続篇 救済
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「後は……」
「外した一部装甲の取付と起動試験だけだな」
朝陽。
夜中から今に至るまでにかけての彼らの集中力と熱気は凄まじいものがあった。
今日の昼までかかるという試算だったものが、既に工程終盤に差し掛かっている。
これなら11時までに終えられるはずだ。
作業車と研究者たちが揃って装甲の取付を始めた。
僕らに出来ることは何も無く、ただその様子を見つめるだけだ。
「あーあ、いいなー。私もロボット欲しい」
「操縦出来たら楽しそうだなっ!」
「1回だけ乗らしてもらったよ」
「ええ!? ずるい!」
「シミュレータだったけどね。空も飛んだし、敵とも戦ったよ」
「ずるいずるいずるいー」
「ヨーコだったっけ?」
「うん」
「あの人、どうしてロボット作ったんだろうな」
「乗りたいからに決まってるでしょ」
「ミナが作ったわけじゃないだろっ。まあ確かに、それくらいしか思い浮かばないけど。
あの人、どうもロボット好きって訳じゃなさそうなんだよなっ。
ブースタのことブースカっていってたし」
まだ言ってたのか。
「ロボットが好きって訳じゃないけどあんな凄いもの作っちゃう理由か……」
話していいのか分からない。黙っておく。
「お前、何か聞いたかっ?」
「ん。話していいのかな」
「分からないなら、止めておくべきじゃない?」
「そうだね」
「でも君自身が助けようとするならともかく、私たちを頼るくらい、助けようって思った理由なんでしょ?」
「まあそうなるな」
「普段あんまり私たちにもの頼まないじゃん」
「こいつそういうとこあるよなっ」
「ってなると……人情話かな」
……まあ、間違いは無い。でもなんで分かったんだろう?
「君はそういうのに弱いから」
「こいつそういうとこあるよなっ!」
「そうかな」
「まああんまり詮索するのも良くないかもね。
……ああ、私もロボットほしいなあ」
「作れば?」
「作って」
作業が進んでいく。
徐々に元の形を取り戻していく。
自分は大して何も出来ていないにも関わらず、不思議と達成感のようなものが湧いた。
「なあ、背中のマークどうするよ?」
「そうだ、前のは外装取り付けてから描いたんだっけか。
これから取りつけるやつにも描かなきゃな」
「塗料あったっけ?」
「……多分無いな。そこまで考えていなかった」
最後の一枚が取り付けられる。
マークか。
そういえば調べたレイオーガの背面、襟の辺りには紋様の様なものがあった。
確かにデザイン上重要な部分だろう。
最初どうやって装甲表面に描いたのか分からないけど……無いままじゃ寂しいよね。
「ちょっと行ってくる」
「いってらっしゃい」
集っている研究者たちに確認を取る。こちらの提案に問題は無いか。
了解を得られ、自宅へ。
巨大ロボットを普通何で塗るのか僕は知らないが、エアブラシとプラモ用塗料なら家にある。
あのマークの色なら……これとこれか。
テーブルの上のオートエアブラシを点検する。
最近使ったばかりだ、問題は無い。
それらを抱えて外へ。
「ヨーコさん」
「はいッ?」
「エアブラシ持ってきたんで使って下さい」
「えあぶらし? 何それ?」
「塗装用具ですよ。これでレイオーガにマークを描いて下さい」
「! ……ホント何から何までお世話になりっぱなしネ……」
「ただの気まぐれです。気にしないでください」
朝陽のまばゆさは薄まっていた。
何か彼女は考え込んでいる。
「……ねえ、その役目、アナタがやってみない?」
「ヨーコさんと息子さんの為の機体でしょう。
部外者には荷が重すぎますって」
「部外者な訳無いでしょッ!」
「ひっ」
怒鳴られた……
「これだけ手伝ってくれておいて今更部外者になろうったってそうはいかないわよッ!!
