終篇 しねないすべての人たちへ
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「久しぶり、ハウン」
「おう」
扉を開けて、旧友を迎える。
「やっと時間出来たんだね」
「すまんな、約束、遅れた」
「構わないよ」
ついさっき、ハウンから連絡があった時は驚いた。
以前から約束はしていたのだが、このところ忙しかったようで会えていなかったのに。
まあそれが何故かは分からないが、世の中皆自分と同じくらい暇だと思うのは無理がある。
「急に悪いな」
「さっきも聞いたよ。ダメなら断ってるさ」
ミルクに粉を溶かす。良い香りがした。
「はい」
椅子に座る彼の前に飲み物を置く。
「ありがとう……なんだ、これ?」
「ココア」
ハウンはカップを持ち上げ、半分ほど飲み込んだ。
「……美味いな」
どうやら彼も飲んだ事が無かったらしい。
やたら感動したような様子だった。
「友達がくれたんだよね」
「成程。良い女じゃないか」
「どうして女の人って?」
「そういう味がしたからさ」
「そういうセリフ、よく言えるね」
「似合ってるだろ?」
「割とね」
自分でもココアを一口。
ミナがいれてくれたものには勝てないけど、それでも美味しい。
「そうか、お前にもそういう相手が出来たのか」
「適当なこと言うなあ」
「違うのか?」
「あってるような……そうでないような」
肯定も否定もしないこちらを見て、ハウンは少し考え込んでいる。
「ん……お前、もしかして」
「?」
「二股とかかけてんのか?」
「!………げほっ、げほ」
なんか超能力とか持ってたりするのか?ハウンは?
……いや、かけてないかけてない。
「何だ、図星かよ?」
「そんなわけないだろ!」
「じゃあ……三股?」
「あのさ……」
ハウンは大口を開けて楽しそうに笑っている。うるさいなあ。
まあいつもの事ではあるけどさ。
「悪い、何だか感慨深くてな」
「何が?」
「あのスラムの小さなクソガキが色恋に興ずる様になったんだなってよ」
急な連絡と共に来たから何か要件があるものかと思っていたけど。
特に無いならそれでもいいか。
「クソガキだったのはハウンも一緒だろ」
「俺は今でもガキさ」
「そしてこれからもね」
「よく分かってるじゃねえか」
まだ向こうにいた頃。
あの貧民街に辿り着いた頃。酷い日々だったけど、仲間がいた。
ハウンは僕よりずっと先に死んでしまったけれど……
こうしてここに来て、また会えた。
「その子、いやその子達とは仲良くやってんのか?」
「だから二股も三股もしてないって」
「まあそれはいい。しててもしてなくてもな。
でも、仲のいい子はいるんだろ?」
「……まあね」
「やっぱりそうか」
「うん」
「どんな人なんだ」
「優しい子だよ。2人とも」
「そうか」
楽しそうに笑っている。
「……」
「どうかした?」
「ちょっとな……」
一番最初、ここでハウンに会えた時は泣きそうになった。
ああ、ここでなら会えるんだって。
だけど僕が泣く前に彼がやれゲームだやれ女の子だと騒ぎ始めたお陰で、再会にあたり涙する事は一度たりともなかった。
「お前も考え事か?」
「ここに来た時のことをね。君は?」
「そうだな……」
それでもまだ、考え込んでいるようだった。どうしたんだろうか。
ちびちびとココアを飲みながら、彼の返答を待つ。
「それが今日来た要件?」
「ああ……まあな」
珍しい。ハウンが何かを言い淀んでいるのは、あまり見ない気がする。
「……ごは、したんだがな」
小さい声で何か呟いたが、聞き取れない。
「無理には聞かないけど。時間は幾らだってあるから」
「……馴染んだもんだな、ここに」
少し驚いたように言う。
「来てからどれくらい経ったか覚えてないけど……馴染んだろうね」
「本当に覚えてないのか?」
「へ?」
「……ここに来てからどれくらい経ったか、お前は本当に覚えていないのか?」
声音が違う。そう感じた。
「今日で726日。……2年だ」
そうか、もう2年なのか。
僕が死んでからそれだけの時間が過ぎたのか。
「……」
またハウンは考え込んでいるようだった。
先の問に関連することなんだろうけど……
「もうそんなに経ったのか」
「ああ。」
「早いなぁ。何か昨日の事のようだよ」
「2年もの間……俺や、お前は。
何不自由無い楽しい時間を過ごしていたはずだ。
でも、それは俺らだけだ」
「何か今日は変だね、ハウン」
「……そうか?」
普段はこう……少なくとも何かを考え込むところはあまり見た事がない。
それで、もっとうるさい。
ここのところ忙しかったのと関係しているんだろうか。
「……おかしいのは俺じゃない。お前だよ、 」
僕の名を呼んだ。
「どうしたのさ?」
彼は再び沈黙した。
「黙られたら分からない。僕の何がおかしいんだ?」
問うと、再び口を開いた。
「……2年。2年経ったんだ。
お前にとっちゃ楽しい時間だったろうし、俺もそうだったよ。
こうしてお前とまた会えたんだから。
だがな。
……お前の妹は、どうしていると思う?」
……どうして。どうしてそんなこと言うんだ。
「やめてよ」
どうして、今になって。
「やめねえよ」
「過去の事はどうしようもないだろ」
「違えな。お前の妹ちゃんは今でも生きてんだ。
過去の話じゃねえ、今この瞬間の話をしてる」
今まで言わずにいてくれたじゃないか。
「下らない理屈だね。何も出来ないのは変わらないよ」
「ならお前は忘れるのか? 地獄に置いてきた肉親をよ」
「なんで君にそんな事を言われなきゃいけない?
僕の過去だ、僕の今だ。口を出すなよ」
「いいから答えろ。
妹を一人地獄に置き去りにして、お前はここでのうのうと笑って生きるのか?」
「……仕方ないだろ、何も出来ないんだから。僕は死んだんだよ、死人にあれこれ求めるな」
「べらべら喋るじゃねえか、死人がよ」
「……それに」
「何だ?」
「リエルだって、どうせいつか死ぬんだ。
そしてここに来る。……それでいいじゃないか」
僕が今更、後悔したり反省しなくても。
「……で? それはいつだ?
お前の妹はあとどれだけあの残酷な世界に1人でいればいい?」
「そんなの、」
「俺が聞きたいのはな、妹ちゃんが死んでここに来るまで、本当にお前が妹のことなんか忘れて生きる気なのかってことだ。
お前はそれで心から笑えるのか?」
「何なんだ、何なんだよ。何で急にそんな話するんだ。
……これまで楽しく過ごしてきたじゃないか。馬鹿みたいに遊んで、ゲームして」
「今こうしてお前が喚いてるのが何よりの証拠だろ。
今でも過去の罪から目を逸らせてない。自分が最低だって認識が心の底にあるんだ。
だから図星を付かれると反発する」
「そういうの、むかつくんだよ。人を分かった気になって」
「違うのか?」
「違う」
「じゃあ何なんだ」
「リエルの事がどうだっていい訳じゃない。
でも過去は過去なんだ。君が何と言おうと。
そしていつか、リエルもここに来る。
過去に囚われなくたっていい。僕がここで幸せに生きたっていいんだ」
ミナが、エトラがそう教えてくれた。2人が僕を許してくれた。
なのにまた罪を突きつけるのか?
「抜かせ。
幾ら開き直ったところで、お前の悪性は変わらない。
ここに来てすぐの頃、はっきりとお前は言ったよな。
僕は妹を置いて逃げた、こんな世界で救われちゃいけない。
救われるべきなのはリエルだ、助けなきゃいけないんだ、ってな」
「……だからなんだ? かつてそう言ったからなんだってんだよ?」
「てめえはもう分かってるんだよ。
自分のやったことも、これからやらなきゃいけないことも。
その上で目を逸らそうとしてやがる。
お前自身が妹ちゃんの事を何とも思ってないのなら別にいい。
俺の口から言うことは何もない。
だがお前は分かってるんだろっ! リエルを助けなきゃいけないって!」
「だまれよ。
僕はゆるされたんだ、もう苦しまなくていいんだ!
贖う罪なんてないんだ。やっと僕は救われたんだ。
下らない正義感を振りかざして邪魔するな!」
「誰がお前を許したんだ? ああ?
どこの誰にそんな権利がある?
そいつが許したら妹ちゃんは苦しまなくなるのか?」
「……」
「お前を許すかどうか決められるのは妹ちゃんだけだろうが」
「……そんなの」
「なんだよ」
そんなの、許されるわけないじゃないか。
「……僕がリエルの事をどう思ってたって、今更何も変わらないだろ」
「何だ、少しは反省したのか」
「うるさいな」
ハウンはポケットから端末を取りだす。
何かしらの操作をしたあと、またこちらを向き直した。
「なあ。もし、変えられる、って言ったら。
……お前はどうするんだ?」
「有り得ない仮定になんて、何の意味無いよ」
こちらを見つめたまま、彼は何も言わない。
「……まさか」
いや、でもそれは。そんなはず……
「君は……過去を変えようとでも言うの」
「違うな。先の事は分からねえし、昔の事は変わらねえ。
把握して、改善する。そんなことが出来るのは現在だけだ」
ポケットの中身が震える。
端末を取り出すと、何かを受信していた。
「これは?」
「開いてみろ」
突如画面が暗転する。……再起動しているようだ。
『キーコードの入力を:_?』
画面が回復する。
「コード?」
「…………Ω31412α」
「何なんだよ、これ」
「端末の制限解除プログラムと、起動コード」
「はあ?」
「選択肢が無ければ、少なくとも自ら選ぶ苦しみを、或いは選ばない苦しみを味わずにすむ。
だが今のお前には選択肢が必要だ」
「何を言って」
「良いからそのまま入力してくれ」
分からないまま指示に従う。
「覚えてるか? 円周率には終わりがあるって話」
「そういえばそんな嘘を教えられたっけ」
「嘘じゃないさ。
時間は永遠じゃない、数えてる内に観測者が滅ぶなり飽きるなりする」
「数学にとんちを持ち込むのか?」
「哲学と言え」
「どっちにしたって問題のすりかえだろう………結局観測者は滅びなかったわけだけど。
丸は無限を秘めたままさ」
「ここが永遠なんて誰も言ってないがな」
「……ほんの数百年前まで猿だった時代からここに人が現れたらしいじゃないか。
人にとっちゃ永遠みたいなものだろ」
一瞬の間を置いて見たことの無い文字が現れる。
「うわっ」
端末を落としてしまう。
端末の外装とが展開、変形し内側から光が漏れていた。
「何だこれ」
「権限を認められた端末は何かしらそういった反応をする。
誰かの考えた演出なんだろうな」
開発者の趣味だろうか。
光は暫く放たれた後消えたが、変形は戻らなかった。
端末を掴みあげる。……持ちづらい。
先程のと似た文字で幾つもの項目が並んでいた。
「……読めないけど?」
「今追加で送信したのも読み込め」
「どうやって?」
画面上から通知ウィンドウのようなものが現れる。
「それだ」
言われた通りにすると再び暗転と再起動をした。
『想像主権限 限定許可』
「想像主? 何だ、それ……」
今度は読める文字だった。その後に出てきた複数の項目も全て読める。
そこにあるのはどれも、この世界に対してある程度の作用をするものだった。
エーテル変動、ポイントの無限化、ルールの解除、管理者領域の立入、情報可視化………
一番下までスクロールさせてみると、データの消去、そう有った。
…………データ? 何のだ。
『この世界を構成する情報の一部(例:オブジェクトやそれに付属する意識情報、イメージングキャッシュ、ログ等)を消去します。
消去後、遺された世界情報の齟齬を修正するため世界を再起動します。
この際ファイルの修正を失敗したり、クラッシュしたりすることがあり、フォーゲッティングもリイメージングも推奨されません。』
記されたそれを、反芻する。
何を言ってる?
オブジェクト、意識情報、イメージング、キャッシュ、ログ、世界情報、再起動、ファイル、クラッシュ、フォーゲッティング、リイメージング…………1つずつ、考える。
僕らのそれとは違う常識、前提のもとにこの文章は書かれている事がうかがえる。
そして、他の項目が世界への作用を示唆する内容だったのだからこの項目も同様だろう。
推測なら、幾らか出来る。
合っているかどうかはともかく。
……まさか、ね。
「永遠とは限らない、か」
「そのデータ消去ってやつは見かけだけで実際にそんなことは出来ん、検証済みだ」
「……だったら何故思わせぶりな事を言うのかな」
「更に権限が許可されたなら使えるのか、或いは機能を作ろうとして項目だけが残っているのみでそもそも使えないのか。
分からねえ」
安堵が薄れた。
「これは……何なんだよ」
「詳しい事は分からん。
この世界を研究してる奴が一定数いるが、その内の誰か……先行者が開発したものらしい。
そいつはこの世界について世間一般に知れ渡ってる情報より相当多くの事を知っている。
結果こんな世界への作用の仕方を生んだ。
あるいは気付いた」
「何でハウンがそんなもの」
「調べたんだよ。必死にな」
このところ、ずっとハウンが忙しそうだったのはそれだったのか。
しかし何故?
「……項目の下から四つめ。「転位」ってのがあるだろ」
言われた通りのところにそれはあった。
「それであっちに蘇ることが出来る」
淡々とそうのたまう。
「……冗談言うな」
「紛れもなく事実だよ」
項目の説明に目を落とす。
『ゲートの開いている間に限り、転位装置を起動し第一世界へ回帰することが出来ます。
ただし、第二世界への再回帰は保証出来ません。』
小さく、『アバターの仕様は多くを当人の転世以前のそれを準拠しますが、同一のものではありません。』とあった。
「この第一世界ってのがあっちだって?」
「ああ。ゲートも今なら開いているらしい」
……何だよ、それ。
ふざけんなよ、どうして今更、こんなの。
「未来でもなく過去でもなく、現在ならば変えられる。
お前の意思次第でな。
……挑発するようなものの言い方になって悪かった。
どうするのもお前次第だ」
「くそ………くそが」
「……」
「今更妹に会って、どうしろってんだよ……」
「少なくとも、喜ぶだろ。安堵するだろ」
だから何だ、と言いかけて止めた。
その一言は発する気にならなかった。
「戻れるか分からないんだろ?
