薫が蝉の部屋の襖を開けたとき、彼は爪の手入れをしていた。

 女のように白い手に生え揃った、桜色の10枚の爪。その一つ一つに丁寧に鑢をかけていたのだ。

 こんな場合だというのに、薫はその姿にいっとき見惚れた。

 部屋の中央辺りに膝を崩した蝉が、右手に銀色の鑢を持ち、それをさらさらと動かして左手の爪を薄く削っていく。

 蝉がその手を止めて、どうしたの、と声をかけてこなければ、昼下がりの濃い陽光に照らされた彼のけだるげな姿に、薫は見惚れ続けていたかもしれない。

 どうしたの。

 蝉の何気ない一言に、薫は硬直した。

 なにをどう問えばいいのか、考えることさえせずにここまでやってきていた。

 すると、蝉のほうが何かを察したらしく、頬の色をさっと失った。

 それでも彼は逃げはせず、座ったら、と自分の向かいに敷かれた座布団を顎で示した。  その顎は、削げるように鋭く尖っている。

 薫がここに来たばかりの頃は、蝉はここまで痩せていなかった。

 自分のせいかもしれない。

 薫はその痩せた顎を見つめながら、ゆっくりと蝉の部屋に足を踏み入れ、座布団の上に正座をした。

 蝉が、しゃりんと微かな音をたてて鑢を畳の上に置く。

 薫を見つめる色素の薄い両目は、長いまつ毛に囲まれていなければ今にも溶け出しそうな、とろりとした色をたたえていた。

 「……どうして……。」

 薫が口にした台詞はそれだけだった。それだけ言えば、蝉にはなんのことだか伝わったのだ。

 蝉は目を伏せ、本気で分からないの? と問い返してきた。

 分からない、と、薫は呻くように答えた。

 「だって、あんなに親身になって、一緒に捜してくれたじゃないですか。」

 そうね、と、蝉が他人事みたいに呟いた。

 「俺、あんたのこと、本気で好きみたい。」

 その言葉もまた、他人ごとみたいに。

 そして蝉は、鋭利なラインを描く頬を笑みで歪めた。

 「あんたのねぇさん、見つけようと思えば多分簡単に見つかる。だから……、」

 「俺を、ここから出さないために?」

 揺れる薫の声に、蝉は苦笑を一つよこした。

 「前借金あるんだから、ねぇさん見つけたってこっから出られはしないでしょ。……嫉妬だよ。あんたのねぇさんに嫉妬してんの……馬鹿みたいでしょ。」

 「嫉妬……?」

 予想していなかった蝉の答えに、薫の声は自然に震えた。

 蝉は笑った唇のまま小さく頷いた。

 「嫉妬だよ。あんたのねぇさんは無条件にあんたに愛されてる。だから、嫌だったの。あんたに会わせたくなかった。」





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