2
蝉の後について長屋を出た薫は、空の青さとそこから降り注ぐ陽光の強さに、一瞬目をくらませた。
観音通りに売られてきて三ヶ月、外に出たのは数えるほどだった。いつの間にか、夏が訪れていたのだ。
前を行く蝉は、薫の立ちくらみになど関心を示さず、どんどん先へ歩いていく。
「通りの真ん中あたりって言えばこのへんだけど、ここからどっちに入っていけばいいの?」
「……覚えてないです……。」
「そんなことだろうと思ったよ。」
「……すみません。」
ま、いいけどね、と歌うようにいった蝉は、当てずっぽうにどんどん歩みを進めてく。
真昼の観音通りはどの長屋も戸を閉ざし、人気はまるでない。二人の会話とて別段声を張っているわけでもないのに、通り全体に反響してでもいるような、妙な響き方をした。
「見覚えのある景色なんかないの?」
さくさくと足を進めながら、薫を振り向きもせずに蝉が問う。
薫は申し訳ないような気持ちになりながら蝉の背中を眺めつつ、よく分からなくて……、と答えた。
「まぁそうだろうね。バラック小屋なんて全部取り壊しになって、どこも長屋が建っちゃってるもんね。」
「はい……。」
薫が女に拾われた頃、観音通りの表通りだけは辛うじて木製の長屋が立ち並んでいたが、一本横道に入るとそこには、トタンや木の板を組み合わせた粗末なバラックがぎっしりと建ち並んでいた。女の家もその中の一つだったのだ。
それが今はバラック小屋など一軒も建ってはおらず、表通りと同じように長屋が何件も軒を連ねている。
景色が変わりすぎていて、記憶をたどろうにもその糸口さえ見当たらなかった。
薫は思わず深い溜め息をついたが、蝉は平気な顔をしていた。
「まさかこんなあっさり見つかると思ってたわけじゃないでしょ。」
けろりと蝉がいうから、薫も渋々頷いた。
蝉は可笑しそうに眉を寄せて笑うと、思い出話しでいいからなにか聞かせて、と薫に促した。
思い出話しと言っても、薫が女と暮らしたのはたった一月の間だけだ。薫にとって女は命の恩人であり、決して忘れることのできないひとであるけれど、他人に話せるような思い出話しなどろくにない。
蝉の後について長屋と長屋の間を通り抜けながら、薫は女との思い出をひっそりと辿った。
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