客取り
薫が観音通りに来てちょうど三カ月が経った日の午後だった。いつものように薫を抱いていた蝉が、急に薫の中から出て行った後、真面目な顔をして畳の上に胡坐をかいた。
急にどうしたのだ、と目を白黒させていた薫は、それでもなにやら重要な話でもあるらしい、と察して蝉の傍らに正座をした。
蝉の大きな目が、薫のそれを覗き込む。
蝉の視線は、らしくもなく揺れていた。
そして随分長い沈黙の後、ようやく彼が口を切る。
「今晩から仕事をしてもらう。」
はい、と薫は頷いた。そんな予感はしていたし、いつか必ず来る日だと分かってもいた。
それなのに蝉は、どこかが痛むような目をしている。
なぜ、と問う前に、薫の身体は勝手に動き、蝉の頭を抱き寄せていた。
明るい金色に染めた髪が、薫の薄い肩に素直に寄りかけられる。
「どうしても、ここを出る気はないの?」
蝉の声も、視線と同じように揺れていた。
どうしていいのか分からないまま、薫は蝉の金髪を撫でた。
「ありません。」
とだけ、短く答えて。
「女を見つけるのは難しいって、俺、言ったよね。」
「聞きました。」
「だったらさ、もう諦めてここを出た方があんた幸せになれるよ。」
「少しでも可能性があるなら、ここを出る気はありません。」
「抱かれる気? 不特定多数の男に。」
「それが俺がここに留まる条件ですから。」
蝉の声は不安定で感情の色が掴みにくい。対する薫は、きっぱりと強い意志を持っているのが声だけでも分かった。
どちらが負けるかなんて、そんなの声を聞いただけで分かる。
蝉の痩せた腕が、薫の骨ばった背中を抱いた。
薫はじっとしていた。それで少しでも蝉の気が晴れるならと。
蝉の手は、それ以上薫の身体をまさぐることもなく、子どもが母親にしがみつくみたいに、ぎゅっと彼の身体を抱いていた。
「いい客をつけるよ。」
ぽつん、と蝉が呟いた。
「俺の客の中で、一番の上客。セックスは上手いし、金払いもいいし、いい男だし。」
ありがとうございます、と、薫はそれだけ言った、それ以上の言葉が思いつかなくて。
「それでも俺は、あんたが俺以外の男に抱かれるのは嫌だ。」
強い口調ではなかった、半分以上が諦めで満たされた、静かな調子だった。
「すみません。」
とだけ薫は返した。それ以上の言葉はどこを探しても見つかりそうになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます