実家へ預けた。その判断は間違っていなかっただろう。


 かと言って預けたまま放っておいたということもなく、運動会や学芸会、参観日にはいつも見に来てくれていた。それに週末や長期休暇の時にはいつも職場から直接迎えに来てくれた。


 そりゃ完璧には程遠かったのかもしれないけど、何もしなかった、できなかったわけじゃない。現に仕事ではそれなりに成果を上げて収入もそこそこらしい。


 その判断のおかげで麻美は私立中学に通うことができているし、きちんと過ごしていけばそのまま高校大学へと進学できるだろう。ただ一点問題があるとすれば、お父さんはいわゆる片付けられない人、ということくらいだろうか。


 風呂から上がった麻美は、頭にタオルを巻いてからリビングのソファへ座った。まずはテレビをつけてから録画しておいた番組を再生する。


「今日はなんだろうなー」


 手元にはいつものようにメモ帳と小さめの画用紙、それに筆記用具を用意済みだ。そしてたった一人のリビングでふんふんと頷きながら時折再生を止めてメモを取る。すべての再生が終わるとスケッチブックへの清書をするためにしっかりと座りなおした。


 画用紙の四隅に群青色の万年筆で模様を書きこんでいく。次は墨色をセットした太めの万年筆に持ち替えて、立体感を出すようにずらしながら線を書き加える。


 外周を書き終えたら次は何色にしようか。今日買って来たインクを試してみるか、それともイメージ通りの赤系統にしようか。そんなことを考えながら何行かの文字を書き加えていった。


 こうして出来上がったのは、日中放送されている料理番組で作っていた、トマト料理を書きこんだカードだった。一応おしゃれなレストランで出されるような見栄えを目指して書いたけど、正直まだまだうまく書けていない。


 やっぱり普通の万年筆じゃなくってカリグラフィーペンも欲しい。万年筆だとインクをセットしてから使い切るまでずっと同じ色を使い続けることになるため、新しい色を使いたくなる度に万年筆ごと購入することになってしまう。


 ペン先をホルダーにセットして好きなインクをつけながら使うカリグラフィーペンなら、もっとたくさんの色とペン先を使い分けられるだろう。


 いつの間にか増え続けてしまった万年筆は大き目のグラスに挿してあるが、もうあと数本分の隙間しかない。そこへ今使った万年筆たちを戻し入れると、カランと透き通った音が鳴った。


 リビングをきれいに片づけてからお父さんの部屋へ向かう。誰もいないのはわかっているけど、念のためノックしてから中へ入った。


「相変わらず汚いなあ。

 帰ってきて寝るだけなのに何でこんなになっちゃうんだろ。

 あ、また独り言……」


 まあ外では独り言の癖が出てしまわないよう注意してるので大丈夫だろう。そんなことより早く片付けないと、まだ宿題をやっていないし洗濯も終わっていない。


 脱ぎ捨てられたワイシャツに靴下、使ったままのバスタオルを拾い上げた。それに…… 少しくたびれている男物の下着も…… 


 ナギサもこういうの履いてるんだろうか。いやいや、きっとこんなよれよれになってしまった下着は履かないはずだ。そうであってほしい。


 あああ、私ったら何考えてるのだろう。思わず抱えた洗濯物を床にたたきつけた。そしてベッドをきれいに整えてから麻美のおさがりの学習机に目をやる。


 そこには写真が二枚飾ってある。一枚は産まれたばかりの麻美を抱っこしている母の写真、もう一枚はきれいに書かれたウエルカムボードと、その後ろに立っている新郎新婦の写真だ。


「お母さん、なかなかうまく書けるようにならないよ。

 難しいもんだね」


 これは独り言じゃない、今度は自分の意思ではっきりと言葉にしたから大丈夫。なにが大丈夫かは自分でもよくわからない。


 私は片方の写真を手に取ってまじまじと眺めた。もう何度となく見ているその写真の二人はもちろん父と母、そしてそのウエルカムボードは母の書いたものだと聞かされていた。


 いつかは、こんなステキなウエルカムボード書いて、ステキな誰かと結婚式挙げたいな。よし、今度はちゃんと心の中で言えた。


 写真を戻してから洗濯物をまた手に持ち、私は父の部屋を後にした。

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