……どうせいつか死んでここに来る妹の為に、僕に一生向こうにいろってのか?」
「再回帰者の情報は全くと言っていいほど見つかっていない。
が、回帰者のそれは僅かながらあるんだ。
既に幾つかの彼世研究者に協力を頼んである。
お前が向こうに行くのなら調査と研究とを続けて再回帰の方法を必ず見つける」
選択肢がそもそも無ければ、悩むふりをするだけで良い。
演技は上手くないけれど、楽な事だ。
意欲はあるのだ、願っては居るのだと。しかし出来ないのだから仕方無いと。
でもハウンは、選択肢を造ってしまった。
本当に凄いやつだと思う。
この訳の分からない世界を、しかし楽園を、抜け出す方法を探し続けて見つけたのだ。
彼が有能でさえ無ければ。諦めの良い男であれば。
幸せに満ち溢れたこの空間に絆されてさえいれば。
………優しくなければ。
悩む必要は無かったのに。
「なら、その再回帰とやらの方法が見つかってからでいいだろ」
「お前がそれでいいなら構わん。
ただゲートが閉じたら、次開くのがいつになるかは分からない。
以前開いたのは11年前だそうだ」
「……何なんだよ。何でそこまでして僕を向こうに行かせようとするんだ」
「お前が本当に妹の事を無かったことにして生きていけるんならこんなことはしなかったさ。
だが、違う。そうじゃない。
お前は妹を置いて1人だけ楽になったクズだが、その妹を完全に忘れされるほどクズじゃない」
「何を根拠に」
「言ったろ。忘れられてないから昔の話をされると感情的になって喚くんだ。
それに……」
「……」
「俺の知る限り、お前はそういうやつだ」
また知った風なことを言う。
「まあお前が行かないってんなら、俺が行くさ」
「……本気か?」
「ああ」
ずるい男だと思った。それは脅迫に近しい。
「そんで場合によっちゃ妹ちゃんを殺すだろうな」
……薄々考えていたそれは、はっきりと口に出されてしまった。
「何だ、驚かないのか」
「気付かないわけないだろ。
……天国があるなら、現世で必死こいて生きる意味なんて何も無い。
さっさと死ぬべきだ」
自らが口に出した言葉の意味を反芻する。
それに対する感情の拒絶は無いわけじゃなかったが、どうしようもなく理性がそれを正しいと決定づけていた。
「はっきり言うじゃないか」
「皆分かってる事だろ。知らないフリしてる奴も多いけどさ」
「そうだな、どうしようもなく正しい」
氷だけが入ったカップを揺すっている。
「かつて宗教は、死後に楽園が有ると信仰していた者達は、それでも必死に現世を生きることを良しとしていた。
そうする事で初めて楽園に行けるのだともしていた」
「向こうにいる頃から信者には会ったことがない。本気でそう信じていたのか?」
「さあな。
だが必死こいて生きろだなんてわざわざ言うんだ、死後の楽園への疑いと消滅の恐怖が拭えなかったんだろ」
「死なれたら布施が減るからじゃないのか」
「ま、そっちが主かもしれんがな。
そもそも無宗教だが、ともかく今やその疑いも恐怖も無い。
だったら別に死んだって良い」
「……死んだ方が、幸せだ」
「ま、そんな事言えるのは死人だけだが。あっちの奴らは今だって死ぬのが怖いんだからな。
死を憂うは生者のみ、死を讃えるは死人のみ。
されど生者は地獄の中に」
ココアのおかわり貰える?とのたまうハウンのカップに水だけ注ぐ。
そんな彼を尻目に、自分のココアを仕立てた。
「ねえ、もし向こうで死んだらどうなるの」
「それも分からん。
降りたやつの報告はあるが、そこでの行動や生活を記したデータは無い。
まあ連絡を取る手段が無いんだから、当然だな」
「……だけど、死んでこちらへ戻れるなら再回帰者がいても不思議じゃないのか」
「そうなるな。
最も発見されてないだけで、既に再回帰者がいる可能性もあるが」
気休め程度の希望だ。すがれるほどのものじゃない。
「ま、そんな訳でどうするのもお前次第だ。
向こうに行くのも行かないのも、行って仲良く暮らすも殺すもな。
苦しむと分かって選択肢を作ってしまったことは謝る」
何も答えられない。ココアは甘かった。
「もしお前が向こうへ行くとして、妹ちゃんを楽にしてやるなら。
言うまでもないがそれは殺人だ。
覚悟はしとけよ」
「……」
彼は水を飲み干して、立ち上がった。
「もう行くの?」
「ああ。研究を続けなければならない」
「そう」
「答えが決まったら連絡をくれ。詳細について話をする」
立ち上がったハウンはそのまま動かず考え込んでいた。
先程こちらを挑発していたそれとは違う、暗い表情に見える。
「……なあ。分かってはいるんだ。
お前が妹ちゃんを思うのと同じか、それ以上に。
この世界とその今を愛してることも。あの世界への憎悪も。
俺だって同じだ。
飢えることも無い。働くことも無い。偉そうな大人に頭を下げることも無い。汚ねぇ体でいることもない。鼻の曲がるような臭いをさせることも無い。捨てられたガキを見ることも無い。誰も死なない。
……最高だよな。
必死こいて生きようとしてたのが馬鹿らしくなるくらい。
それなのに、俺はお前を、向こうにまた……」
「さっきと言ってることが違うね。僕を地獄に落としたいんじゃなかったのか?」
「傲っていて悪いが……救いたいんだよ」
「リエルを?」
「お前だよ」
淡々と、そう言った。
「俺だってこの毎日を愛している。そこにお前は不可欠だ。
それでもお前は選択の権利を持つべきなんだよ」
「その権利とやらを、何で君が作る」
「それが俺の望んだ事だからだ」
ようやくこちらに背を向けて、ドアへ歩きだす。
彼は昔と変わらない。
あの頃から、僕よりも先に居て僕を導こうとしていた。
それは心強く、歯痒かった。
僕という人間は彼を上回れないのだと。勝てないのだと。
そして僕がそんな事を思っている間、ハウンは別に勝とうとなんてしていないのだ。
自分が矮小なのだと気付きそうになる。
「またな」
返事をしようとしたが、声が出ない。
驚くほど静かに彼は去っていった。
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アンチエーテルに関するデータを読み終える。 もう幾度目だった。
初めて読んだ際浮かんだ発想が誤りでないか確かめるために、こんなにも繰り返す必要があったのだ。
これの性質は名前の通り、エーテルを無効化するものらしい。
自然に存在するものでなく誰かが作ったものだそうだ。
空気中に漏れればエーテルを汚染し、アンチエーテルと変化させる。
それを繰り返していく。
結果的に全てのエーテルが失われてしまい、人間だけでなく全ての生物が死に至る。
そういう性質があるのだと記されていた。
研究、報告されたのなら既に効力の発揮をしてしまっていそうなものだが、どうやらアンチエーテルは第二世界のエーテルを汚染できないらしい。
あちらから来たものがたまたま持っていたエテリア製のビスケットなどで実験が行われ、そのビスケットはアンチエーテルとして変質を起こし崩壊したという。
最もこの不死の世界で、エーテルが消失することによってぼくらが死に得るのかは分からないが。
アンチエーテルは存在が一般には公表されておらず、制作されたサンプルはほとんどがとある場所へ保管されているが、ごく一部の所在が不明である。
以上が報告書の概要だった。
報告書にはプロテクトが仕込まれていたが解放済みの端末なら破ることが出来た。
外装が展開され制限が解除された端末は先のプロテクト解除や転移装置の起動など様々な機能が追加されている他、ネットワーク上の様々な情報を無差別に端末内に取り込んでいるようだ。
つまり転位先でもその閲覧や使用ができるということだった。
その中には、解放以前は確認できなかった情報も多くある。
以前とは比べ物にならないほど、多くを知ることが出来た。
端末をベッドに投げる。
とっくに陽は落ちた。
部屋の中も暗くなってきたが、明かりを点けるのにはベッドから起き上がらなければならない。それが酷く面倒だった。
砂時計は変わらず白から黒へ、星の砂を駆け昇らせている。
2人の顔が思い浮かぶ。今何をしてるんだろう。
抱きしめられた感触を思い出すと、落ち着かなかった。
口に出すのははばかられるが。
あっちへ行くなら、もう会えなくなる。
それがどれくらいの間かは分からない。5年か10年か、永遠か。
そしてその間、またあのグレーコートの上で生きなきゃいけない。
嫌だ。そんな苦しいことは。
どうして死ななきゃならないんだ。僕は今生きてるんだ、この世界で。
殺されてたまるか。
……なら、リエルは? 今だって殺され続けてるじゃないか?
あの世界に、僕に。
贖罪を為さねばならない。
少なくとも、僕は女と幸せになる権利なんかないんじゃないか。
だがミナは、エトラは。
許してくれると言ったのだ。許されてもいいはずだ。
その権利が僕にはあるのだ。
寝返りをうつと、開かれた窓の先に三日月があった。
心地の良い夜風。
どうしようもなく思い出す。死んでなお脳みそに焼き付いている。
忘れようとしたけれど結局叶わなかった。
あの日。
月が綺麗だった。妹から逃げた。多分僕は狂っていた。
多くの感情を拗らせた結果だが、どれも確かに抱いていたものなのだ。
リエルを大切に思うのも、独占欲も、生きていて欲しいと思うのも、彼女がいなければもっと楽に生きられたと思うのも。
そして、幸せになれないのだから生まれない方が良かったという思いも。
矛盾だらけだ。
否定と肯定が混じりあっている。
リエルは気付いていたのだろうか。僕の感情に。
昔から僕は歪んでいた。
妹に関することだけじゃなく。
環境のせいにしておきたいが、まあきっと僕自身がそういう人間なのだろう。
小さい頃はよく母を恨んでいた。育てられもしないのに、何故産んだのかと。
父の記憶はなかったから、憎悪の対象は基本的に母だった。
家にあった写真には父も映っていて、家にはいないけど父なのだとその男を指して母が言っていた。
多分、望んで僕とリエルとを産んだのだ。望んでセックスして、望んで産んで、捨てたのだ。
バカ女め、死んでしまえと何度も思った。
無論父も含めて、少なくとも僕とリエルには殺す権利があるように思う。
施設にいた子供達は僕らと同じ境遇にあった。
殺すまでもなく、もう既に親が死んでしまっている奴もいたが。
何故あの時代に子を産むのか。
仮に自らの手で育て切るとしてもだ。
絶対に幸せにしてやれるという自信でもあるのか。そんなものがあるのならそれはただの馬鹿だ。
性欲で作って、エゴで育てた子が幸せになれなかったら、その責はセックスした親にある。
お前らが作んなきゃ生まれなかったのだから。
仮に幸せになれたとしても、そんなものは結果論だ。
不幸を感じて、それでも死への恐怖から生きざるを得ない。
そうなる可能性をもつ自意識を産み落とすのは大罪と言っていい。
例え動物でも、それくらいの分別を付けろ。
特にあの戦時下だ、尚更不幸になりやすいのは分かりきっているのに。
それなのに出生率はそう低くもなかったのを覚えている。
さすが三大欲求だ。ガキの幸せとかは関係ないのである。
ただ、認めたくないけど。
僕はミナもエトラも、リエルも大好きで。
彼女達はどっかの誰かが快楽に溺れなければ生まれなかったのだ。
そして僕もそうして生まれなければ彼女達に会えなかった訳で。
そんでこの感情には、性欲が混じってる。
あーあ、困ったものだよね。
人の悪性が変わるわけじゃないけど、愚者を弾劾する権利が同様に愚者である僕にあるのか、ってさ。
僕らは結局の所、動物なのだ。
強めの理性を獲得しそれに準ずる生き物として、欲に準ずる他の動物から特別視をしたくなるのは分からないでもないが。
我々人間も欲望に準ずる一介の動物に過ぎない。
そもそも理性なんて、欲望の置換と正当化、或いは瞞着に過ぎない。
命を喰らうことにマナーを作る。
結局散々食い殺すのに、それ以外の屠殺を禁忌とする。
正当に暴力を振るって気持ち良くなるために正義を掲げる。
自らを常に被害者にし、気に入らないものを常に加害者にしようとする。
落ち度のあるものを罵り、嘲って嬲り殺す。
セックスして作った子供へセックスを汚いものとして遠ざける。自らはセックスを続ける。
そして嘯く。或いは信ずる。
我らは知性と理性に準ずる人間と。
欲に準ずるのみの他の動物とは在り方を異にするのだと。
いつだったかミナと話した。
論理を好み、感情論を嫌う現代的人間のその性質はなるほど理性的に思える。
だが人間社会を取り巻き構成する論理という概念の正体とは、感情なのだ。
感情に理屈を後付けして主張していると言ってもいい。
論理とは感情と相反する存在と捉えられがちだがそれは否であり、寧ろ同一である。
例えば何故人を殺してはならないのかという問いをおく。
ある者はその理由に法を持ち出すだろうし、ある者は道徳を持ち出すだろう。
前者を考えるに、何故法を守らなくてはならないのかという問いが生まれ、それは人間社会を滞りなく営むためと答える者もルールを守るのが正しいことだからと答える者もいる。
では何の為に滞り無い人間社会の運営が必要なのか。
何故正しいことに従おうとするのか。
これは社会によってもたらされる自らへの利益、快楽や、正しいことをしたのだという自己満足、快楽の為である。
つまるところ「腹が立つから」「可哀想だから」「気持ちよくなれないから」人を殺してはならない、という感情論、自らの不快に殉じたものに過ぎない。
どんな論理ですらその根本には感情が存在し、従って全ての論理は本質的に感情論である。
先の例で考えれば、法でなく道徳を考えてもそれは同じだ。
勿論僕の考えたような分岐とは違う道筋や回答を辿っていくかもしれないが、根源的に感情論であることには変わらない。
論理は感情だ。
もっと言えばそれぞれにとっての快を得、不快を避けたいという人の原則的な心理から生まれる欲求だ。
殺人を許さぬ理由を感情とするのは何ら問題のないことのように思えるが、では殺人によって快楽を得る者がいたとしたらどうするのか。
誰かの「楽しいから」と誰かの「嫌だから」はどちらが優先されるべきなのだろうか。
前者なら殺人は肯定される。
後者を優先すべきという人間がもしかすると多いのかもしれないが、ならば「貴方が存在していると僕が不快なので死んでください」とでも言ったらどうするのか。
死ぬべきなのか、「私も死ぬのは不快なので嫌です」と言うのか。
感情論はぶつけあっても答えは出ない。
では何故、感情論であるはずの論理がぶつかると答えを出すことがあるのか。
論理による議論が答えを出し得るのは論理=感情論に無理矢理優劣をつけているからだ。
「騒音を掻き鳴らすのは迷惑で不快だ」を優とし「音を奏でるのは幸福で愉快だ」を劣とする、とでも言えばいいのだろうか。
そして「公共の福祉のために音量に配慮しなければならない」だとかと結論づける。
本来ならば、この優劣はつけられず「人による」はずのものだ。
どちらも感情論なのだから。
しかし社会や文化といったものによる学習或いは洗脳、本能や遺伝子によって、この優劣はある程度同じものを皆共通認識として理解しているのだ。
だから一応、多くの議論は議論として成り立つ。
しかし皆が分かり合えるほど、等しい論理の優劣=感情論の優劣の認識を持っているというわけじゃない。
またそれぞれ何に快を感じ、不快を感じるのかという感性も違うからそこから生み出される感情論も異なる。
結果、論理でコーティングされた個々の異なる感情論の押し付け合いが始まる。
これが議論であり、議論とはそれぞれの感情論のうちどちらがより優先される感情論か決めることだ。
現代社会はひたすらに論理によって構成され、議論を全ての中心において、また人も論理の鎧と矛を持って自らを正当化しようとする。
その過程で感情論は切り捨てられようとするが、だがしかし誰も結局感情論を述べているに過ぎないのだ。
無意識的に、それが自分にとって快か不快かで主張を決めているのだ。
畢竟、議論も論理もそれを司る理性と重んずる現代社会的有り様も全ては無意味である。
快を得たい、不快を避けたいという快楽原則と感情を振りかざしているだけだ。
人は獣を脱していない。
戦争するのも、セックスするのも、エトラとミナが愛しいのも、リエルを助けたいのも等しく動物的な欲望なのだ。
それで、純粋に動物たる僕はどうするのか。
せめぎ合ういくつもの欲望の中でどれを優先しどれを諦めるのか。
事は結局、優先順位の問題と言えた。
それを付けられないから困っているのだが。
大好きな人達と、大嫌いなあの世界。
あそこにいると心が腐り落ちて行くのがわかる。人間性が欠落していくような。
そんな所に戻れるものか。
こちらに来てから、生きている頃よりも随分人当たりが良くなった自覚がある。
この世界なら、僕ですら優しくなれるのだ。
……妹見捨てておいて言えたことじゃないか。
セックスは罪、生は罰、死は救済。
罪を犯す人と罰せられる人が違うのが理不尽だ。
まあでも今回の場合は自分で犯した罪だし、罰を受けるかも自分で選べるんだ。
幾分マシかな……
投げた端末を拾い上げる。
確認をしなければならない事があった。今の端末なら答えを知れるだろう。
幾つかの検索をする。
要するに、僕の夢は叶うのかって事だ。
─ ─ ─ ─ ────── ─
赦されし我が罪と、何人も罰せぬ人が罪
贖え、神と為りて
───── ─ ─
「よ、よく来たなっ」
「エトラ、それ私の台詞」
2人に家の中へ招かれる。
「どうしたの? 君から話があるなんて」
「どーしたんだ?」
程度に差はあるけれど、どちらも不安そうに尋ねてくる。
ミナは通話口から聞こえる声に違和感を覚えたのだろうし、エトラはそれを伝えられたのだろう。
あまり不安がらせたくはなかったけど、どうしても明るくは話せなかった。
「話さなくちゃいけないことがあってさ」
「こ、この前言ってた旅行のことかっ?」
「それも含めてね」
「……そっか」
それきり、黙り込んでしまう。申し訳ない。
ここ最近、ミナの家によく来る。もう3回目だったかな。
「……」
ミナは黙っていた。
何を考えているのかは分からない。
彼女に案内されて、あの部屋に通される。
「飲み物持ってくるけど……何か注文ある?」
「ココアが飲みたいな」
「また?いいけど」
そう言ってミナは厨房の方へ行った。座り込んで鞄を置く。
「……で、お前どうしたんだよ。
ミナから聞いたけど、何か様子が変だったって。
今だって何かおかしいしっ」
「心配かけてごめんな」
もう決めたのだ、変えるつもりは無い。
けれどエトラの表情を見ているとひどく辛かった。
「別に謝んなくていいけどさっ……」
ミナがココアを持ってきてくれる。
「はい」
軽く揺すると氷が鳴った。冷えたグラスに口を付け、傾ける。
「……美味いな」
やはり自分で作ったものよりも美味しかった。
何が違うのか分からないけど。
ミナもエトラも、こちらをじっと見ていた。
「それで、今日はどうしたの?」
「ああ……」
何をどう言うべきか。
一昨日、昨日と何度も頭の中で反復した。その通りに伝えればいい。
諸々の準備で1日かけてしまったけれど、決心は一昨日の段階で出来ていた。
難しいことは無いはずだ。
「僕らが死ぬ前の世界。
あちらの世界に……戻る方法があるって話、聞いた事ある?」
ゆっくりとそう発声する。
「……何だ、それ?」
「聞いたことはあるよ。昔ほんの少し騒ぎになったって。
でも論文や著書がある訳でもないし、その具体的な方法は誰も知らない。
だからどこかの誰かが流した嘘だって説が支配的だったけど」
ミナは知っていたようだ。
何かを予測したのか、顔が険しくなった。
「……それがどうしたの?」
核心を述べなければならない。
迂遠な物言いは許されない。さあ、早く。
「ぼ、僕は」
声が上手く出ない。覚悟していたはずなのに。
「……」
「僕は、」
言うんだ。
「あの世界に行くよ」
言い終わった。
少しだけ力が抜ける。
「この前、話したよね。リエル……妹を放っておけない」
言えたという安堵と言ってしまったという後悔が頭の中で混ざりあっていく。
「随分急な話ね」
「僕だって一昨日まで知らなかったんだ。
あっちに行けるなんて。でも、知ってしまったんだよ」
ミナが問う。
「何故君が向こうに行く方法を知っているの?」
「友達が見つけてくれた。研究者に協力を取り付けたらしい」
「そう……出立は?」
「今日。2人に話を終えたら」
「……それで」
エトラはこちらを見つめ続けている。視線を逸らしてしまう。
「いつ戻ってくるんだ……?」
その声音は、返答を躊躇わせるものだった。
「……分からない。戻ってこれるのかどうかも」
エトラは震えていた。
「けどきっといつ」
立ち上がった彼女に肩を掴まれる。
「っ」
とても強い力だった。
「そんな嘘は、やめろ」
「エトラ……」
「あんなところ人のいて良いところじゃない。帰るだなんて世迷言を言うな」
有無を言わさぬ表情だった。……体が強ばる。
「ボクたちは3人でこれからもずっと一緒にいるんだ。
そうだよな?」
普段のエトラのそれとは違う、威圧的な声色だ。
怖いと感じているのが自分でも分かった。
「……僕は行かなくちゃいけない」
拳が頬に飛んで来た。
床に伸びる。久しく感じていなかった痛みだった。
「分からないみたいだからもう一度言うぞ?
