はじめての客を取る薫の身支度を手伝ったのは、当然のごとく蝉だった。

 もともと薫は、自分の身を飾ることに関心がない。看板屋時代は私服さえも作業着で通していた男だ。

 その薫に着せる服を、蝉は自分の手持ちの中から選び出して持ってきた。

 本来だったら、衣装は銘々ツケで買うのが長屋の決まりだ。溜まったツケで首が回らなくなるまで。

 「蝉はよっぽどあんたを気に入ってるのね。」

 シマコという若い娼婦が、そう言って教えてくれた。

 それでも薫は、蝉が着物を持って部屋にやってきたとき、そんな長屋の決まりなど知らないふりをした。

 知ってしまえば心のどこかが蝉に捕らわれる。

 「これ着ろ。似合うから。」

 蝉が差し出した着物は、透けるようにうつくしい薄氷の色をしていた。その上に濃淡さまざまな青い色で、桜に似た花が散らされている。

 こんなに典雅で華やかな衣が自分に似合うとは、薫には到底思えなかった。

 「ほら。」

 蝉に促されるまま、薫は身に着けていた紺色の着流しを脱ぐ。下着一枚になった薫の身体を、蝉は片手で引き寄せ、抱きしめた。

 この三か月で、もう慣れたはずの動作だった。それなのに今夜は心臓がざわめく。

 「あんたはきれいだよ。自分で思ってる何倍もきれいだ。きっと売れっ妓になる。それできっと、俺に抱かれたことも忘れる。」

 耳元で囁かれた言葉はひどく切なげだった。

 忘れない、と一言言えばいいのだろうか。そうすれば、目の前のこの男のどこか痛みでもしているような眼差しを、ゆるめることができるのだろうか。

 「あんた、本当に男娼向き。心のどっかが凍ってて、そこに入れるのはあんたが探してるあの女だけなんだろう。」

 分からない、と、薫は自分の胸を押さえた。

 凍らせているつもりはなかった。ただ、あの人の居場所を開けておくために、心の一部を空っぽにしているのも確かだった。

 「蝉さんのこと、俺は好きですよ。」

 声が掠れた。嘘ではないのに。

 「感謝、しているんです。」

 さらに言葉を重ねると、それは嘘の上塗りにしか聞こえなくなる。

 蝉が、薫の頭を自分の鎖骨のあたりに押し付けながら、低く笑った。

 「感謝なんか、してほしいわけじゃないよ。俺があんたにしたことなんて、全部下心だ。」

 だとしても、感謝している。本当に。

 その言葉は口には出せなかった。重ねれば重ねるほど、全ての言葉が嘘になるようで。

 だからせめて。

 薫はおずおずと両手を伸ばし、はじめて自分から蝉の背中を抱いた。




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