どれだけ助かったと思ってるのッッ!!!」
周囲から笑い声が聞こえる。笑ってないで助けてくれ。
「もうッ……」
「す、すみません……」
「やっぱり、マークはアナタが描いて。功労者の権利であり、義務よッ」
「……分かりました」
功労者か。
過言だろうが、そう呼んでくれるのならやろう。
塗料をエアブラシのタンクに投入する。
内部での攪拌と調色を待って、地面に試し塗りした。
「もう少し薄い色か?」
塗料を追加し調整する。
もう一度吹くと良さげな色合いになった。
「もう塗っても?」
「おう、やってくれ」
エアブラシを握ったままレイオーガの背を掴む。
上の研究者が手を差し伸べてくれた。
「マークはこんな感じだ」
画像を映した端末を寄越してくれる。
「よし……」
この巨大なロボットに今から塗装をするという事を意識すると、興奮する様な緊張する様な感覚が湧いた。
吹出口をレイオーガに向けトリガーを握る。
装甲が黒く染まっていった。
「……っ!」
やはり身体が強ばった。
ゆっくりとブラシを動かしていく。
当然だがプラモデルを塗るのとは勝手が違った。
「…………ふー、できた」
「よう、おつかれさん!」
「お疲れッ!」
レイオーガの背に、確かにあの紋様が刻まれていた。
……ずれてない、よね?
「あのお嬢さん方がフェンリルとプロメテウスなら……君は何だろうね」
「仏じゃないですか? 死人ですから」
「そりゃ俺もだ、わっはっは」
「僕はただの人間ですよ」
レイオーガの背から下りる。
「あとは起動試験だけですか?」
「ああ。ありがとう、君たちのおかげだよ」
「皆さんだって善意の協力者でしょ?」
「いや、好奇心のロボット馬鹿だな」
楽しそうに笑っている。
「それじゃ電源入れてみるわねッ」
ヨーコさんが頭部へ乗り込む。
少し経ってから機体が振動を始め、各発光部から光を放つ。
地面に腕を立て体を支える。
膝を着いて腰を上げた。
「……ああ!」
そしてブースタからエーテルを放って飛び上がって見せる。
「復活の虚神か」
嵐のような風が僕らを吹き抜けて行った。
蘇りし鉄の神の雄叫び。
ブースタの火を弱めてゆっくりと下降し、再び地に降り立った。
頭部ハッチが開く。
「たあッ!」
ヨーコさんは飛び降り、くるくると回転しながら着地した。
「やっぱあの人、動けるみたいだなっ」
エトラもお墨付きである。
「ヨーコ、調子はどうだった?」
「機体自体に問題は無いんだけど……」
「……ん? 端末なってるぞっ?」
「え? ……あら、ホントだ」
彼女は通話を始めた。
……まさか。
「……えっ!……はい。……それは」
全員がそれを見つめている。
やがて端末を下ろして、ヨーコさんは声を発した。
「えーくんが……こっちに来たそうです」
彼女は複雑そうな表情をする。
そこに秘められた感情が何であるのか僕には分からなかった。
「今、スタートルームにいるって」
「迎えに行ってくれ。その為のレイオーガだ……」
「それなんだけど、駆動に関する一部のデータが飛んじゃっててッ」
「なんだと!」
「まともに飛ばせられないワ……どうにか浮かすことだけは出来たけど」
研究員たちに動揺が広がる。
……そうだ、僕の端末の中にあるんじゃないか?
「すみません、ヨーコさん」
「どうしたのッ?」
「以前飛行データ貰った時に、間違いで機体内の他のデータもコピーされちゃったみたいなんです」
「あら!?」
「BIOSまでコピーされてたくらいなので、もしかしたらその必要なデータも」
「……分かったワッ!」
コクピットに乗り込み、コンソールから端末とのデータリンクを図る。
「繋がった!」
続けて該当のデータをコピーしようとするがエラーを吐いてしまう。
こちらからは向こうに複製出来ない仕様なのか?
どうすればいい?
……。
こちらの端末内のデータを参照させながら駆動させる? できるか?