あんなところに行くことは許されない。ボクが認めない」
襟首を掴まれる。
よく見ると、エトラも震えていた。
「あそこは人を苦しめる、腐らせる。
お前がみすみすそうなりに行くのを黙って見ているわけないだろ」
「だけどリエルは!」
「口答えするな。黙れ」
襟を掴む腕を解こうとするが、一切動かない。
腕に籠る力が強くなっていく。
「離して、エトラ」
「お前の言動次第だ」
エトラに力では敵わない、分かってはいる。
けれどこのまま言うことを聞く訳にも行かない。
必死の力を込めて、腕を引き離す。
「っ! 抵抗するなっ」
更に追ってくる腕を叩き払う。嫌な音がした。
罪悪感が込み上げる。
「そうか、お前はそうするんだな」
「僕は……」
「きっとその友達とやらに変なこと吹き込まれたんだ。
じゃなきゃお前がこんなことするわけないもん」
「違う、これは僕自身の意思だ」
「可哀想に。
でも大丈夫だ、お前はボクが癒してやる。正してやる。
友達だもんな」
「エトラ……」
「心配するな。
ボクはいつだってお前の味方だ。
そうだその友達……いや、お前をそそのかした馬鹿とも話をしなくちゃな。
やっちゃいけないことをやったんだ。
罰を与えないと」
「違うよ……僕は他の誰でもなく、僕自身の意思で向こうに行くんだ。
全て僕が決めたことだ」
「……今は分からせるしかないみたいだな」
冷たい声。身体がすくんだ。
彼女は拳を引いて、こちらに飛び込もうと━━━
「エトラ、だめ!」
動きが止まった。
「……お前がどうしても堕ちるって言うなら、ボクもついていくからな」
「なっ」
「ボクだって本当ならお前を行かせたくない。
お前は優しいやつだ。
あんな世界に関わって心が荒むのなんて絶対にあっちゃいけないけど……
それでも行くって言うならボクは一緒に行くよ」
「やめろ! そんなことは」
「そうか。
お前はボクの行動を認めないし、ボクはお前の行動を認めない。
なら仕方が無いな」
エトラは頑なだった。
予想出来てはいた事だったが。
「なあミナもなんか言ってよ。
やっと分かり合えたのに、こいつどっか行こうとするんだ」
「私は………」
俯いて黙り込んでしまう。ミナは何を……
「……そうか。ならミナはこいつがいなくなってもいいんだな」
「そんなわけないっ!」
叫び声が響く。
「じゃあ簡単だろ。こいつをぶん殴ってでも止めなきゃ」
「…………」
「……ばか」
エトラはまたこっちを向き直した。
「お前がここを出ようとするなら無理矢理止める」
元より無理に出る気は無い。
2人に納得してもらうためにここに来たんだ。
……それがどれだけ難しく、残酷でも。
「エトラ、分かってくれないか」
何も答えない。
「僕だってあの世界は大嫌いさ。でも!」
エトラの蹴りが腹に入る。
「っ! ぐっ、あ」
「エトラ! やめて!」
「ボクの気持ちが分からないこいつが悪いんだ」
痛みは大したことは無い。そういう世界だ。
だけど苦しかった。
「いい加減諦めてくれよ。
ボクだってお前に暴力なんて振るいたくないんだ」
「それは出来ない……」
「お前はそんなに人の気持ちが分からないやつだったか?
失望させないでよ」
「分からないわけないだろ」
「じゃあ何だ?
ボクの気持ちを知った上でお前はあんなことを言ったのか……?」
「……」
「答えろ」
本当に僕はエトラの気持ちを分かっていたんだろうか。
今になって分からなくなってしまう。
「要らないことはべらべら喋るのに、大切なことは何も言えないのかよ」
エトラが感情をこんな風に発露させるなんて思いもしなかった。
ただそれが誰のせいかだけは明白なのだ。
「それでも、エトラ。僕は」
「何だよ、その目。まだ反抗するのか」
威圧的な台詞と表情が食い違っていた。
まるで、今にも泣き出しそうな。そんな顔にも見えた。
「ごめんね。もう覚悟は決まってるんだ」
「……なんなんだよ」
刹那、腹部に衝撃。エトラが僕の上に乗っていた。
「なんなんだよっ!」
右腕が頬にねじ込まれる。
「なんで分かってくれないんだ!」
何度も拳が顔に飛んでくる。
「エトラっ!」
ミナが無理矢理引き剥がそうとするも、暴れるエトラに振り払われてしまう。
「お前は、どうして」
彼女の頬に涙が零れていた。
「これからずっと、三人で一緒に」
消え入りそうな声だった。
「お前の罪なら……ボクたちが許すから……だから……」
「僕の罪は消えないんだ」
「じゃあボクもついてく!」
「だめだよ、エトラ。罰を受けていいのは、罪を犯した奴だけだ」
「……だから? だからボクを置いてくのか?
それは罪じゃないのか?ああ?」
「ああ、罪だよ。それでもさ、行かなきゃならないんだ」
「……お前はボクの事より、妹の方が」
「違う、そういうことじゃない」
「じゃあいっしょにいてよ」
濡れた瞳が少しずつ、こちらに近付いてくる。
「いっちゃやだ」
嗚咽の混じった声。
「お前がボクのことおいてどっかいくわけないよな……?」
「……」
「いっしょに旅行いこうっていったじゃんか……」
「……」
「ねえ、」
僕の名前を呼ぶ。
エトラを抱きしめる権利はもう僕にはない。
「やだっ! やだぁっ!」
……僕がこの世界から旅立った後もこうして泣き続けるのだろうか。
僕なんかの為に。
嬉しいと感じている事を自覚する。本当に屑だなあと思った。
「分かりあえたって思ったのは……ボクだけなの?」
「そんなことない。僕は君とミナが大好きだ」
「っ……」
エトラがまた大きく泣き始める。喋れないくらいに。
これが僕の行動の結果だった。
大好きな女の子を傷つかせて泣かせたのだ。僕の罪を許してくれると言った女の子を。
「抱きしめてあげてよ」
「そんな権利、僕に」
「いいから」
涙でいっぱいになったエトラの顔を胸に抱き寄せる。
空いた左腕で頭を撫でた。
本当にそうしていいのか躊躇いつつ。
「……ずっと、ん、いっしょに……」
……ごめん。
「ミナ……」
「私だって嫌だよ」
「全て僕のせいだ。謝る」
「謝罪なんて要らない。結局行っちゃうんでしょ」
「……ああ」
「勇気出して告白したのにさ」
「すまない」
「君が私たちをどう思ってるかはわかんないけどさ。
これは依存なんだよ。分かる?」
依存。その言葉を聞くのは2度目だった。
「ほんとはさ。
同じ場所に住んで、ずっとくっついて、キスして、セックスして、甘えてたいの。
甘えられたいの」
「エトラの前でもそういうこと、言うんだな」
「恥ずかしさなんかより大切なことだから。
それに、私よりエトラのがすけべよ」
「はぁ!?」
素っ頓狂に叫んでしまう。
「そんなこと……ぐす……ないもん……」
エトラが顔をうずめたまま反論する。
「えー、でもこの前、保育部の子供たちがこっそりキスしてたって楽しそうに話してたじゃない?」
エトラは黙秘した。
「ねえ、出立、もう少し後に出来ない?」
「ごめん。いつまでかは分からないけど、期限があって。
それにもうこれ以上妹を……」
「……そっか。じゃあ今日一晩だけ。
それだけ、いっしょにいられないかな? だめ?」
本当にそうして、意思が揺らがないだろうか。
そう思う時点でもう絆されてしまっているのかもしれない。
「このまま急にお別れなんて、寂しすぎるよ」
「……」
「おねがい」
こんなに仲良くなる前に……別れていれば。
そんな考えがよぎった。
「分かった。一晩だけ」
「ありがと」
そう微笑むのを見て、僅かに安らぐ。
「だって、エトラ。泊まってくってさ」
「え、泊まるなんて言って」
「じゃあ帰っちゃうの?」
「い、いやそういう訳じゃ」
「ん。それならいいよね」
顔を埋めたままのエトラの頭を彼女も撫でた。
「ごめんね、エトラのがすけべだなんて言って」
「ミナのが……すけべで……貧乳だもん……」
「えー、それは流石に私の方がおっきいよ。そうだよね?」
「僕に聞くなよ」
「だってこの前言ってくれたじゃん。ミナのおっぱい大きいね、って」
「そんなこと僕は一言も……痛い、エトラ痛い!」
「ばーか……」
それから、2人とたくさん話をした。
一緒に遊びながら、ご飯を食べながら、抱きしめながら。
大体は下らない話だった。
けれど、時間が過ぎていくのがこんなに怖いのは初めてだった。
情けないな、自分で決めた事なのに。
この世界で2人と作ってきた日常が尊すぎたのだ。
嫌な事から逃げたくて死んだ先で、こんなにも楽しい時間があるなんて思ってもいなかった。
僕が自分の罪と向き合いなんてしなければ、それはずっと続いたんだろう。
この先、この世界が続く限り。
人に好かれるということが、その人を好けるということがこんなにも幸せなことと僕は知れた、知れてしまったのだ。
あーあ。
生きててよかったなんて、柄にもなく思っちゃったよ。
最悪だ。
────────────────────────────────
「ほんとに、行っちゃうの」
「ああ」
「残ってくれたらおっぱい見せてあげる」
「悪い」
「……ぐすっ……」
「あーあ、一晩有れば絆されてくれるって思ったんだけどなぁ」
「……ばか、しんじゃえ」
「僕に色んなものくれてありがとう。何もあげられなくてごめん」
「……もらったぞ…………もらったから、つらいんだ……」
「ね、私たちのことだいすきって言ったけど、ほんと?」
「本当だよ」
「そっか。私達も君のこと大好きだったよ」
「……きらいだもん」
「……」
「でもダメだよ。君の好意なんて受け取ってあげない。
私たちは他の、君なんかよりずっとかっこいい男の子と仲良しになって、いっぱいいちゃいちゃしちゃうから。
それで君が帰って来たら、いやになるほど見せつけてあげる」
「そうか……それは、辛いな」
「だから、だからさ。私たちのこと忘れたりしないでね?
