嘘だ、と言いたかった。

 本当は口止めなんかしていない、ただのサチの勘違いだと言ってほしかった。

 だって、薫の手を引いて長屋の群れの中を歩いたり、片っ端から遣り手や古株の娼婦の話を聞いて回ったり、観音通りで育った戦災孤児を捜しては訪ねていったり、そんなことをしてくれた二年間のすべてが嘘だったなんて。

 けれども、蝉の両目に色づく本気の色を見てしまうと、なにも言えなくて。

 蝉が右手を伸ばして薫の肩を引き寄せようとした。

 その手に薫は抗った。

 「触らないで!」

 半ば悲鳴のような薫の声に、蝉は本気で傷ついた顔をした。

 ずるい、と、薫は思った。

 肌に触れられたら、身体を許したら、わけが分からなくなってしまう。観音通りの孤児として育った寂しい肉体が、心を押し込めてしまう。それを知っているくせに、触れようなんてするのはずるい。

 「……ごめん。」

 ぽつん、と蝉が呟いた。

 「でもね、あんたがここを出ようとするなら、俺は止めるよ。」

 その声音は、ひどく苦しげに喉の奥でひしゃげていた。

 「足抜けだって大騒ぎしてでも、あんたを止める。」

 蝉が懐から煙草を取り出し、一本口にくわえ、火を点ける。

 青い煙を細く吐き出しながら、蝉は強張った両目で薫を見つめた。

 煙草を挟む人差し指と中指の力は、傍から見ても分かるほどに強すぎて、今にもポキリと煙草が折れてしまいそうだった。

 それは、さっきまでふわりと重力を感じさせない動作で爪をやすっていた人と同一人物とは、到底思われなかった。

 そうすると、追い詰められるのはなぜだか薫の方で。

 ごめんなさい、とほとんど唇は動きかけた。

 それを抑え込んで、部屋を飛び出す。

 待って、と、背後で呼ぶ声がした。それを振り切るように両手で耳をふさぐ。

 そのまま廊下を駆け抜け、飛び込んだのはサチの部屋だった。

 極彩色の着物の海はもうすでに片付けられ、サチは鏡台の前で、新しい着物を羽織って見ているところだった。

 息せき切って駆け込んできた薫と、サチは鏡越しに目を合わせた。

 どうしたの、などとは一言も尋ねず、落ち着いた静かな目をする彼女は、薫と蝉の間になにがあったのか、あらかた悟っているようだった。

 その目は、薫の記憶の中に住み続ける女にどこか似ていた。










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