前面モニタに映る設定画面。
……あった、接続機器の項目。幾つか入力を済ませる。
外部データ参照稼働から進むと、分からない項目が出てきた。
「ヨーコさん、これどういう意味か分かりますか?」
「いえ……そこまで弄ったこと無くてッ」
ちょうど研究員の1人が乗り込んできた。
いいタイミングだ。
「君は何を……そうか、なるほど」
画面を見て状況を理解してくれたようだ。
「その項目は……とりあえず数値をデフォルトのまま進めてくれ。
動作が固いようなら半分に」
「分かりました」
言われた通りに入力をする。
『外部参照を行う間、接続された端末の所有者の操作しか受け付けません。』
…………くそっ! これじゃ……
「……別の方法を探しましょう」
「いえ、これでいいわッ」
「ヨーコさんが操縦しなければ意味が無い」
「これ以上あの子を待たせられないわ。
……いいえ、ワタシが待ってられない。えーくんに会えるんだもの」
「……分かりました。僕が操縦をします」
「頼むわ」
「君、操縦出来るのか?」
「シミュレータを1度だけ」
「……そうか。途中トラブルがあった時の為に同乗させて貰いたい。
構わないか、ヨーコ?」
「お願い、レイモン。……もう行きましょッ」
「分かりました」
サブカメラに移るみんなの映像を拡大する。
「ヨーコさん、挨拶を」
スピーカーとマイクを起動した。
「……今度パーティをするワ。
話したいことは沢山あるけど、今は伝えきれない。その時にいっぱい話しましょうッ。
ひとまずは、本当にありがとう」
涙を浮かべながらそう叫んだ。
「お兄サン、お願い」
「……いきます」
ブースタを吹かし、空へ。
モニタに映る皆が小さくなっていく。映像を正面のものと入れ替えた。
「場所はスタートルームでいいんですね?」
「ええ」
2つ目の命の始まるところ、スタートルーム。
多分そこにエイスケさんがいる。
伏せの体勢で空を滑っていく。加速する街並み。
レバーを握る力が強まっていくのが自分でも分かる。
やれるのか? 僕が?
……やるしかないんだ。
この飛行速度なら10分もしないでいけるはずだ。
今度はシミュレータじゃないんだ、ミスする訳にはいかない。
その時、またヨーコさんの端末が鳴った。
「……はい、ヨーコです」
暫く話していると驚きの声を上げた。
「スタートルームから逃げたって!」
「なっ」「そうか」
「レイリスタワーの方へ行ったってッ!」
「了解!」
機体を傾ける。
「タワーの方に行ったとはいえ、タワーにいるんだろうか」
「他にあても無い。行くしかないんじゃないかな」
「そうねッ」
『エーテルタンクエラー』
「なんだっ!?」
アラートが鳴る。
「オレが対応する。端末、触るぞ」
ホルダーにセットしておいた端末をレイモンさんへ。
「ふむ……」
彼が少し弄るとアラートが止まった。
「すまんな。表示上のバグだ。実害は無い」
「良かったです」
「レイリスタワーが見えてきたワッ」
速度を緩める。そろそろ着陸だ。
「……あれ?」
「どうしたんだ?」
「頂上、拡大して」
ズームする。
頂上の展望台の縁から、下を見つめている者がいた。
「…………えーくんッ!!」
息子の名を叫んだ。
スピーカーとマイクのスイッチを入れる。
「えーくんッ! ダメッ!!」
街に彼女の声が響く。
驚いた様にこちらを見た。
「えーくん! ママだよッ!
聞こえるッッ!?」
『は…はは……』
声が拾えた。
『こんなおかしな夢を見て……死にきれなかったんだ……俺は。
今度こそ、今度こそッ!!』
頂上から、飛び降りた。
間に合うか!?
腕を伸ばす。
「えーくんのバカぁぁぁぁッッ!!!」
…………!
