「きみは眠らないね。」

 春が来たというのに、随分と底冷えする晩だった。

 瀬戸は火鉢の前で煙草を吸い、薫は彼が右手に持つ猪口に熱燗を注いでいた。

 「……そういう仕事ですから。」

 ぽつん、と薫は答えた。

 男娼の仕事は一晩客の相手をすることだ。夜中に客が目を覚ました時、ぐっすり眠りこんでいるわけにはいかない。一晩目を覚ましているのが当たり前だと、ここに来たばかりの頃、蝉にきつく言われていた。

 「そうじゃあない。」

 瀬戸が煙草の灰をぽんと火鉢の中に落とす。

 「隙がないんだよね、きみには。ほんのちょっとうとうとするくらい、どんな男娼にもあることなのに、きみはいつでも悲しいくらい目を覚ましている。」

 そうでしょうか、と、小さく薫は呟いた。

 自覚はなかった。ただ、蝉に言いつけられたことを仕事としてこなしているだけだ。それが悲しいことだなんて思いもせずに。

 「そうだよ、悲しいよ。」

 瀬戸の長い指がすいと動いて、猪口を薫の唇にそっと押し当てる。

 素直に酒を飲み干しながら、そうでしょうか、と、薫はまた呟いた。

 悲しいことはこれまで生きてきた中でいくらでもあって、たかが眠る眠らないで悲しくなれるような余裕が薫にはない。

 瀬戸は遊び方だけではなく悲しみ方まで贅沢だ。

 そんなふうに思いながら、薫は猪口に酒を注ぐ。

 「蝉の横でなら眠れるの?」

 「え?」

 唐突すぎる問いだった。いきなり飛び出してきた蝉の名に、薫は戸惑って銚子を持つ手を震わせた。

 「蝉とは、どういう仲なの?」

 どういう仲?

 戸惑った薫は、とにかく銚子を落とさないよう、瀬戸の前の箱膳へそれを戻した。

 動揺しているね。

 瀬戸が歌うように言う。

 薫は黙って俯いた。

 蝉との仲。それにどんな名前が付くのかなんて、薫自身にも分からない。

 「素直に答えていいよ。誰に言いつけるつもりもないし、きみを買うのを止めるつもりだってないから。」

 「じゃあ、どうしてそんなこと……。」

 「きみが好きだから。前から言ってるよね?」

 瀬戸の声音は淡々としていた。本当に、誰に言いつけるつもりもないし、薫を買うのを止めるつもりだってないのだろう。

 それでも薫は口をつぐむ。

 意地になったわけではない。ただ、本当に、自分と蝉の関係性にどんな名前が付くのか分からなかったのだ。





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