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「今でも分からないんです、あのひとの気持ちが。」
蝉の目を見られないまま、薫はつないだ右手だけをじっと見下ろしていた。
「キスはさせてくれた。セックスの真似事だってさせてくれた、それなのになんで、たった一言結婚をしてほしいって言っただけで追いだされたのか。」
声がぎしぎしと喉の奥で軋む。
薫は緩く長い息を吐いた。
蝉はただ黙って薫の手を握っていた。
「子どもの戯言だって無視してくれたらよかったのに。どうせ今だけの気持ちだって、無視してくれたら、よかったのに……。」
そうね、と蝉が煙草の煙でも吐くように細く鋭い息をついた。
「多分そうするには、あんたもそのひとも真面目すぎたんだと思うよ。」
「……真面目?」
「無視ができなかったんでしょ。あんたの台詞はきっと必死すぎたし、それを無視するには、そのひとは割り切りができなかったんだよ。多分ね。」
「割り切り?」
「ただの子どもの戯言だ、でも今は寂しいからこのこを手元に置いておきたい。キスもセックスも遊びみたいなもんだから好きにさせておけばいい。……そういう立ちんぼ、いくらでもいたと思うよ。」
割り切り、と、口の中で薫は呟いた。
確かにあのひとは、それができるほど器用ではなかったかもしれない。
「……あなたは?」
「ん? 俺?」
「俺のことこんなに抱いて、それって割り切りなんですか?」
そんな言葉を口に出したのは、寂しかったからかもしれない。
発言を撤回しようと慌てた薫を見て、蝉は笑った。大きな目を光らせて、それは鮮やかな笑みを浮かべた。
「俺とここを出ようって言ったでしょ。本気だよ。なにも割り切るつもりなんてない。」
なにも割り切るつもりなんかない。
その文字列は、薫の胸に正面から突き刺さった。
そして10年が経ってようやく彼は、あの女が自分を孤児院へ入れた理由を悟ったのだ。
割り切るつもりのない恋情を胸に突き刺されたら、怖くなってしまう。だって、自分はその言葉に応えられるような真っ当な人間ではないから。
「……怖い。」
呟いて自分の肩を抱いた薫を見て、蝉は切なげに目を細めた。
「怖がらせたいわけじゃあ、ないんだけどね。」
分かっている、と、薫は喉の奥で呻く。
少し眠りなよ、と、蝉の白い手が薫の身体をすっぽり布団で覆った。
こんな気持ちのままで眠れるわけない。
薫はそう思ったのだが、蝉に肩を摩られているうちに、すとんと眠りの縁に落ち込んでしまった。
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