ずっと大好きでいてね?」
「分かってるよ」
「ちゃんと、帰ってきてね?」
僕は二人にキスをしようとして、やめた。
僕の安寧と救済はそこで終わった。
「行っちゃったね」
「……やだ……やだぁ…………」
「泣かないで、エトラ」
「だってこんなの、ひどいよ……」
「……私さ、気付いてたよ。
エトラ、自分だってあのひとのことだいすきなのに、私とくっつけようとしてくれてたでしょ」
「……うん……」
「優しいね、エトラは。でも私、エトラのこともだいすきだから。
我慢なんかしなくていいんだよ」
「そんなこと言ったって……もう、……いない」
「私は諦めないよ」
「え?」
「彼が目的を果たせた時。
こちらに戻ってこれる方法を私は探す。私自身も、少ないけど使える伝手も全部使う。
あらゆる手段を使って彼ともう一度会う」
「そんなこと……できるの?」
「分からない。でもできるまでやる」
「また……あえるのかな」
「会わなきゃいけないんだ。だってさ、私もエトラも……」
ミナが、ボクを抱きしめながら言った。
「まだキスさえしてもらってないんだから」
────────────────────────────────
転位を行うには、装置のある地点まで移動しなければならないらしい。
歩く街は太陽の光と人々の営みで満ちていた。
今日でここともお別れなのだ。
彼女達だけじゃなくこの街やあの学校のことも好きだった。
そんなに沢山の人と出会った訳じゃないし、結構出不精だったけど。
皆優しかった。優しくなれない者にさえ優しかった。
……随分人を好くようになったものだな、僕は。
端末を取り出す。転位装置まではもう少しだ。
端末を展開させ、転移の項目を作動させた上で2-25ポートから通常存在しない0-00ポートへ移動すると、転位装置の元に行けるとの事だ。
既にハウンも待っているらしい。僕の二度目の死はもうすぐのようだ。
端末をしまって歩き出す。
空を見ると、御丁寧に虹までかかっていた。
さっさと行けということだろうか。
虹を追うように歩く。レイリスタワーが近づく。
2−25ポートは塔の中にある。
普段は作動していないが、展開した端末によって起動をさせられるとハウンが言っていた。
転位装置へのポートに指定される辺り、レイリスはただのランドマークじゃないのかもしれない。
やれ巨大なエーテル整流施設だとか、やれ先端からビームが出るだとか色々都市伝説は聞いたことがあったが、もしかするとその中に事実もあるのだろうか。
他のエリアに住む人間が同様に転移を行う場合は、レイリスじゃない他のポートが端末から指定されるらしいけれど。
多くはそのエリアのランドマークとされる様な建物であるらしい。
入口に辿り着く。今日も見物客が相当にいた。人混みに押されるように中へ。
いつか来た時と同じような、僅かに違うような内装だった。
リニューアルなんかしたのかもしれない。
土産屋や飲食店、インフォメーションセンターなどが並んでいる。
2−25ポートは……タワー先端、頂上から1つ下の階層らしい。
さて、ポートはどこだろうか。再び辺りを見回す。
よく見ると天井に吊り下げられた板に色々書いてある。ポートは左らしい。
従って歩いていくと幾つものポートが置かれた広場、それぞれに人々が並んでいた。
2−24ポートに行くのには専用のポートに乗らなくちゃいけない。
広場の奥の方にそれは配置されていた。
誰も並んでいない。
そのポートから、2−25と同階層の2−24へ移動する。
コンソールに入力をしようとしたところ、行き先は2−24のみであった。
ポートを出て、辺りを見回す。客はいない。普通見物に来るところでは無いのだ。
一面を覆うガラスの先に街並みが見えた。
それぞれ、薄いカーボンの枠によって隔てられている。
それらがドーナツ状のこの部屋を囲うように配置されているようだ。
このうち1枚がガラスでなく、壁に出力された画像らしい。手の込んだことをする。
ぐるぐると歩き出す。
これから別れる街はひどく美しかった。
名残惜しいという気持ちが再び湧いてくる。
そのまま歩いていると、中心側にスタッフが1人いた。
直ぐに視線を逸らしたが、確かに一瞬だけこちらを見ていた。
……知っているのかもしれない。
ああ、これだ。
僅かに雰囲気の違う風景があった。
端末を取りだして、データリンクを行う。
リンク可能一覧に、「door_」とあった。
選択すると、風景を映した画面が切り替わり、暗転した。
『Unlocked』
白文字で表示される。
映像が消え、壁が姿を現した。
うっすらと見た事のある光を放っている。……どうやらこの壁自体がポートらしい。
よくもまあ凝った仕掛けをする。
転位先を指定しようと腕を伸ばす。
「おにーさんおにーさん」
「ん?」
呼び止められた。
「地獄に落ちますか?」
小柄な女の人。さっきのスタッフだった。
「宗教勧誘?」
「ああいえ、第一世界へ転移をなさるんですかって」
地獄に落ちますか?
強烈な響きだ。
「ええ、そのつもりです」
「そうですかー」
おねえさんは少し考え込んでいた。
ここで転位をしようとする人間に声を掛けるためのスタッフなんだろうか。
「この世界に悔いとか無いんです?」
「ありますよ。山ほど」
「あ、やっぱり? そういう顔してるなーって」
くすくすと微笑んでいる。
「どうします? もしやめるんなら、そこの画面戻しますけど」
「いえ、もう決めたことですから」
「それは紛れもなくおにーさん自身の意思ですか?」
「そうです」
「知ってると思いますけど、こちらに帰って来れるかは分かりません。
一度の決断が、永遠に貴方を運命付けるかもしれないんです。
それでもその意思は変わりませんか?」
「はい」
「そうですか……では仕方ありませんね」
おねえさんは何だか悲しそうな顔をしていた。
「おにーさんの事情は分かりませんけど……向こうは酷いところです。
苦しい思いをする人が1人でも増えるのは、嬉しいことじゃないです」
いい人だなあと思った。
「優しいなあ」
「自分でもそう思います」
「その上素直だ」
「わたし、この仕事しててほんとに転位する人見たの初めてなんですよ」
「そうだったんですか」
「最後まで一人もいないといいなあって思ってました」
「……なんか、ごめんなさい」
「謝罪とかいいんで、どうにかしていつか帰ってきてくださいね」
「難しいこと言うなぁ」
「おねーさんとの約束です」
「……ええ、必ず」
おねえさんは0−00ポートを機械に入力した。
「それじゃ、待ってますよ?」
壁から放たれる光が更に伸びて、僕を包んだ。
またね、と聞こえた気がした。
光が消えると、真っ白な所にいた。
背後にはさっきの壁と同じような扉。
辺りを見回しても、それと白い空間以外は何も無い。
ただ遠くに、またポートの光が小さくあった。
あれが0−00か。ハウンもそこにいるんだろう。
端末を開き、地図を見ると確かに光のある方向に転位装置があった。
歩き出す。
面倒な手順が多いものだ。
何も無いから薄らと光が見えるものの、それなりの距離がある。ある程度歩く必要はあった。
一歩ごとに自らの死が近付くのを感じる。本当にもう直ぐなのだ。
引き返せば彼女たちが笑って迎えてくれるだろうことを思うと逃げ出したくなる。
きっと向こうに行ってもずっと後悔し続けるのだ。
暫く歩いていると、少しずつ目の前の光が大きくなる。
「ん?」
光よりずっと手前に、何かあるように見える。
まるで人のように見えた。
ハウンが寝転がっている……まさかないだろう。
どちらにせよ近付かなければ分からなかった。
歩みを続ける。
それは小さな子供のように見えた。
倒れている?
よくは見えないが、その可能性があるように思えた。
急いで駆け寄る。何故こんなところに?
大概の人間はここには来れないし、来たとして何で倒れてるんだ?
疑問を覚えたまま暫く走り続ける。
「……あれ?」
どうもあれは倒れているのでなく、座り込んでいるだけのようだった。
要らぬ心配だったか。
走るのをやめて歩いていると、やがてその少年の元に辿り着いた。
このタイミングになってやけに人と関わるなあ、と思った。
「どうしたんだ?」
男の子は驚いた様に顔を上げた。
僕には気がついていなかったようだ。
「……分からないの」
「へ?」
「ベッドの上にいたはずなのに気が付いたらここにいたの」
「ベッド?」
「うん。おじさん、ここ何号室?」
本当に何も分からないままここに来てしまったようだ。
「何号室と言われても困るが……」
「病院じゃないの?」
「おいおい、こっちに病院なんてあるわけ」
そこでやっと気付く。この子は、まさか。
よく見ればこの子が来ているのは病衣だった。
「じいはまだお仕事の時間かな?」
……もしそうなら何故こんなところに。
推測通りなら、この子がいるのはスタートルームのはずだ。
「ねえ、じい、知らない?」
「じい?」
「あ、えっとね、おじいちゃん。毎日病院に来てるの」
……多分お爺さんはこちらにはいない。そして会うことも出来ない。
「おじさん聞いてる?」
伝えるべきなんだろうか。事実を。
だがそれは相当に残酷な事だ。
しかし伝えなかったところで、どうせこの子は直ぐに知ることになる。
「君は何で病院にいたの?」
「えっとね……ってあれ!? 腕が治ってる!」
「怪我でもしてたの?」
「えっとね、無かったの、右腕。あ、義手も落ちてる」
近くにあった義手を拾う。推測は確定事項へと変わった。
「うーん……なんで治ったんだろ……日頃の行いが良かったからかな!?
やったー!」
この子は、ついさっき死んだのだ。
そして何かの間違いでスタートルームじゃなくてこんなところに来てしまった。
……随分適当だな、この世界も。
「なあ、少年」
「なあに?」
「おじいちゃんとは、多分しばらく会えない」
「えー? なんで?」
「ここはね、天国なんだ」
「てんごく? なにそれ?」
「死んだあとの世界のことだよ」
「え……おれ、しんじゃったの?」
「……うん。ここでは、前の世界であった怪我や病気、障碍が無くなるんだ」
「へー」
男の子は胸の辺りをさすっていた。
「おどろかないんだね」
「うん……何かまだあんまり信じられないし。何だか夢でも見てるみたいで」
「ここは夢でも幻でもないよ。君の2つ目の人生だ」
出来る限り、笑顔を作ろうとする。
「おれ、しんだのかー」
「大丈夫、また始まるよ」
「そのてんごく?はこんな何も無いところなの?おじさんとぼくしかいないし」
「ここがそういう部屋なだけさ。
世界はもっと広くて、色んな物や場所、色んな人がいる」
「そうなんだ。しんじゃった人はみんなここに来るの?」
「うん」
「おじさんも?」
「僕もだよ」
「……そっか、じいはまだ生きてるから会えないんだ」
「ああ」
本当に良かったのだろうか。何もかも伝えてしまって。
僕は今余計な義務感で要らないお節介をして、人を不幸にしているんじゃないか。
「じいは……いつここに来るんだろ?」
「……」
「さみしいけど……じい、ながいきしてほしいなあ。
あ、でも病気も怪我もなくなるいいところに来れるなら、早く死んじゃった方が良いのかな。
わからないや……」
「そうだな、難しいな」
僕と同じ……いや、皆似たようなことを考えてるんだろう。
「……ぐす、ひっく………」
泣き出してしまった。
今になっておかれた現状を理解し始めたのだろうか。
頭を撫でて、泣き止むまでそうしていた。人を傷付けてばかりだな、僕は。
「ごめんな、つらいことばかり言って」
「……んっ……」
多分10分も経たない位で、少年は涙を拭いながら立ち上がった。
「……おれはもう大丈夫。本当に苦しいのは、じいだから」
僕よりもずっと強い子だった。羨ましいとすら感じてしまう。
「歩ける?」
「うん」
そのまま一緒に扉まで歩く。
いくらこの世界でも、子供には長い距離かもしれない。
途中から男の子をおぶって歩いた。
昔、リエルが熱を出した時の事を思い出す。
スタートルームへは通知が行くだろうし、このままにしておいても職員がここへ来るだろうが……放っておくことも無いだろう。
「あの扉の先には何があるの」
「レイリスタワーっていう大きなタワーの展望デッキに出るんだ」
「ふーん……じゃここはそのタワーの中なんだ」
「いや、どうかな」
「?」
「あの先にはそのタワーや、君の見たことない不思議なものが沢山有る世界が広がってる」
「例えば?」
「勉強しなくてもいい学校とか」
「なにそれ!最高じゃん!
ほかには? キレイなおねえさんもいる!?」
「いるさ」
「いやっっほーーぅ! てんごく最高!」
「天国最高!」
「おっ、おじさんもキレイなおねえさん好き?」
「まあね」
「そうだよねー!
じいはね、おれがそう言うと「お前にはまだ早い」とか言うんだ。
好きなのに早いもおそいもないのにさ」
「他にも、前の世界とは違う所がいっぱいあるんだ。
受け取らなきゃ行けないものもあるし。
扉から出たら、大人の指示に従ってね」
「そこは変わらないんだね」
「ふふ。まあそうだな。でも前の世界よりずっと自由だ」
やがて扉の前に着いた。
ここで別れようとも思ったが、あのスタッフさんに預けるまでは同行した方がいいかもしれない。
扉に入力をする。
「これ、どうなってるの?」
「まあ見てなよ」
光が僕らを包む。
次の瞬間には、あの部屋にいた。
「うわーっ、何これ! あ、景色キレーっ!」
「えーと……スタッフさーん?」
呼びかけても見当たらない。どこだろう?
「おねえさん、どうしたの?」
男の子がそう言う。足元を見ると、さっきのスタッフさんが座り込んでいた。
「あれ……? さっきのおにーさん……と子ども?」
おねえさんは泣いていた。
……ほんとにいい人なんだろうな。
「えーと……この子をあず」
「お、おあ、おああお相手はどちらの方ですかっ??
あ、ご結婚おめめでとうございます!」
愉快な勘違いをしている。
「おれ結婚してないよ」
僕もだ。
「向こうに行くの、考え直してくれたんですか?」
はにかみながら問う彼女にも、事実を伝えなければならない。
「えっとね、この子なんだけど……」
まずこの子の事情と僕が未婚であることを説明する。
義手を見ると驚いていたが、すんなり理解してくれた。
僕は戻らないと伝えるとまた悲しそうだった。
「それでこの子をスタートルームに連れて行って欲しいんだけど」
「スタートルーム? なにそれ?」
「こっちに来た人が、本来最初にいる場所ですよ。
諸々の説明とか登録とか端末の配布とかをするんです」
「たんまつってあっちにもあったのと同じようなやつ?」
「はい、そうです。
色んな形のがあるんですけど、一番最初に貰えるのはおにーさんが持ってるようなやつですね」
ポケットから端末を取りだし、男の子に見せる。
「わーっ! カッコイイ!」
外装を展開させっぱなしだった。
確かに男児には受けそうな外観になっていた。
……僕も好きだが。
「おねーさんのは?」
「わたしのはコンタクト型なんです。眼に取り付けるんですよ」
何だか、親子やきょうだいに見えて微笑ましかった。
「それじゃ、この子よろしくお願いします」
「? おじさん、来ないの?」
「僕はまだやらなきゃいけないことがあってさ」
「そうなんだ」
この少年はこれから新たな世界で生きていく。
優しい世界だが、お爺さんはいない。
この子は、強く元気な子だ。
それでも何か、何か言わなくてはならない気がした。
「……悲しい時や、寂しい時は泣いていい。
でもきっと、君のお爺さんは君が泣くことより君が笑うことの方が嬉しい。
僕も嬉しい」
きっと自己満足なんだろう。
「わ、私も嬉しいです」
「おねえさんがうれしいなら、そうする!」
くそがきめ。
「じゃあまたね、おじさん」
「ああ」
「……いこっか」
2人の姿が見えなくなる。
持ってきたノートのページを千切り、書き置きを残して僕はまたあの白い世界へ行った。
────────────────────────────────
「思ったより早かったな」
「え? 遅れたから謝ろうと思ってたんだけど」
「地獄に行くなら、ちょっとくらい遅れたくもなるだろ?」
転位装置の傍には連絡通りハウンがいた。
ポケットから冷却容器を出して、放り投げてくる。幼い頃好きだったジュースだった。
「あのココアほど美味くは無いけどな」
といっても当時はあまり飲めなかった。
僅かに数回飲んだことがあるだけである。
こちらに来てから喜んで何度も飲んでいるが、当時ほどは美味しく感じなかった。
「ありがとう」
ジュースが変わったのか僕が変わったのかは分からない。
「ところで、ココアの子にはちゃんとこの事伝えてきたんだろうな?」
「ああ。
他の男といちゃいちゃして見せつけてやるからさっさと帰ってこい、だってさ」
大口を開けて笑う。
「そいつはいい。いい女だ」
「ほんとにね」
彼は自分の容器の蓋を開けるとこちらへ差し出した。
「森羅万象に乾杯」
「相変わらずくさいね。乾杯」
器を軽くかち合わせ、ぐっと大きく飲んだ。
最後の一杯もそれなりの味だった。
「悪いな、お前一人行かせて」
「ハウンが引っ張りあげてくれるんでしょ?
