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「瀬戸さんって、昔観音通りにいなかった?」
サチがそんなことを言い出したのは、春も終わりに近づいたある朝だった。着物を売りに来た業者から借りた振り袖が、サチの部屋一面に敷き詰められており、彼女はその真ん中あたりに正座して、あちこちの着物に手を伸ばしてはあれこれ評しながら購入する品を選んでいた。
「昨日ちらっと見ただけだけど、なんとなく見覚えあるわ。ユキねぇさんのところにいた子じゃないのかな。」
着道楽のサチに付き合って、部屋の入り口のまだ着物に浸食されていないエリアに立って、部屋中に広げられた着物を眺めていた薫は、はっとしてサチの黒々とした両眼を凝視した。
「覚えてるの?」
サチは、膝先に広げた真っ赤な振袖の襟元の刺繍を指でなぞりながら、なんとなくね、と答えた。
「終戦から5年くらい観音通りにいたんだけど、あそこは孤児が多かったでしょ。全員を覚えてるわけではもちろんないけど、器量がいい子か知り合いが面倒見ていた子供のことは覚えてるわ。」
「それで、瀬戸さんのことを……?」
「うん。器量はよかったし、ユキねぇさんのことも知ってたから。……かわいそうな子だったよ。ユキねぇさんは戦争でちょっとおかしくなってたから……。」
サチのいかにも売り物と言った感じの白い手が、手際よく赤い振袖を畳み直し、次は紺地に花模様のそれを広げる。
「みんなあの頃はちょっとおかしかったけどさ、ユキねぇさんは誰彼かまわず寝てたから、いっつも病気貰ってたよ。……その病気を、養ってた子供にも散々伝染してたって噂。」
これとこれを買おうかな、と、サチが赤い振袖と紺色の振袖を手元に残し、どう思う? と薫を見上げたが、薫はそれどころではない。
「俺のことも覚えてない?」
部屋中に広げられた極彩色の着物類を踏みつけながらサチに駆け寄り、彼女のすぐ目の前で膝をつく。その膝の下では、桃色の振袖が水紋のような皺を寄せていた。
サチはあっけにとられたように、急に必死さをむき出しにした薫を眺めていたが、やがてパーマネントのかかった前髪の下で眉を顰めた。
「やっぱり、薫も観音通りにいたの?」
「やっぱりってことは、覚えてるの!?」
噛みつくような勢いで問う薫を、サチは持て余したように曖昧に首を傾げた。
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