私はどっちだって構わないよ、と女が言った。その小さな両目は弥生と薫を忙しく見比べている。それは明らかに、人間を値踏みする視線だった。

 「だからと言って……、」

 親方は太い眉を寄せて薫をみやった。薫にどんな意図があるのか測りかね、訝しんでいる様子だった。

 「どっちだって構わないなら、やっぱり俺が行きます。」

 弥生はまだ状況の把握ができていないようで、はらはらと泣いている最中だった。

 「親方だって娘さんを取られたくはないでしょう。その点俺なら親もいないし。」

 言ってから、恩着せがましいいいようになったな、と、薫は少し反省した。

 だから肩をすくめてさらに先を続けた。

 「観音通りにはもともと興味があったんです。それで親方の役にも立てるなら、一石二鳥ですね。」

 ふうん、と、着物姿の女が薫をみやった。

 「興味がある、ねぇ。」

 はい、と薫は頷く。

 「だったらこっちを連れてくよ。」

 女が掴んだのは、薫の腕だった。

 「こっちのほうが腹が座ってる。よく稼ぐだろう。」

 薫は少しだけ笑って親方を見、軽く頭を下げた。

 腹が座っているわけではない。ただ、この機会を逃したら、二度と自分が観音通りと接することはないと思っているだけだ。

 「じゃあ、俺、行きます。」

 あっけにとられている親方と弥生を置いて、荷物の類いさえ一つも持たず、薫は女とともに店を出た。

 「観音通りに興味があるっていうのは、どういう意味だい。」

 さほど興味ありげでもなく女が問うた。

 薫は肩をすくめ、昔少しだけいたことがあるんですよ、と答えた。

 「知らないですか? 戦災孤児を拾って育てていた女のひと。髪が長くて、背が高くて、きれいなひと。今は多分、30すぎだと思うんですけど。」

 言葉にすればするほど、薫の中で女の面影はどんどん鮮やかになっていく。そのことが彼にはとても嬉しかった。

 長い黒髪、高い等身と、それに見合った長い手足。白くなめらかな皮膚と、低い体温を持った人。寒い晩には湯たんぽ代わりに薫を抱いて寝てくれた。

 知らないよ、と、着物姿の女は吐き捨てるように答えた。

 「そんな女、あそこには山ほどいるからね。どうせ名前も覚えてないんだろう?」

 覚えていないというか、もとより知らなかったのだが、薫は軽く頷いて、半歩先を歩く女の隣に並んだ。

 「捜したら、見つかるかな。」

 薫のそれは問いというよりはただの独り言で、したがって女もなにも答えはしなかった。



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