ならいいさ」
「随分殊勝な心がけじゃねえか」
「そういう振りをしてるだけで、今だって怖いよ」
「そうか」
ここでハウンともお別れなのだ。
ふと、この前結局お土産を買えなかった事を思い出した。
彼女たちもハウンにも、悩んでなんかいないで何か買えばよかったな。
特にエトラには砂時計のお返しをしていない。
本当につい数日前まで、僕は永遠にこの世界で過ごしていくのだと疑わなかったのだ。
今思えば愚かしいようにも感じるけれど、仕方ないか。
僕は本当にずっと、リエルのことから目を逸らしていたのだ。
彼は残りを飲み干すと、容器をポケットに突っ込んだ。
「転位にかかる詳細は既に伝えた通り。1日ほどかかる。
向こうは腹も減るし、体だって壊れるはずだ。
死後にどうなるのかは分からんから、妙な真似はするなよ。
指定した荷物は持ったか?」
「全部入ってるよ」
「よし。
それと端末は使えない可能性が高い。
仮に使えたとしてもこちらと通信は出来ない」
「うん」
「転位後暫く、存在が不安定になることがあるらしい。
詳しくどんな影響があるかはわからないが……そんなに長くは続かないはずだ。
ただの予測に過ぎないが、留意しておけよ」
その後いくつか続けて、彼女達に会いに行く前にした連絡の確認をした。
回帰者のデータがない以上、相当慎重にならざるを得ない。
「以上だ。質問は?」
「特に無い、大丈夫」
「本当に大丈夫か?」
「うん」
準備は出来てるよ。
「俺はお前を助ける為に研究を続ける。
お前は妹ちゃんを助けてこい」
「ああ、分かってる」
この世界のことを色々調べたりもしたけれど、結局理解することは出来なかったな。
あれは何かやることを見つけて、リエルの事を忘れようとしていたのだろうか。
いつか戻れた時は、またミナとエトラと、ハウンと、リエルと一緒に……
「端末から転位の項目を選べ。装置が起動する」
ハウンが後ろに退いた。
言われた通り、端末を操作する。装置の光がその色を変えた。
『Dead or Alive?』
装置のコンソールに表示される。
安寧も救済も終わったのだ。後はしぬだけ。
「また会おうぜ、親友」
Deadを選ぶ。
光が溢れて、僕を包んだ。
「そのうちにね」
─ ─ ──── ─ ────
人よ
神がもたらすは罰
其れは死
神がもたらすは安寧と救済
其れは死
─ ──── ─
水の粒が手のひらへこぼれる。
身体を打つ。
視界を覆って、耳を塞ぐ。
「雨か」
地獄は濡れていた。
辺りを見回す。
一面に広がるグレーコートと、注ぐ雨。
先が見づらいがここは山園駅の近くだ。先の座標指定の通りに転移出来たらしい。
人通りはまばらで大した建物は無かった。
影へ入る。風邪をひきかねない。
何の病気にもかからないあの温い世界とは違うのだ。
それに身体が重く、空気は硬くなっている気がした。
多分精神的な問題じゃない。
これが生きるということなら、やはり死より醜い。
ポケットから端末を取り出す。
ハウンの予想と異なり、起動したままだった。
彼の端末へ通信を試みる。
すぐにエラーが返ってきた。
二度三度繰り返すが結果に変わりは無い。予想は出来た事だった。
通信が取れるのなら回帰者のデータはもっと残っていたはずだから。
その他幾つかの項目を試す。
他の端末や設備との通信が必要な機能は使えないが、端末内で処理が完結するものは変わらず使用が出来た。
表示される時刻は第二世界のものだったが、向こうもこちらも進み方は変わらない。
時差さえ分かれば調整は可能だ。
端末の時計に合わせ、腕時計も弄る。
転移前から見て、日にちは1日遅れていた。事前に聞いた通りだ。
ずっと雨宿りしている訳には行かない。
どこかで傘を調達してライナーに乗って佳岡まで行かなければならない。
金は向こうで作ったものを持ってきた。一応通貨偽造ということになるのか。
近くに傘を置いている店が有ればいいが。
ちょうど傘をさした人影が少し先を横切った。
「……ん?」
見た事あるような。知り合いだろうか。
その痩せた姿は、反対の手に袋をさげてゆっくりと歩いていた。
雨で顔まではうかがえない。
袋からは赤い何かが飛び出している。
僕が死んで2年、別に生きている知り合いがいても何も不思議では無いけれど。
気のせいか?
考えているうちに姿が遠くなっていく。
……追う事にする。
こちらの姿を見られると面倒かもしれない。何せ僕は1度死んでいる。
幽霊かなにかと思って見て見ぬふりをしてくれれば幸いだがそうとも限らない。
慎重に距離を縮める。
それは白髪を生やしていた。ある程度以上の歳か。
……まさか。
速度をさらに上げる。だが、走る訳にも行かない。
影は住宅の角を曲がる。
それに続く。
……別に知り合いだったとしても、どうでもいい事じゃないか。
どうして尾行までする?
必然性がなく、論理的でないことは自分でも分かっていた。
だが何か良くない予感がしている。
あの袋から飛び出していたのは、太い紐のように見えたのだ。
あの歳だ、山に登るわけじゃないだろう。
「……! っ、……ぇあ、んぐ……」
急激な頭痛。
いや頭だけでなく全身が異常な感覚に襲われる。
何だ、これは。
そうしているうちに姿が遠ざかっていく。
見逃すまいとどうにか顔を下げる。
男は住居の扉を開け、中に入っていった。
……? 浮いているのか、僕は?
視点が高くなり、地面が遠くなっている。
そういえば、ハウンが転位後暫くの間だけ存在が不安定になると言っていた。
これがそれか。
雨粒の感覚が消える。
更にこちらに来てから身体にのしかかっていた重量感も消失していた。
……いや違う。
肉体自体が消えている。それも服や鞄ごと。
意識が空間にさまよっているような状況だ。何だ、これは。
不安定とは言っていたが、まさかここまでとは。
……第二世界だけでなく、ここも僕が思っていたよりずっとトンチキなところだったらしい。
動くことは出来るが、地を歩くことは出来ない。
触れることは出来ないが、通り抜けられる。
自由に空へ飛ぶことも出来るようだ。
まるで霊か神にでもなったような。
すると突然、肉体を取り戻した。
収まったのか?
ハウン曰く存在の不安定は有期限的らしい。
実証されたものじゃないが、向こうの研究者が足りないデータから推測をした結果だ。
取り戻した両の足で、彼の入っていった家へ歩く。
どうしても気になるのだ。
扉の前へ辿り着く。当然ながら入りようがない。
チャイムを鳴らすか?
だが僕は死者だ、顔を見せれば混乱を招く。
そうすればリエルの元に行くのに支障が起き得てしまう。
どうする?
「……!」
またあの感覚だ。肉体が消えた。
まだ完全に安定した訳では無いのか。
肉体や実体、物体、目に見えるもの。
こうまで不確かなのだと思い知らされる。
死ぬ前だったらそういう言説はオカルトとして信用しなかっただろうが。
しかしこれなら中へ入れる。
勿論姿を見られずに戻ってこられる保証は無いが、このまま引き返す気にはならない。
好機だ。
扉をすり抜けて、中へ。
家は暗く、蒸していた。
廊下から見渡す限り明かりはどこも点いていない。
1番近い部屋を覗く。特に誰もいない。
古びた机に椅子が2つ、それと厨房なんかがあった。
もしあの紐が予想通りに使われるなら、寝室だろうか。
その時、部屋の外から軋むような音が聞こえた。
まずい。
音の方……1番奥の部屋か?
予想が間抜けな勘違いであることを祈る。
廊下へ出て奥へ。音は続いている。
やがて苦しそうな、小さな叫びも混じった。
最奥に着いて、扉をすり抜けると。
「あ……が……」
首を吊り、もがくリュクゼルがいた。
━━リュクゼルさん!
その体を支えようとするが出来ない。
くそ! さっさと戻ってくれよ!
━━なんでこんな事!
声は届かない。
発せられてすらいない。
「あ……ああ……う」
何も……何も出来ないのか?
死んでしまう。助けなきゃ。何故身体は戻らない。
━━戻れよ、早くっ!
「………………」
彼は動かなくなった。
だが死んじゃいないはずだ。まだ僕は戻らないのか?
……きた、この感覚だ!
「っ!」
次の瞬間、肉体を取り戻していた。
「これで!」
早くリュクゼルを下ろさないと!
近くに倒れていた台を引き寄せて立てる。
……本当に?
本当に、助けるべきなのか?
彼は死にたくて死んだんだ。
何故邪魔するのか? それはエゴじゃないのか?
自分でも言ってたじゃないか。皆死んでしまうべきだと。
生きる事は罰で、死は救済だと。
そもそも、何で助けようとしたんだ僕は?
むしろ殺してやるべきなのに。
生きてるやつの宣う欺瞞なんかじゃなく、死後に楽園があると知っているのだから。
それにもし今からリュクゼルを下ろして一命を取りとめても、何かしらの障碍が残る可能性がある。
血を流しながら地獄に留めようとするなど、狂っている。
……目の前でもがいて苦しんだからと言って、助けるなんてしちゃいけない。
いや見殺しにするか、むしろこの手を下してやることで初めて助けられるのだ。
だから、だから僕は、彼の首を吊るすそれへ触れちゃいけない。
彼の救済を覆しちゃいけない。
安堵して、祝ってやらなくちゃいけない。
それなのに、僕は震えていた。
青冷めていく表情を見るとそれは加速する。
死ねたのだから喜ばなければならないはずなのに。
だめだ、こんなもの直視し続けていたらおかしくなる。
これから更にあれは酷い姿になっていくのだから。
だがしかし、あれが僕の行為の結果なのだ。
僕がさっさとあの紐を解くか切り落とすかしていればリュクゼルはこんな醜悪な姿を晒さずに済んだんだ。
なら僕には、あれを直視する義務があるんじゃないか。
理屈の上では分かっていた。
死するということの、グロテスクさを。
それでも死ぬべきであると思っていたし、それは今でも変わらない。
しかし、これは。
この肉体の末路は、あまりにも……
目眩がして、座り込む。ようやく自覚した心臓の音がうるさかった。
体に上手く力が入らず、立ち上がれない。
やがてさっきまで生きていた彼は口から涎を垂らし、ズボンから尿と精液を零していた。
耐えきれず吐きそうになる。
胃の中には何も無かった。
後悔しそうになった。
助けていればよかったと。
その考えが間違っているのは自分でも分かる。
だがあの姿は、論理を破壊するだけの汚さがあった。
死体を見た事がない訳じゃない。何度もある。
こんなにも拒否感を覚えるのは、ずっと綺麗な世界にいたからだろうか。
死の無い世界に。
……こんなところにいても仕方ない。
例え義務であったとしても、僕の行為の結果だったとしても、これ以上は見ていられなかった。
どうにか腕と足に力を込めて立ち上がろうとする。
震えが収まらず、倒れた。
もう一度繰り返すとどうにか倒れずに済んだ。
酷い匂いが漂っている。知らない匂いではないはずだがそれでも辛い。
部屋から出ようと振り向くと、小さなテーブルの上に手紙があった。
遺書か。
リュクゼルがなぜ自ら死を選んだのか、読めば分かるかもしれない。
僕にその権利があるのかは分からないけれど。
でもこのまま知らずにいるのはどうしても気持ちが悪い。
躊躇いつつ、それを開いた。
────────────────────────────────
『拝啓 これを読む者へ
自ら死を選んでおいて、長々と文を書き残すのは未練がましく、格好の良くないことであると思う。
だがどうせ死ぬのだから格好などどうでも良いことだろう。
少し長くなるが、読んでくれれば嬉しい。
果たして遺書を読んでくれるような人間が最早私にいるのか分からないが。
葬儀場は潰れ、家族は死んだ。友人はそもそも居なかった。
もしこれを読んでくれている者がいるのなら、本当に嬉しい。
もしかすると近くに不快な死骸があるかもしれないが、通報だけして下さると有難く思う。
昨日、孫のケレスが死んだ。11歳だった。
長く治療を続けていて、最近は調子が良かったのに。
本当にあっさりと逝ってしまった。
たまに外に出ればおなごの尻ばかり眺めているようなクソガキだが、あれで可愛いところも少しはあった。
じい、じいと後ろを付いて来たり、おもちゃを買ってやったら馬鹿みたいにはしゃいだり。
俺が熱を出したらスープを作ってみようとしたり。
何も死ななくて良いじゃないか。
体が弱くても、腕と片肺が無くなっても生きていたんだ。
がんばっていたのに、何で死んじまうんだ。
この老いぼれより先に逝くなんておかしいじゃないか。
この馬鹿孫が大きくなるまでは俺も生きるはずだった。
だが叶わなかった。
ならもういいだろう。俺は死ぬ事にする。
結局食い損ねてしまった、孫の作ったスープをいつか飲みたかった。
それと、あと2週間の誕生日も祝ってやりたかった。
もっと色んな話をして、いっぱい遊んで、もっと甘やかしてやればよかった。
何も出来ないまま死んでしまった。
これを読んでいる貴方も、出来ることなら大事な人ともっと触れ合っておいてください。
いつか、どうしようもない、永い別れが来る前に。
それはいつか、絶対に来てしまうのです。
私はこれからケレスの所に行きます。
いえ、そんなもの信じていません。
死が人間の終着点です。その先などありません。
死んだ所で孫に会えなどしないのです。
ですが生きていても会えません。
いつか孫へ、こんな世界に生まれても幸せになれないのは目に見えているから、生まれない方が良かったのではないか、そう思ったことがあります。
ケレスはいつも楽しそうでしたが、こんなにも早く死んでしまいました。
あいつは幸せだったんでしょうか。
私には分かりませんでした。』
────────────────────────────────
ライナーから降りる。
家までは暫く歩かなくてはならない。
途中で手に入れた傘をさし、詰まったバックパックを背にグレーコートの上を歩く。
リュクゼルの遺書と死体は、これから僕のすることへ警告を与えているようですらあった。
死とは、つまりそういうことなのだと。
遺書にあったケレスとは……ここへ来る前に会ったあの少年だろうか。
いつかリュクゼルは、孫の体に欠損があることを僕に話していた。
義手を抱えたあの少年も祖父を呼んでいた。
条件としては揃いすぎていた。
もしそうなら……リュクゼルはケレスくんと会えるはずだ。
もう孫を失ったことへ絶望することも無い。
祖父が……じいがいなくて寂しくなることもない。
若返ったじいは、これからケレスくんが大きくなっていくのをまた見守っていける。
これで良かったのだ。
どんなに醜くおぞましい痛みや死があっても、その結果はこれなのだ。
疑うまでもない。死は救済だ。
孫へ生まれない方が良かっただなんて思わないで済むんだ、それより大切なことがあるもんか。
かつて日常であった風景が目に飛び込む。
懐かしさはあるが、それでも嫌悪感の方が強い。
こちらへ来る前に端末から様子や治安を調べてはいたが、何も変わらないここを直接目の当たりにするのはあまりにも不愉快な事だった。
見慣れた貧民市に入る。この天候と時間帯とで人はあまりいなかった。
本当ならばここを通るより別の道から言った方が僅かに早いのだがどうやらさらに治安が悪化しているようなのだ。
2日前にも殺人があったと検索結果が告げていた。
早足で抜けていく。さっさと妹のところに行きたい。
昨日調べたのはリエルのこともだ。
詳しい様子までは分からなかったが、今でもあのバラックにいる。
行かなきゃならない。
「ね、おにいさん、遊ぼうよ」
それらしい女の人に声をかけられるが無視して通り過ぎる。
きっとこの辺ではまともな格好をしていたから金を持ってると思われたのだろう。
ごめんね、偽札しか無いんだ。
市を抜ける。あのバラックは確かに近付いている。
僕の罪、悪性の被害者。
リエルが殺していいのはあの両親だけじゃない。この僕もだ。
死の先の楽園を知らないリエルはその権利を確かに有している。
僕が死んでからの2年間。彼女はこの地獄で1人だったのだ。
本当ならばとっくに死んでしまっていても不思議じゃない。
それでも生きていたのだ。
強いんだろうな、あいつは。自ら死んでしまった僕とは違う。
だけどそのせいで苦しまなくちゃいけなかった。
僕の罪は最早、償いきれるものじゃない。
だけどそれでも出来ることが、やらなきゃいけないことがある。
リエルだけじゃない。この世界は多くの人間が苦しみすぎている。
一体幾つの心を傷付け、壊してきたのか。
……分かってはいる。
世界じゃない、人だ。
狂っているのも狂わせているのも人なのだ。世界なんて曖昧なものじゃない。
悪意と欲望と偶然の重なりが現状を生んでいる。
こんな下らない世界は、壊してしまえばいい。
全員ぶっ殺してやればいいんだ。
……もう目の前に、あのバラックがあった。
どっかから拾ってきた何だかよく分からない素材を貼り合わせた、家とも呼べないようなもの。
かつてあいつらが一緒に作ってくれた。
既にぼろだったあの頃より、ずっと朽ちてしまったけれど。
取手を掴む。
……今から僕は、贖うんだ。
扉を開く。
「リエル」
汚れた暗い部屋の中に妹は確かにいた。
布団の上に座り込んでいた。
「……おにい?」
顔を上げてこちらを覗き込む。
目の焦点があっておらず、表情は異様だった。
腕や顔に青紫色の斑点が浮かんでいる。
「おにい……なんで?」
何だ、これは? 分からない。けれど……
靴を脱いで、中に入る。
「リエル、ごめんな」
震えている妹を抱きしめる。
ひどい匂いがしたが、離さない。
「おにい」
「お前、どうしたんだよ。身体が……」
「多分それのせい」
妹が向いた方向には空容器が落ちている。
オメガだった。
「なっ……」
「ごめんね……わたし……」
「オメガにこんな副作用は無いはずだ」
体から生気が感じられなかった。
「よくないやつ、つかまされちゃったみたいで。
なんか混ぜもの……してあったんだと思う」
……くそ。くそ! くそがっ!
