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薫が再び観音通りに関わることになったのは、看板屋の倒産がきっかけだった。
親方はなんとか店を経営していくためにあちらこちらにずいぶん多くの借金をしていたらしい。
倒産が決まったその日にはもう、濃いねずみ色の着物を身にまとった50くらいの女がやってきて、親方と店の客間にこもった。
「弥生ちゃんを連れに来たんだろう。親方に他に金目の物はもうないんだから。」
すでに自分の荷物をすっかりまとめて風呂敷包みにして背負った先輩が、潜めた声で薫に言った。
「弥生ちゃんを?」
薫は問い返しながら事情を把握した。
親方は15になる一人娘の弥生を担保に金を借りていたのだろう。その弥生が、借金を払えなくなった今、どこかに連れて行かれようとしている。
「観音通りだろうな。」
先輩が低く呟いた。
「観音通り。」
薫の声は自然と高くなった。
おい、静かにしろ、と、先輩が薫の脇腹を肘でつく。
看板屋の店先にも黄金の夕日が差し込む、うつくしい夕方だった。
観音通り。
頭の中で何回か呟いた薫は、店先から店の奥に入り、客間の襖を開けた。
おい、と、背後から驚いたような先輩の声が追っていたが、薫は振り向かなかった。
客間の中は、わかりやすい愁嘆場と化していた。
木製のテーブルを挟んで奥に座るのは濃いねずみ色の着物の女。腕を組んで険しい表情をしている。
手前に座っているのは親方と娘の弥生。親方は複雑な表情で黙り込んでおり、弥生は両方の頬にはらはらと涙を流している。
その三人が同時に、闖入者である薫を見た。
観音通り、と、薫は口に出して言いながら着物姿の女を見据えた。
「観音通りに連れて行くんですか?」
女はあっけにとられて目を瞬いていたが、やがて渋面を取り戻し、軽く頷いた。だからなんだって言うのだ、とでもいいたげな仕草だった。
薫、と親方が疲れた声で薫を呼んだ。出ていきなさい、という意味が含まれているとはっきり分かる物言いだったが、薫はそれを無視した。
「観音通りに連れて行くなら、俺にしてください。」
その場にいる薫以外の三人が、先程よりもさらに分かりやすくあっけにとられた。それでも薫は怯まなかった。
最後のチャンスだと思ったのだ。このチャンスを逃せば、自分はきっと死ぬまで観音通りに足を踏み入れることはないだろう。それは、怯えの結果として。
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