瀬戸は、遣り手のしづに堂々と、ちょっと彼を連れて飯でも食って来るから、とだけ言いおいて、あっさり長屋をあとにした。

 ちょっと、と、しづは薫の腕をつかもうとしたけれど、それを振り切って、当たり前みたいに歩みを進める瀬戸に、薫はついていくので精一杯だった。

 「蝉からもう話が回ってるみたいだね。」

 ぽつりと瀬戸が呟く。

 「彼も必死みたいだ。」

 薫は夕方見た蝉の苦しげな表情を思い出す。

 無条件に薫に愛されているねぇさんに嫉妬していると言ったときの、ひどくつらそうな眼差しだ。

 確かに蝉は必死なのかもしれない。

 そう思うと足が動かなくなりそうで、なんとか瀬戸の着物の袖に縋って歩みを進める。

 「きみのねぇさんの居場所は、捜そうと思えば簡単に捜せる。だから、いつまでもねぇさんのところにいちゃいけない。上手く逃げるんだよ。」

 瀬戸が低く言う。

 薫はかろうじて頷いた。頷く首が、痛むような気がした。

 観音通りを出ると、瀬戸はすぐに車を止め、桜町まで、と運転手に言いつけた。人に命令することに慣れた人間の口調だった。

 「晴海楼は桜町いちの大店だ。きみのねぇさんは、そこで花魁を張っているよ。葵花魁という名前だ。」

 「……はい。」

 桜町いちの大店の花魁。

 それは薫の記憶の中にある彼女の姿とは、どうしても重ならなかった。

 あの、いつも素顔で氷ばかり食べていた、少年みたいな人の姿とは。

 すると、その薫の思考を読んだみたいに、瀬戸が少し口元を笑わせた。

 「人は変わるものだからね。」

 だから期待をするなと言われているみたいだった。

 薫にも、人は変わるものだと、その理屈くらいはわかっている。あの人と別れてから、もう10年も経っているのだから、尚更。

 だから薫は、一言だけ返した。

 「それでもいいんです。」

 あの人がどう変わっていようと構わない。ただ会いたいだけだ。

 本気で惚れているんだね。

 瀬戸が独り言じみて呟く。

 薫はその呟きに答える言葉を持たなかった。

 もう、彼女に対して抱いている感情は自分でもわからない。

 恋かもしれないし、家族の情かもしれない。焼け跡時代をともに生き延びた戦友だと認識しているのかもしれないし、ただ一人の友人であるのかもしれなかった。それか、すべての情をひっくるめた、濁りに濁った情が彼女に向かっているのかもしれない。

 「……もうすぐ桜町だ。」

 強張る薫の肩を、瀬戸が抱いてさすった。

 「あんまり不安そうな顔をしないでくれ。……きみを、手放せなくなってしまうよ。」

 不安そうな顔をしている自覚などなかった薫は、両手で自分の顔を覆い、長い息をついた。

 「大丈夫です、俺は。」

 手のひらの下から言うと、瀬戸は薫の肩を包んだまま、だといいけど、とだけ応じた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る