俺はこんな妹を放って幸せになろうとしていたのか。
屑だ。本当に屑だ。死んじまえ。
「だいじょうぶ。
しばらくすれば……ちょっとはおさまるから……」
「良くないだろ……そんなの」
端末を取り出す。
内部データの中に、この症状についての情報があるかもしれない。
「おにい? なにしてるの?」
「治す方法探してんだよ」
「端末買ったんだ……おにいもこれで現代っ子だね」
「ばかなこと言ってないで寝てて」
「やだよ……」
「お前な」
「こんなに、いい夢がみられるんだもん」
苦しそうな瞳から涙が溢れていた。
「……」
「薬でおかしくなっちゃったんだろうね、わたし。
幻覚まで見ちゃってさ。
でも、こんなに幸せならさ、それでもいいのかな……」
「夢じゃない」
「え?」
「辛いのはお前なのに1人で逃げたんだ。
死んで楽になろうとしたんだ。
僕は屑だ。殺されたって仕方ない。
でもせめて、少しでも償うために……帰ってきたんだ。
夢でも幻でもなくて、本当のことなんだ」
リエルは沈黙している。考え込んでいるようだった。
端末に検索の結果が表示されている。
どうやら粗悪オメガの接種による身体への悪影響は、他にも起きているケースらしい。
しかし、はっきりとした治療法は見つかっていない。
大概の売人は混ぜ物をすることによるコストダウンよりも顧客減少のリスクを危惧するが、全てのケースにおいてそうではない。
治療が困難なのは何を混入させたかによって症状や治療し得る手段が異なるため、だそうだ。
どうにもならないのか……?
妹がこちらを覗き込んでいる。視線を返すと、言葉を紡ぎ始めた。
「本当に……帰ってきたの?」
「ああ」
「本当におにい?」
「そうさ」
「でも、だって。そんなのおかしいよ」
「おかしくたって現実なんだ。僕はここにいる」
「しんじゃったらそれで終わりなんだっておもってた」
「僕だってそう思ってたんだけどね。そうでもないらしい」
「……」
「信じられないか?」
「いや、いいよ。本当でも嘘でもおにいにあえるなら」
「でもどうせなら本当がいいだろ?
どうやったら信じてもらえるかな」
「んー……これから考える。だから、いっしょにいて」
「ああ、もちろん」
「ずっといっしょにいて。もうはなれないで」
「ああ」
「やくそく、もうやぶらないでね?」
「……ああ」
「じゃあ、だっこ」
「……これでいいか?」
「だめ、もっと」
震えながら、泣きながら。
笑顔をこちらに向けてくる。
僕はそんな表情を向けられていい人間じゃないのに。
暫くの間、そうしていた。
妹か離してくれるまでは長い時間がかかったが、僕があの世界で遊び呆けていた時間程じゃなかった。
「どこにもいっちゃだめだからね」
「わかってるよ」
「次おいてったら、もうゆるさないから」
次、次か。
既にもう、罰せられて然るべきなのに。
「……ねえ、おにいさ。やっぱり、あの日の事見てたの?
わたしが男の人としてた日のこと」
「ああ」
「そっか。でもなんで死のうと思ったの?」
「そうだな……」
それはミナたちにも伝えた事だった。
……とはいえ、何と伝えるべきなのか。
根本にあるのは僕の歪んだ感情だった。それをそのまま伝えていいのか?
「聞き方、変えるね。おにいはあれ、なんだったと思ってるの?」
「何って」
「好きでしてたのか、無理矢理されてたのか。
それとも、お金をもらってしてたのか」
「それは……」
「答えて。だいじなことだよ」
揺らぐ瞳が、こちらを向いている。
「おにいはどっちだと思って、しんだの?」
「分からなかった。どの可能性も考えた。
男達を殺そうかとも思ったけど、怖くなって逃げて……」
「……」
「お前の意思でまぐわったにせよレイプだったにせよ、僕が死にたくなる必要なんてないんだ。
でもどうしてもお前が望んでセックスした可能性が頭に浮かんで、そうすると気が狂いそうになった」
「それはなんで? 家族への愛? 独占欲?
それとも性欲? 恋愛感情?」
「何だったんだろうな……自分でも分からない」
「わかってよ」
「それなのにさ、……」
「?」
「酷い話だが、もう嘘はつけない。聞いてくれ」
「うん」
「僕は、お前が居ない方が良かったと思った事が何度もある。
その方が生きるのが楽だったって」
「ふーん」
「その時、そんな事まで頭をよぎってさ。
訳が分からなくなって……拾った銃で自殺した」
「……そっか。ごめんね、いやなこと話させて」
「いや、いいんだ。話さなきゃならないことだよ」
「それでさ、おにいはさ」
「ああ」
「わたしのこと、きらい?」
「大好きに決まってるだろ」
「はっきり言ったからゆるしてあげる」
「は?」
「よかったね。ゆるしてもらえて」
「でも、お前」
「ほんとはもっとはっきり言って欲しかったけど……でもわたしもいえなかったもんね」
何を、と聞く前にリエルは続けた。
「急にいなくなってさ。もう会えないと思ってたんだよ」
「すまない」
「このままおにいに会えないまま少し生きて、おにいに会えないまま死ぬんだ、って。
結局死ぬのこわくて、2年も生きちゃったけどね」
「……もう無理しなくてもいいんだ」
「だから、だからさ。
この気持ちも言えないまま終わっちゃうんだって」
リエルは布団から身を乗り出して、また僕を両腕で包んだ。
「あいしてよ」
顔を埋めたまま、そう発した。右手をリエルの頭に置く。
「ありがと」
「ああ」
「こんな汚くなっちゃう前に言っておけばよかったな」
ただ黙って抱きしめた。
何を言うべきか分からなかった。
僅かにだが、先程より妹の震えが収まっているように見える。
「あ、おにい、おなかへってない?」
リエルが立ち上がる。
「良いからまだ休んでてくれ」
「ちょっとよくなってきたから」
戸棚を開けて、かつてよく見た合成のバーガー1つを取り出した。
他には何も入っていなかった。
「ごめん、これしかないの。配給減っちゃったんだ」
バックパックを引き寄せ、中身を漁る。
「はい」
「ビスケット?」
「食べて」
袋を裂いて、1枚齧った。
「おいしい!」
「良かった」
途中、傘を得るのに寄った店で買ったものだった。
第二世界から食料を持ってきても、こちらの世界の人々が食して問題ないか分からなかったからだ。
「今からちゃんとしたの作るよ」
「作るって……なにを?」
買ってきた麺とオイル、調味料や水。
持ってきた組立式の鍋とコンロ、使い捨ての食器。
嵩張ったけれど、何か作ってやりたかった。
昔いつか、リエルと家にも調理器具をおけたらいいななんて話したのだ。
そしたらおにいのご飯が食べたいと言われた。
リエルが覚えているかは分からないけれど。
「なにこれ?」
「色々」
「こんなにいっぱい買って、お金持ちになったんだね」
「偽札だけどな」
「えっ」
鍋に水を入れ、コンロにのせて沸かす。
熱したフライパンにオイルと調味料。刻んだにんにく、鷹の爪を普段より少なめに。
熱しすぎないよう気をつける。湯が沸いたら塩と乾麺を投入。
「おにいこんなのどこで覚えたの?」
「天国」
麺に芯を残したまま火を止める。
にんにくの香りのオイルに茹で汁と麺を。軽く熱しながら絡める。
普段はいれないパセリを和えて、皿に上げる。
「できた」
リエルの分は少なめにして、パンの上に残しておく。
食べきれなかったら僕が処理しよう。
「いー匂いする! 何て料理なの?」
「分からない。ハウンが教えてくれた」
「ハウン……? ハウンってあの!?」
「まあとりあえず食べようよ」
「あ、うん」
何て料理なのか結局分からないけど、きっと女の子へ作るものじゃないんだろう。
でも僕にはそれくらいしか作れなかった。
「パスタ、食べたことあったっけ」
「小さい頃に何回かだけ」
フォークを持って、食べるところを見させた。
「あ、そうやるんだっけ」
「箸の方がいい?」
「あ、そっちの方がまだ分かるかも」
念の為買ってきておいた箸を渡す。
「おいしそうだな」
橋で麺を掴んで、口へ。
「ん! おいしい!」
「良かった」
「屋台のご飯よりもおいしいよ! これ!」
「そっか」
こんなものをとても喜んで食べてくれる。嬉しかった。
僕も食べようか。
……ん。やっぱり向こうの程ものが良くないな。
麺にしろオイルにしろ何か違う。
「……ひぐっ……」
「か、辛かったか!?」
「んーん……ほんとに、夢みたいだなって。
こうやってさ、一緒にご飯が食べられて。
しかもおにいが作ってくれて、おいしくて……」
「そんなに大したものじゃないよ」
「おにい、覚えてたんでしょ?
いつかおにいのご飯食べたいって言ったの」
「なんだ、覚えてたんだ」
「おにいこそ、覚えててくれたんだね」
「叶えるのに時間かかっちゃったけどね」
妹と2人で食事をするのも本当に久しぶりだった。
この馬鹿みたいな世界の中で、数少ない大切な時間だったのだ。
「ねえ、おにい。さっき言ったハウンって……あのハウンさん?」
「ああ」
「……あの世ってやつ?」
「本当にあったんだよ。死後の世界ってやつがさ」
「そうだったんだ……」
「ハウンにはそこで会ってさ。このパスタも教えてもらった」
「ほんとにそんなところが……」
「信じられないかもしれないけどさ。でも僕はこうして戻ってきた。
死んだ先に何も無いなら出来ないだろ」
「うん……そうだね」
自分の作ったものを、妹が美味しそうに食べている。
その光景は非現実的に感じた。
……夢のよう、か。
「あの世ってどんなところなの?」
「いいところだよ。
ご飯は美味しいし、お金が無くても生きていけるし、誰も死なないし。
優しい人ばかりだし」
「そうなんだ」
「ご飯は食べられるけど食べなくても大丈夫だし、寝るのは気持ちいいけど寝なくても大丈夫だし、ものを買うのに必要な対価は本当に少しの労働で手に入る」
「……何か絵本みたい。すごいな」
自分で話していても現実味のない話だと思った。
「ごめんな。ずっと放って。
優しい世界にかまけてお前のこと、見ないふりしてたんだ」
今更遅いのはわかっている。
それでも頭を下げる。下げなければいけなかった。
「やめてよ、おにい。そんな事する理由どこにもないよ」
「いくらでもあるさ。僕は屑なんだ」
僅かな沈黙の後、リエルはまた口を開いた。
「……そりゃどうしてわたしのことおいていっちゃったんだろ、って何度も思ったよ。
でもさ。ほんとはおにいに私の面倒を見る義務なんてないんだよね」
「家族だろ?」
「お母さんもお父さんもわたしたちのこと捨てたよ?」
「あいつらは家族じゃない」
「でも、家族だったんだよ。
もっと言えば自分たちで私やおにいをつくったんだ。
でも捨てた。確実にわたしたちを育てる義務があるのに」
「……」
「育てる義務があるのは作った人たちだよ。おにいじゃない。
むしろおにいも被害者でしょ」
「お前を見捨てていいわけ、ないだろ」
つい先日まで見捨てていた人間の言っていい台詞でないのは分かっていた。
だが言わずにいられなかった。
「わたしにおにいを責める権利なんてない。
むしろ、わたしが無条件におにいに助けてもらえるのがおかしいんだ。
おにいの稼いできたお金でご飯食べていいのかって。
優しくしてもらっていいのかって」
「リエル……そんな」
「わたしをおいてったって、おにいが気にやむ必要なんてどこにもないんだよ。
むしろごめんね。
わたしなんかのせいでしなせちゃって」
違う。
リエルのせい?
