二・〝 街角 〟

 雨上がりの明け方。

 銀行前の交差点を歩いていると、中途半端な空の高みを鼠の群れが渡っていくのに出くわすことがある。

 黒い生き物の群は尻尾を振りたて、灰汁色の空を騒々しく移動していく。

 連中はどうやら空を海か湖だと思っているらしい。

 建ち並ぶ古めかしい摩天楼の間に人が目覚める前の喧燥がひとしきり反響し、やがて静寂が戻る。

 摩天楼の高い窓はまだ大半が雨戸を閉めたままだ。

 ところがこの鼠どもを、さらに高い空から襲撃する奴がいる。

 姿は見えない。しかしそいつは時折見えない刃を落として、空を渡る鼠どもを殺戮するのだ。

 鼠どもが命を絶たれるたびに耳障りな断末魔の絶叫が響く。しかし体を真っ二つに切り裂かれた瞬間、鼠の叫びはその姿もろとも谺も残さず消えてしまう。

 錆びた避雷針と垂れ込めた雲の間の空域に居座るそいつを『チェシャ猫』と呼ぶ者もいる。しかし本当のところ、そいつはこの世界の外から紛れ込んで来た尻尾のない小心な屍肉漁りだ。

 視界のぎりぎり外れに、今朝は奴のにやにや笑いがいつになくはっきり見える。

 こんな朝は上を見ずに歩くことにしている。

 電柱には新しい浄瑠璃のポスターも貼られているし、紺と灰色が交互に並ぶチェス盤のような舗石の間には、季節外れの蒲公英も咲いている。人を食った、猫のない笑いなんて今更見たくもない。

 しかし正直を言うと、ぼくはただ思い出したくないだけだ。


 ――この世界が本当は、陽の沈まぬ砂漠に半ば埋もれた巨大な帆船の船底だ、なんてことを、今更思い出したってどうなるものでもない。


 だからせめて僕は毎朝こうして、会社の回転扉を最初に回してやるのだ。

 沼の淀んだ水面を垂直に立てたような硝子扉がゆっくりと回りだす。まだ眠ったままの空気が、目覚める前の寝がえりをひとつ打つ。

 まだ受付のいないがらん、とした玄関ロビーには、今朝も微かに水苔のにおいが漂っている。

                                 ― 了 ―




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