瀬戸は、これ以上ないほど丁寧に薫を抱いた。

 本気で愛されていると思いこんでしまいそうだ、と、薫はぼやける頭の中で思った。

 だから、夜が深くなるのが怖かった。瀬戸の腕を離れて一人になるのが。

 あの人の居場所は、サチに聞いて検討をつけていた。観音通りより数段レベルが上の売春街、桜町に彼女はいるらしい。

 だからやるべきことはわかっている。ここを抜け出して、桜町に行って、彼女を探し出す。

 なにをするべきかはわかっていても、それ以上に、今手にしているものを失うのが怖いのだ。

 一人には慣れているはずなのに、心も身体も冷えてきそうで。

 観音通りを包む闇が一際深くなってきた頃、瀬戸が薫の肌を手放した。

 「……着物を着て、荷物の用意をしなさい。」

 「……荷物なんか、ありません。」

 着物の帯を締めながら、薫は小さく呟いた。

 荷物なんか、ない。ここに来たときだって、身一つだったのだから。

 「だったら、これを。」

 瀬戸の長い腕が静かに闇の中を動き、薫の懐に札入れをそっと押し込んできた。

 もらえない、と薫は札入れを取出し、瀬戸に返そうとしたのだが、彼は腕を組んで座った姿勢のまま、それを受け取ろうとはしなかった。

 「あって困るものじゃないんだから。」

 とだけ言って。

 そして瀬戸は続けて、きみのねぇさんは、桜町の晴海楼に勤めているよ、と付け加えた。

 「え?!」

 「調べたんだ。きみが本気でこの街を出るって決めたときに教えるつもりで。」

 言葉が出なかった。

 自分はこの、優しくて美しいひとに、どれだけの情をもらったのだろうか、と思えばどうしても。

 瀬戸はすらりと立ち上がると、軽く身をかがめて薫にキスをした。

 「桜町まで送っていくよ。そこでさよならだね。」

 薫は言葉が出ないまま、背伸びをして瀬戸の唇を塞いだ。

 ありがとうございます。

 その一言で片付かない感情が散らかって言葉を奪っていた。

 「桜町でねぇさんに会えたとしても、足抜けをした時点できみはもう一生追われる身だよ。……覚悟はできているの?」

 「はい。」

 「もうだめだと思ったら、私のところにおいで。札入れの中に名刺が入っているから。」

 「……はい。」

 感情はまだ散らかっていた。だから薫は、口づけを重ねた。

 瀬戸が少し笑って、きみからキスしてくれるのは、今晩が最初で最後だね、と言った。




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