足抜け

「抜ける気ね。」

 静かにサチが言った。

 薫は後ろ手で襖を閉めた格好のまま、こくこくと何度も頷いた。

 「今?」

 「……分からない。」

 「早くしたほうがいいわ。きっと蝉は密告するから。」

 「密告?」

 「遣り手に言いつけるのよ。」

 まさか、と薫は呟いた。

 さっき、蝉本人に密告すると宣言されてはいても、まだ薫はどこかで蝉を信じているようだった。まさかあの人が、自分を売ったりはしないだろうと。

 「まさかもなにもないわよ。あのひと、随分あなたに執着してる。どんな手を使ってでも引き戻すでしょ。」

 まさか、と、薫はまた同じことを呟いた。

 それ以上の言葉が出てこなかったのだ。

 サチは、仕方がないわね、とでもいいたげに眉をひそめて微笑んだ。それはいっそ聖母じみた笑みと言っても良かった。

 「今夜にでも逃げなさいよ。蝉は本気でチクると思うわよ。」

 「……今夜?」

 「そう。遣り手にまで話が回らないうちに。」

 荷物なんか持っちゃだめよ、とサチが物わかりの悪い弟にでも言い聞かせるような口調で言う。

 「逃げるときは、ただ逃げることに集中しないと。なにか荷物を持ち出そうとしたり、変な未練なんか残してはだめ。ただ逃げることに集中するの。」

 それは、彼女もなにかから死ぬ気で逃げたのであろう過去を彷彿とさせた。

 まだ呆然と立ち尽くしたままの薫の肩を、サチが力強くぽんぽんと叩いた。

 「早くしなさい。逃げるなら。」

 その手を肩に乗せたまま、薫はただただこくりと一つ頷いた。

 「瀬戸さんに会って、すぐに逃げます。」

 「瀬戸さん?」

 「今夜のお客様です。毎晩借り切りで俺を買ってくれるひと。」

 「そんなの……、」

 どうでもいいから逃げなさい、と、サチはそう言いかけたのだろう。しかし彼女は、薫の表情を見て口をつぐんだ。

 薫は、強い目をしていた。

 瀬戸に会うまでは絶対にここを動かないと言いたげな目。

 「ここを抜けるなら、瀬戸さんにだけは謝らないと。」

 「謝るって、なにをよ?」

 「全部。これまで俺にくれたものを、何一つ返さないで消えることを。」

 薫の声は震えてはいなかった。なんなら強い芯さえ通っていた。

 だから、サチもそれ以上なにも言えなくなったのだろう、そう、とだけ返した。

 窓の外では真っ赤な夕日が沈もうとしていた。長屋の中はいつもどおり、女たちの話し声やらなにやらがざわめきになって聞こえてくるのに、なぜだか静かに耳に沈んだ。






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