何を馬鹿な。そんなわけない。
「おにいは屑じゃないよ。
屑はわたし。殺されるべきなのもわたし」
「やめろよ……もういいだろ」
「でも事実だよ」
淡々と言う。
頼むからやめてくれ、悪いのは僕なんだ。
「ねえ、わたしも死んだらさ、その世界に行くの?」
「うん。全ての人間がそこに行く」
「生きてる頃の行いとか関係なく?」
「ああ。どんなやつも」
「そっか……」
全て食べ終える。美味しくはなかったが腹の満ちる感覚がした。
生きてるという事なのだろう。
リエルも最後の一口を食べた。
「少しは回復してきたみたいだね」
「うん。おにいのおかげ」
「残り、食べる?」
「うん!」
フライパンを再加熱し、残りのパスタを少し温めてから皿の上に盛った。
また元気よく食べ始める。
あっさりと完食した。
「おいしかったっ」
「そんなに喜んで貰えたら嬉しいよ」
「ふふっ」
「どうかしたか」
「にんにく臭い口で深刻な話してもかっこつかないなって」
「これしか作れなくてさ」
「いいよ、すっごい美味しかったから」
向こうでは匂いが口に残る事も無かったのだが。
会計寸前で気がついた口臭抑制剤を2つ出して、1つをリエルに渡す。
「なに?」
「噛んで。匂いが消える」
「おにいなのに気がきくね」
「うるさい」
今日初めて使ったが、相当な効果があるようだった。
「そういえば鍋とフライパン、洗わなきゃね。
洗った水はトイレに流せばいいかな」
そうだ、厨房だけじゃなくて水道も流すところもないんだ。
トイレは確か、座るところの下に分解液を入れた容器を置いていたんだったか。
その液はグレーコートが吸収、分解してくれる。
じゃあ、洗い物の水も流して大丈夫か。
「やっとくよ」
「ご飯おにいが作ってくれたんだからさ。
それくらいするよ?」
「いいから座っとけ。
あ、安もんだけど甘いもの買ってきたからさ。後で食べような」
「えへへ、やった!」
洗い物にとりかかる。
自らの手で食器を洗うのもいつぶりだろうか。
水をおけに入れ、買ってきた洗剤を入れる。
食器を突っ込んで、磨いた。面倒だな。
向こうにいた時は対汚性の器具や食器ばかり使っていたから水でサッと流すだけでよかったし。
ここにいた頃も配給のバーガーや屋台や惣菜ばかり食べていたから、洗い物はしないで済んでいたのだ。
暫くして洗い終え、容器の水をトイレへ持っていき捨てる。
分解液の独特な匂いがした。
「終わったー」
「えへへ、戻ってきた」
「ちょっと待っててね」
鞄から冷却材で挟んだケーキを取り出す。まだまだ冷たい。
「フルーツタルトだ!」
「ケーキの店じゃないからさ、そんな凄いものじゃないけどね」
「おいしそう……」
容器を開ける。
ナイフがないから、フォークで切り分けた。少し不恰好になってしまう。
「昔1回だけ食べたよな」
「おにい、何でも覚えてるよね」
「リエルだって覚えてたんでしょ」
「まだお母さんがいた頃だよね。あれ、おいしかったなあ」
「ほら、食べようぜ」
リエルは楽しそうに笑いながら、フォークで割いた生地に果物とクリームを載せ直して、口に運ぶ。
「ん、さいこー!」
幸せそうなリエル。ずっと見ていたかった。
……決意が揺らぎそうになる。
彼女たちと別れる時といい、僕は本当に意思が弱い。
同じようにタルトを食べる。さっきのパスタと似た感想を覚えた。
リエルが笑ってくれるなら関係の無いことだったが。
「お腹いっぱい!」
「もういいのか?」
「うん。後で食べる」
リエルは床にどさっと寝転んだ。
「まんぷくー」
「寝るならベッドに行きなよ」
「それほどでもないんだよね」
「まあ分かるけど」
「お仕事は……今日はいいや」
「ゆっくり休んで」
「うん」
寝返りをうってこちらを向いた。
じっとこちらを見つめている。
「どうかしたか?」
「考えてる」
「そうか」
容器の蓋を閉める。
冷却材はもうだめそうだ。
「おにい、そっち行っていい?」
「ん? ああ」
妹は起き上がって椅子に座る僕の膝に乗った。
がっしりと椅子の背を掴んでいる。
「動けない」
「動いちゃダメ」
先程と同じように顔を埋めてくる。
もう震えていないし、焦点だって戻った。
けれど斑の模様は薄まっただけで元には戻っていない。
「ご飯食べて、甘えて。良い身分だね、わたし」
「いいさ、これくらい」
それからまた暫くリエルの相手をした。
何てことのない昔話をしたり、ただ黙ってくっついたりしていた。
ああ、確かに僕はこの世界に帰ってきたんだ。
リエルの笑顔と体温がそれを分からせてくる。
「ねえ、おにい」
「どうしたんだよ」
「もしかして分かってたりする?」
「何を?」
「わたしの仕事」
埋めていた顔を上げて聞いてきた。またじっとこちらを見ている。
その問への見当はついていた。
力の無い妹が、まともな職の少ないここで一人で生きていくのに出来ることは限られている。
けれど僕から言い出す気にはならなかったし、妹が隠そうとするなら黙り続けるつもりだった。
「聞かないでいてくれるのかもしれないけどさ。
でも、隠したくもないんだ」
「そうか」
「わたし、結局からだ売って生きてるの。
男の人とセックスしてるの。
あの日のは無理矢理襲われたんだけど……こうする以外、生きる方法が見つからなかったんだ」
「……」
「いやなのにさ。身体は反応したりするの。
それがもっといやで」
「全部僕のせいだ……もういい……」
「おにいのこと思い出すたびにごめんなさいで頭がいっぱいになって、おかしくなりそうで。
おにいに使うなって言ってた薬を自分が使うようになって」
「頼むからやめてくれ!」
「死にたいよ」
聞きたくなかった。
この世界において何ら不思議の無い、普遍的な感情。
ただそれがリエルの口から放たれるのに拒否感を覚えずにはいられなかった。
だが全て原因は僕なのだ。
黙ってその体を抱きしめる。
「でもさ、おにいと離れるのはもういやだよ。
ずっといっしょがいい」
「……」
「……ねえ、もしおにいがわたしと一緒にいてくれるなら。
その天国ってところでさ。一緒に暮らそうよ。
こんな、ひどいとこじゃなくて」
「でも、それは」
「その世界に行ったらこの病気もも治る?」
「ああ」
「……お金が無くてもいきていけるんだよね?
大丈夫なんだよね?」
「さっき言った通りだ」
「ねえ、おねがい」
「……自分で死ぬの、こわいんだ」
「わたしのこと、ころして」
僕は元よりそのはずだったのに。
妹が言ったそれを受け入れられない。
リエルを、殺す。
リュクゼルの姿が浮かんだ。
死。
リエルをそうする。
そんな事をやろうとしていたのか?
僕が?
狂っている。
「おにい?」
頬をさすられて気付く。
泣いていた。
「ごめんね、辛いこといって」
優しい声音。でも違う。
僕はそれをしようとしていたんだ。
求められるまでもなく、自分で。それなのに。
「いや……大丈夫だ。取り乱して悪い」
「もう平気?」
頭を撫でられる。柔らかい手だった。
この温もりを失わせる事など……
忘れたのか?
死なない限り、この世界でずっと生きなければならないんだぞ。
それを止めるために僕は地獄に舞い戻って来たんだろう?
死に脅えるな。
この世界に生き続けることこそ本当の死だ。
死ぬのは、僕だけでいい。
「やるよ。お前が望むなら、僕は殺す」
「おにい……でも」
「いつでもいい。その気になったら言ってくれ」
「……わかった。でもまだ、怖いから。踏ん切りがつくまで待ってて」
「ああ」
今でも怖い。
でもそれが僕のできる最後のことかもしれない。
絶対にあの世界に戻れるとは言いきれないのだから。
「だからそれまではさ、こうやって甘えさせて?」
「おう」
「……あ!」
「どうしたの?」
「お風呂入ってくる!」
「なんで急に?」
「こんな状態で抱きつくなんてだめ!」
「今更そんなの気にしないよ」
「気にするの!」
リエルは破れたタオルを引っ張って、カーテンがかかっているだけの風呂場に入っていってしまった。
「おい、水あっためないと」
「もう水風呂でいい!」
「風邪ひくぞ」
「待てない!」
「だめだ!」
カーテンを開け、妹の腕を引っ張る。
「ばかっ」
「カプセル、どこだ?」
「……そこの棚の上」
棚の上のホットカプセルを2つ摘む。
これもいつぶりだろうか。
軽く捻って、水の溜まった桶に投げる。
「しばらく待ってて」
「脱ぎかけだったのに……ひどい」
「ごめん。でも風邪ひいちゃいけないだろ」
「……あんまりからだ、見せたくないんだよね。
きたないから」
「あんまり気にするな」
「おにいにこんなの、見られたくない」
何を言えば慰められるのか、僕には分からない。
「向こうなら、消えるんだ……」
リエルはそう呟いた。死が近付くような、そんな感覚。
暫くして水桶が暖まる。
と言ってもほのかに温いくらいだが。
妹は熱い湯が苦手だった。
「さ、入っておいで」
「うん」
入れ替わるように風呂場からどく。
少し経って、湯が身体と床を叩く音が聞こえてきた。
その音が、姿の見えない妹が確かに生きているのだ、という感覚を強めた。
その妹を僕が殺すのだ。
悲しそうな顔も笑った顔もするリエルを、リュクゼルと同じようなグロテスクな肉塊と変えるのだ。
……こんなことなら言葉も交わさずにさっさと事を済ませてしまえば良かったのかもしれない。
弱っている妹なら抵抗する間もなくやり終えてしまえただろう。
けれど、もう二度と会えないかもしれないことを考えるとそんなことは出来なかったのだ。
妹の逝った後、この地獄にずっと僕は……。
金はたんまり持ってきたが、無限じゃない。
命だってそうだ。
いつか見た爆死の残骸を思い出す。
死も貧しさもすぐそこにある。
朝目覚めたことを後悔する世界へ、確かに僕は戻ってきたのだ。
それにもし、妹の件が片付いたなら僕がなすべきことは。
……僕は本当の意味で1人になる。ならなければならない。
生き続けるのは僕だけで十分だ。
リエル、ごめんな。
────────────────────────────────
「……ん」
「おはよ、おにい」
意識を少しずつ取り戻す。
目の前の天井は汚れた茶色をしていた。
「……さむいな」
「お湯、温まってるよ。入っておいで」
タオル代わりの古着を持って風呂場へ。
桶に入った湯は良い感じの温度だった。
洗面器に湯をくんで体へかける。目が覚めていく。
顔にかけ、口をすすいだ。
安そうなものだがシャンプーもボディーソープもあった。
以前はないこともあったが、妹の職が浮かぶ。
髪と体を洗って、タオルを掴んだ。
「ごめん、着替えある?」
「置いといたよ」
全身拭いて、着替えを終えてカーテンを開ける。
「なんか今日涼しいな」
「そうだね……髪、まだぬれてる」
「まあいいだろ」
「だめ」
リエルがタオルを掴んで頭を拭いてくる。
開かれた窓の外に薄い色の青空が広がっている。
「髪くらい自分でちゃんと拭きなよ」
「お前が拭いてくれるんだろ?」
「甘えすぎ」
吹き終わってタオルを籠へ放る。
「ご飯出来てるよ」
「ありがとう」
「いいよ。材料買ってきたのはおにいだし」
皿をテーブルに置いてくれる。僅かに野菜と肉の入ったスープだった。
僕も椅子にかける。
「お金も食材もあるんだから、もっと使えばよかったのに」
「あんまり贅沢したって仕方ないでしょ。あ、ちょっとまっててね」
パンへフライパンで焼き目をつけて、皿の端に載せた。
「さ、たべよ?」
「ああ」
スープを一口。
「うん、ちょっとずつ上手くなってきたんじゃない?」
「そうかなー。やっぱりおにいのがおいしい」
僕がここに来てからもう3日になる。
近くでリエルが笑ってくれる時間は心が安らいだ。
妹も働くことなく、買ってきた食料を消費しつつ2人で家に籠っていた。
パンを千切りスープへつける。
このパンも肉もエテリアじゃなく小麦や鶏から採ったものだ。
配給食にしかエテリアは用いられていないのだから。
あちらの世界でもエテリアで食品を作っていたから所謂本物を食べたのは久しぶりだ。
人じゃないが、これも命か。
感謝などと驕った事を宣う気は無い。
僕らが作って、僕らが殺しているこれらは死の先で救われるのだろうか。
人には救いがある。
では、それ以外は?
