観音通りから桜町までは、車で30分程度かかる。その間、瀬戸は座席の上で薫の手を握って離さなかった。

 薫はその手を握り返すことができないまま、じっと外の景色に目をやっていた。

 窓の外を通り過ぎていく街の景色は、もう真夜中を過ぎているとあって真っ暗に近い。それでも薫は変わり映えのしない景色を見つめ続ける。他にどこに目をやっていいのかが分からなくて。

 「ここで停めて。」

 外界と桜町とを隔てる、浅く広い川にかかった桜橋のたもとで車を止めさせた瀬戸は、ぎゅっと薫の肩を抱いた。

 「名刺のことを忘れないで。」

 耳元で囁かれた言葉に、薫はこくりと一度頷いた。声を出したら、一緒に涙まで溢れ出てきてしまいそうだった。

 瀬戸の優しさが、胸の奥まで染みていた。

 なにも持たない、なにもできない薫への、あまりに純度の高い優しさ。薫は瀬戸に、なにも返せないのに。

 「さ、行きなさい。」

 瀬戸が薫の肩をぽんと叩き、視線だけで運転手にドアを開けさせた。

 薫はまた頷いて、転がるようにして車から降りた。そして、小走りに車から離れ、赤い太鼓橋を渡る。そうやって急がないことには、瀬戸の側を離れられなくなりそうだった。

 真夜中だというのに、桜橋にはまだかなり人の行き来があった。そのほとんどが和服を着込んでいるので、下駄履きに薄青い着物姿の薫も浮いてしまうようなことはなかった。

 あの人が花魁をしているという晴海楼は、橋を渡ってすぐ右手にそびえ建っていた。正面に赤い格子の張店があるが、もう火は消えている。

 その隣に立派な構えの出入り口があり、左右に花魁の看板が3枚、誇らしげに肩を並べていた。その看板たちのうち、右手に置かれた最も大きな一枚に、薫の目は自然と引きつけられた。

 葵、と大書きにされた文字の上で艶然と微笑んでいる鼈甲の簪の女。

 それは、もう間違えようもなく、幼かった薫を拾い、一月の間養ってくれたあの女だった。

 やっと、見つけた。

 薫は思わずその場に座り込みそうになった。

 赤い口紅も長い結い髪も、真っ白い白粉も華やかな着物も見覚えはない。それでも、作り笑いを隠しきれないその鋭い頬の線や、切れ長の涼しい目元には十分に身覚えがあった。

 会いたくて会いたくて、毎夜夢に見た人。

 触れたくて触れたくて、毎夜指を焦がした人。

 その人が、この引き戸の向こうにいる。





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