せめて僕らと同じような救済を……
いや、これこそ傲慢か。
僕は今それを喰らっているのだから。
「今日は何して過ごそうか」
「んー……」
リエルはスープを飲みながら考えている。
「ねえ、おにいはどうやってむこうに帰るの?」
「僕?」
「うん。ていうか、どうやって天国からこっちに来たの?」
初日以降、今に至るまであまり向こうの事は聞かれていなかった。
急に質問され、返答に窮する。
僕がむこうにいつ帰れるか分からないこと、帰れない可能性すらあることをリエルに伝えていいのか。
「えっとね、転移装置……こちらへ来る機械とそれを起動する方法をハウンが見つけてくれたんだ」
「じゃそれまでこっちに戻っては来れなかったってこと?」
「うん」
「じゃ戻るのは?」
「おにいはどうやって向こうに帰るの?」
「お前を残して帰るわけないだろ?」
「その後だよ。わたしがその世界に行ったあと」
「事が終わったらハウンたちに引き上げて貰えることになってる」
「ほんと?」
「……心配するな。もうお前をひとりぼっちになんてしない」
「言ったからね?」
「ああ、言ったよ」
償いに来たはずが、罪を増やしていた。
リエルは許してくれるだろうか。
「これからはずっと一緒だからね」
いや、許されようなんてそもそも間違っているのか。
スープとパンを食べ終える。昨日作ってくれた炒め物より美味しかった。
僅かに薄味だったが。
「おにい」
「ん」
膝の上に彼女がまたがる。
細い腕がしっかりと身体に回される。
身体の斑点は消えていた。
「だっこ」
「してるけど」
「もっと」
容態は安定してきていて、初日のあの様子とは程遠い。
元気になっていく様子を見て本当に安心した。
「おにい」
多分もう、大丈夫なはずだから、
「わたし、今日までにする」
「な、」
「生きてるの、今日まで」
心のどこかで思っていた。
ずっとこのまま、一緒に生きていればいいんじゃないかと。
……リエルのことを考えれば、そんな風には絶対思わないはずだった。
「でもお前、怖くないのか」
「死ぬのは怖いよ。看取ることになるおにいにも悪いな、とも思う。
それでもこの世界がきらい」
頬を寄せたまま。
「そうだな」
僕だってこんなところは本当に嫌いだ。
なのにどうしても、死への抵抗感が拭いきれない。
彼女の瞳が、こちらをまたじっと見つめていた。
「ごめんね。辛い思いさせて」
「何言ってるんだ。辛いのはお前だろ」
「いくらその先に天国があるって知っててもさ。
誰かを殺す事や、誰かの死が辛いのは変わらないよ。
どんな世界を知ったって神さまになれるわけじゃないもん」
僕らは人であり、或いは動物に過ぎず、神ではない。
物理法則に干渉せしめてなおそれは変わらない。
「今日は何して過ごそうか。
ライナーで街の方へ言って遊んだり、どこか観光したり、美味しいものを食べてもいい」
「うーん……」
「何だっていい。
やりたいことがあったら言ってくれ。叶えるから」
「じゃあずっとこうやってくっついてて」
「来た日からずっとそうしてたじゃんか」
「それでいいんだよ」
本人がそういうのならそれでいいのだろうか。
体調が良くなってから何度か遊びに行こうか誘ったけれど、どれも断られている。
「ほら、甘やかしてよ」
頬と頬を擦り付けてくる。
「なーんかさ。
こうしてずっと毎日ひっついていちゃいちゃしたりして過ごしてると、堕落してる感じで幸せなんだよね」
「堕落って」
「お金とか命とか、昔のことも明日のことも考えないでさ、ただあったかくて気持ちいいことだけで過ごすの。
これって堕落っていうか、どうぶつみたいだけど」
「……」
「いくら賢くなった気でいても、人だってどうぶつだもんね」
神になれないだとか、動物だとか。
「お前本当に僕の妹だよなぁ」
「どうしたの?」
「人は神じゃないとかさ、動物だとかさ」
「わたしは昔から思ってたよ?」
「いつから?」
「おにいがスケベな本読んで喜んでるの見つけた時から」
「え、え?」
「確か何にもはいて……」
「もういいリエル、それ以上は言うな」
「でもほんとだよ?」
「動物なんだから仕方ないだろ」
「まあ今のわたしだってそうだもんね」
また身体を擦り付けてきた。
また少し考えるようにしたあと、喋り出す。
「あとはさ、汚い話だけど。人って結局うんちする生き物なんだよね」
「まあな」
「いくら陰謀を巡らせても、人を殺しても、戦争しても、学問を修めても。
宇宙に出ても。
高尚になった気分でいたって汚物を尻からひり出す生態は変わらない」
「あまりお前の口から聞きたくないな」
「人は神でも偶像でもキャラクターでもない。猿の直系なんだ。
……どう?かしこく見える?」
「お前、どこでそんなの覚えたの?」
「おにいの妹やってるからねー」
……リエルの前でこういう話をした事があっただろうか。
記憶にはないんだが。
「あ、すけべ本で思い出したんだけど。おにいってむこうに女の人作ったりした?」
……急に来た。
「……唐突だね」
「ほら、女の人だっていっぱいいるでしょ? むこう。
2年間もいたらそういう人が出来てそうじゃん」
「まあ、いないようなそうでも無いような……」
「そういう曖昧なのが一番よくないと思う」
「う……あの2人はどう説明すればいいんだ?」
「2人!? 2人もつくったのおにい!?」
「ああ、いや、その……」
ミナやエトラは……どう表現するべきなのか。
恋人とはもう少し違う気がする。
だが僕は、あの二人の事を何とも思ってないわけじゃ決してない。
「……おにいはわたしのこと好きなんだよね?」
「ああ」
「じゃその2人のことは?」
「……好きだよ」
「その2人は? お兄のこと好きなわけ?」
「たぶん……」
「ふーん」
僕を掴んでいる手のひらが、体に食い込むように強まる。
「わたしに責める権利、ないんだけどね」
その意味を考える。
「いや。多分あるよ。僕が言うのも何だけどさ」
「大人しくうやむやにしておけばいいのに」
リエルは背をこちらへ預けるように座り直した。
「むこうに行ったら会わせてもらうね。おにいに選ばれた人に」
「そうか」
「仲良くできるかな。
おにいを選ぶくらいだからさ、きっと感性のいい人たちだと思うんだけど。
嫉妬はしちゃうだろうしさ」
「すまないな」
「まあ謝罪はその時にたっぷり聞くよ」
すとんと膝から降りてこちらを振り向く。
「向こうに行く時は服とか手荷物も一緒なんだよね?」
「ああ」
「そっかー。何にしようかな」
そういって狭い家の中、棚や服の山を物色し始めた。
「何か持っていきたいものとかあるの?」
「うん。ほら、おにいに買ってもらった服とかもあるしさ」
「まだ残ってたのか」
「健気でしょ? おたくの妹」
服の物色へ戻る。
どこか楽しそうなその様子に、今日逝ってしまうことが嘘のように思わせられた。
……僕が本当はまだ向こうに帰れないと伝えたなら、リエルはどうするのだろうか。
いや、関係無い。
この世界から、リエルを解き放たなければならない。
本人が死の恐怖を乗り越える覚悟をしたのなら、もうそれでいいんだ。
それでいいんだ。
僕は今日、やるんだ。
────────────────────────────────
「おにい、おねがい」
「本当に、本当にいいのか?」
「何度もきいたし、何度もいったよ」
「そんな焦らなくたって」
「いいから、おねがい」
「でもせめて、もっと苦しくない方法で……薬ならあるから」
「やだ。おにいの手がいい」
「でも」
「そうやって迷ってると、苦しいのながびく」
「……わかった」
もう覚悟は変わらないようだった。
夕陽の射し込む部屋の中、布団にリエルが仰向けになっている。
優しい表情だった。
「荷物、ちゃんと持ったか?」
「うん。
持ってきたいものもおにいがくれた手紙もカバンに入れたし、服もおにいのくれたのだよ」
「……そうか」
「もう準備できてるよ」
「……考え直す気、ないか?」
「おにいがわたしに向こうの話をした時点でさ。もうぜんぶ決まってたんだよ」
「ん」
「それともうそなの、きれいなせかい?」
「嘘じゃないさ」
「そこでおにいとくらせるのは?」
「ああ」
「じゃあ、答えはもうでてる。おねがい」
愛しい首に、掌を添える。
「おにい、あいしてるよ」
「…………」
「あいして」
絞める。
両の腕の全てのちからを、リエルに。
「あ………ぐ…い………ぁ」
表情が崩れて、呻く。
「あー………ぃぁ……あっん……」
身体が何度も跳ねて、もがいている。
「……………っ………………………………………」
声が薄れていき、肉へ近づいていく。
「……………………………………………………………………」
もう少しだ。
「」
反応が消える。
絞め続ける。
絞める。
殺す。
やがて、腕の力が入らなくなった。
空気が肺に流れ込んで咳込む。
苦しい。
痛い。
その場に倒れ込む。
大きく息を吸って、吐く。
繰り返して身体が冷えていく。
首を動かすと、死んでいた。
起き上がる。
リエルのような何かがある。
安らかな寝顔とは程遠い、人でなくなった表情をしていた。
僕がさせた。
僕が殺した。
「はぁ、はぁ、はぁ………僕? 僕。……はぁ、ころした、殺したんだ」
死。
壊れた何か。
リエル。
だった。
「分からない。なぜ? そうだ、やった、やったんだ。終わったんだ」
きもちわるい。
リエル?
違う。
そうだっただけだ。
もういやだ
水を飲む。
正気を取り戻したのか? 僕は?
分からない。狂っている気もする。
僕が壊したリエルのからだが倒れている。
僕はやってしまったのだ。計画通りに、望まれた通りに。
でもこれで救われたのだ。
救済、そう救済だ。
リエルはこれからあの世界で、これまでなんかと違う、楽しい日々を生きていく。
ミナとリエル、ハウンにこれからの事を頼んでいる。
もうお金の事を気にする事はないし、身体だって売らなくて済むし、薬でおかしくなることもない。
最高だ。何の誤りも無い。
リエルは死ぬべきだったのだ。
だから、今ここにあるきもちのわるい肉塊はどうだっていい。
ぼくのやったことかもしれないが、そんなのいいんだ。
関係無いんだ。
リエルは救われた。
これはリエルじゃない。
僕は悪くない。
「は……ははは………あははっ」
救ったんだ、僕が!
ずっとそうしたかったんじゃないか!
ついに成し遂げたんだ。贖ったんだっ。
こんなに素晴らしいことは無い!
この2年眼を逸らしていた罪を!
今ここで贖罪したんだっ!
あー、やっと救えたんだ。
助けられたんだ。
叶ったんだよっ!
祝福してやらなきゃ、あいつがやっと幸せになれるんだから!
……やっぱり狂ってるんだろうな、僕。
そりゃおかしくもなるよな。あんな壊れた顔見たら。
腕も、掌も、指も、足も股も腹も胸も脇も首も舌も口も鼻も眼も全て死んでるんだ。
人じゃないんだ。
鞄から排菌剤を取り出す。
やがてあれは尿を漏らし、腐敗し、蛆がわいて、焼かれて融けて骨になる。
処理の前にこれをかけておかないとならない。
服をずらしつつ、スプレーを吹く。
まだ身体は熱を持っていた。
口や鼻、耳、性器、尻の中にも吹いていく。
また頭がおかしくなってしまう前に何とか作業は終わった。
あっちから持ってきた大きな袋に遺体を詰める。
口を閉じて密封した。
身分が分かるようなものは持っていないから、夜中どこかに置いておけば誰かが適当に処理してくれるだろう。
これでひとまず、終わりだ。
夕陽はいつの間にか落ちて、瑠璃と言うには暗すぎる光が部屋にあった。
服の山や、ゴミ箱に入ったケーキの容器、この手の感触。
リエルが確かにここにいた痕跡が確かにあった。
そのどれもが愛おしく、でももう無意味だった。
だけどリエルは救われたんだ。
もう会えるかはわからないけど。
なあ
僕のことも、誰か救ってくれよ
────────────────────────────────
『お住いの地区は、本日これから一日中快晴でしょう。
昨晩は大雨でしたが、今日はお出かけ日和です』
窓を開くと、雲のない空に虹がかかっていた。
綺麗だった。
端末の設定を調整したところ、こちらのネットワークに接続が出来たのだ。
今やっている天気予報もそれである。
「おっと」
麺を茹で過ぎないうちに鍋からフライパンへ、麺を移す。
油を絡めて皿へのせた。
フォークはまだ洗っていない。面倒なので箸で食べる。不味かった。
昨晩の大雨は、遺体を引きずって置いてくるのに十分だった。
それなりの格好もしたし傘も差していた。
ばれることは無い、大丈夫だろう。
リエルの遺体をああやって扱うのは嫌だったが仕方ない。
もう僕は狂っているのだから。
皿を放ったまま端末を弄る。
そうしていると何だか落ち着く様な気がした。
アンチエーテル報告書を、改めて読み直す。
エーテルの変質。生命の崩壊。現状の行方。
内容もそこから推察されることも何も変わらない。
やらなければならない事が、まだ残っている。
バックパックをひっくり返すと様々なものが出てくる。
ミナの絵本。エトラの砂時計。2人の手紙。
ハウンから貰ったものはもう僕の腕に在って時間を刻んでる。
砂時計を摘んで、テーブルへ置いた。
白から黒、上から下に砂が落ちている。
砂の量は変わらない。向こうでみた様子と同じだった。
端末のカメラを起動して、砂時計を移す。
……ここへ来る準備をした日に見た結果と変わらない。
エトラとあの店に行って撮影した時と比べ表示される情報が増えている。
外装の展開の意味から、中で落ち続けている星の砂が何なのかまで。
端末越しにさえその砂は圧倒されるような輝きを放っていた。
リエルにも見せてやればよかったかもしれないと思ったがもう遅い。
砂時計を掴んで、返す。砂は昇っている。
やはりこのままではだめなのだ。
再び返すと砂が落ちる。上側、白い台座の装飾を撫でる。
あの店の男はこの美しく、禍々しいこれを僕に必要なものと言っていた。
まるで僕がこの世界に来る事も、そして願っていることも知っていたかのように。
その上で奴は僕にこれを渡した。
正確に言えばエトラに売ったのだが、彼女が僕に贈ろうとしたのが分かったのだろう。
この世界へ降りれてしまうことも砂時計の正体も知っていたなら、自ら時計を用いて実行をしてしまうことも出来たはずなのだ。
何故僕に……
勿論ここに来てしまえば、僕の知る限り向こうへ帰る方法は無い。
だから僕にやらせようとしたというのは筋が通る。
しかし本当にそれが理由なのか……?
いや、奴が何を考えているのかなんて考えたところで分かりようがない。
僕が考えなければならないのは、この砂時計の機能を用いて、実行することについてなのだ。
そして、その意味についても。
僕がこれからするのは、一般的に言えばリエルの救済……殺害よりも重大な決断だった。
神になれぬはずの人間が、その前提を覆すのだ。
結局この砂時計はなんなのか、という疑問には既に答えが出ている。
検索済みだ。
この砂時計の中には、アンチエーテルが入っている。その砂がそうなのだ。
もし解き放たれれば、大気中のエーテルを猛烈な速度で変質させていき、世界を覆う。全ての命は死ぬ。
僕を除いて。
エーテルが失われれば、命は死ぬ。
人も、それ以外の動物も、植物も。もしかするとこの星そのものも。
例外は、第二世界から転位してきた者。僕らは生命維持にエーテルを必要としないらしい。
正確にはこの砂時計のアンチエーテルによって壊死する種類のエーテルを、ということだが。
だからもし、回帰者が他にいるならそいつも死なないんだろう。
回帰したものがいるということ自体はデータがあると言っていたが、彼らが今もこの世界にいるのかは分からない。
寿命か何かで死んでしまっている可能性もある。
果たして僕らに寿命があるのか、死に得るのかも不明だが。
そのデータも僅かにあるばかりで、結果この世界に僕以外残るのかは分からない。
きっと僕は死体の山の中で一人で生きていくことになるだろう。
それはあまり嬉しくない事態で、もしかすると僕は耐えられないかもしれない。
リエルやリュクゼルか死んだくらいで壊れそうになっているのだから。
けれど……これを実行したならば。
僕は人類を殺すことが出来る。
戦争なんてしてる馬鹿も、金の無いやつも、病気のやつも、障碍のあるやつも、不幸なやつも、幸福なやつも。
まだ生きていやがるらしいあの屑親共も。
まとめて殺す。ぶっ殺す。
そうしてやらなきゃならない。
全ての咎人たちに、罰を。
そして僕一人生きてやる。
撫でていた装飾の部分を押し込んで、柵のようなフレームが開く。
台座が展開する。砂はそのままだ。
手首を返して、置き直す。黒から白へ、砂が落ち始める。
上の砂山は段々減り始めていたし、下は増えていた。
砂時計としてあるべき姿を取り戻したのだ。
やがて砂は落ち切って、砂はその輝きを更に強めていく。
かちっと音がした。ロックが外れたのだ。
あとは台座を外せば中身が空気へとけていく。
世界を包むまでには一週間ほどだそうだ。
そして僕は神になる。
人の本質が善だとか悪だとか、そんなのつまらない議論だ。
自己の利益と保身、快楽が何にせよ最優先であるだけなのだから。
それを悪と呼ぶならそうなんだろう。
どうだっていい、所詮獣だ。当然の事なのだ。
だが優先するそれらが最低限保証されるなら……
自らが幸福でいられるという前提があるなら、人は優しくなれるのもたくさん見てきた。
あの世界なら僕も……あのごみの様な人間どもも。
台座を掴む。
後は捻って、開くだけ。
今この瞬間、この世界で幸せに生きてるやつすら……リュクゼルやリエルのように壊すのだ。
醜い肉の塊にするのだ。
さあやれ、やるんだ。
下らない世界の下らねえ神に、僕はなるんだ!
砂時計を掴んだ腕が震える。
冷たい汗が止まらない。
早く。早く全てを終わらせろ。
それが僕には出来るんだ。僕にだけ出来るんだ。
でも、それなのに……どうして体が震えるんだ。
あの世界を初めて見た時からずっと思っていただろう?
どいつもこいつもみんな、しんでしまうべきだと。
死によってここに来れるなら、最早生は愚かだと。
分かっていて何故決断できない?
出来るだろう、僕になら。
ずっと願っていたんだから。
……まさか、やめるのか?
やめてしまえばこの地獄は永遠に続くんだぞ。
今いる人間だけじゃない。老いて死んでいく者以上に、産声を上げて増えていく。
そいつらはまたこの世界で苦しんで、この世界を続けていくんだ。
終わらせなきゃならない。
新たな命を呪わずに紡がなきゃいけない。
殺す恐怖と遺体の無慈悲さに騙されるな。殺してやらない方が余程邪悪だ。
見せかけのヒューマニズムなど捨ててしまえ、神になるのだから。
僕以外誰も出来ないんだ。
誰も救えないんだ。
僕が今この瞬間、少し勇気を出すだけで何もかも変えられる。
だから今、殺すんだ。
殺せっ! 殺せよっ!
その力は、今お前にしかないんだ!
「…………うわあぁああぁあぁあぁああああぁぁぁあぁっ!」
結局、僕には出来ないのか……?
いややるんだ。
いつかきっと、必ず。
僕がやらなきゃ、ならないんだ
『以上、お天気でした。
一部では虹の出ているところもあ…………え?
はい……そ、速報です!
亜連とナロードニク、旧露が電撃的和解です!
先程この国と三国合同で発表がありました。
これから午前11時より、イポニア、いえ日本国某所にて会見と中継を行う模様です。
我々、情報が入ってきたばかりで詳細は……会見中継をどうかご覧下さい。
歴史的和解です!
繰り返します、速報です! 亜連とナロー………』
安寧、救済。しね @I-my
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