彼がぶつかる瞬間に、差し伸べた掌を軽く下げる。
「……………………………間に合ったみたいだ」
「器用なもんだ」
「ハッチ! 開けてッ!」
「落ちないで下さいよ」
頭部を開く。青い空が姿を見せた。
「……よく考えたら、落ちても大丈夫でしたよね」
「再会はドラマティックなほどいい、だろ?」
ヨーコさんは頭から腕、掌と飛び移る。
『バカ! バカ! バカえーすけッッ!』
泣きじゃくりながら、子を抱きしめる母がそこにいた。
『バカッ! バカッ!………………』
「……良かった。良かったぜ」
隣の彼の頬にも涙はつたっていた。
「ええ。そうですね……」
「善意ってのはさ、報われるべきなんだよ。こうやってさ、幸せになってさ……」
「そう思います」
「君もありがとうな。本当に助かった」
「いえ、いいんですよ」
彼女の数十年間の思いがやっと報われたのだ。
『死んでない……?』
『しぬのなんか1度で十分よッ』
もう子を思って苦しむ事も無い。
『お袋と……レイオーガ?』
『そうよッ……! あんたの為に作ったんだからッ! 約束したでしょッ!』
『え……あっ』
1人で生きることもない。
『なんでお袋が……』
『誰がお袋よッ! ワタシはママ! あんたのママッ! お袋なんてカッコつけた呼び方すんなッ!!』
『恥ずかしいよ……』
『しるかバカッ!』
「傲慢だけどさ。救えたんだな、俺は」
「今くらい傲慢でもいいでしょう」
『夢じゃないんだよな……』
『そんなのじゃないッ! 明日も明後日もワタシはあんたのママで、あんたはワタシの息子ッ!』
「……あいつらを置いていっちまった父親は、再会と謝罪の機会を行使しようとしないで逃げてる父親はさ、地獄に落ちるべきなんだろうけど。
この光景を見たり、泣いたりする権利はあるのかな」
「…………泣くんなら、あるでしょ」
「……そうか」
『ほら、バカえーすけ、そろそろ泣き止みなさいッ』
『お袋だって』
『お袋じゃないッ! ママッッ!!』
ママか。
そうか、僕は幻想が欲しかったんだ。
ただひたすらな母親という、フィクションみたいな理想を。
幼い頃の影を。
情けないなぁ
─ ── ───── ─ ─ ───
罪には罰を、罰には救済を
我が罪赦すは神に在らず
神無き故に
── ─ ── ─
……でかいな。本当にでかい。
目前の住居は、小洒落た外装と個人宅とは思えないスケール感とをしていた。
まあ世の中にはそういう家に住む金持ちもいるんだろうなとは思うものの、これは何とミナの家なのだ。
見るからに高そうで、サイズは比較するならあの図書館よりでかい。
どういう事だ。
本当にあれがミナの家なのか? いや、でもそうだって言ってるしな……
玄関の前に立ち、インターホンを押す。
ピンポーン。
「国税局でーす」
「へ?」
「いや、豪邸だから」
「脱税なんかしてないんだけど」
「家大きい人の90%は脱税してるはず」
「残りの1割は?」
「税務署」
「いいから上がって」
自分で聞いてきたのに。扉が開く。
「えへへ。いらっしゃい、少年」
「お邪魔します」
室内も当然の様に豪華な感じだった。靴を脱ぐ。
「広いね……やっぱ脱税?」
「税金なんて無いでしょ、ここ。
本が売れてさ。お金が余って。
機材とか資料とか置くとこあった方がいいし、おっきいとこに引っ越したんだよね」
「本ってあの?」
「あれ以外にもいくつか出してて。小説とかも書いたよ」
「ミナ、小説なんかも書いてたんだ」
「うん。全く売れなかったけどね」
こっち、と案内されついて行く。
「一昨日ぶりかな?」
「うん」
虚神の修復作業を手伝ってもらったのが一昨日の事だ。
「パーティ、ほんとに私も行っていいのかな。
ほんとに少し手伝っただけじゃん」
「本人が来てって言ってるんだからいいだろうさ。
あんまり遠慮すると僕みたいに怒られるよ」
「ふふっ。それもそうね。……あの人、叶ってよかった」
部屋に入る。中は少々肌寒く、中心には布団の生えたテーブルがあった。
何あれ?
「こたつ、入ったことある?」
こたつ?
「そ、とあるアジアの国で使われてた伝統的な暖房器具」
アジアか。どこだろう?
生まれのあの国はアジアに属するが、この奇妙な物体は見たことがなかった。
そういえばミナはどこ生まれなんだろう?
聞いた事なかった気がする。
彼女はそのこたつとやらに座って、布団を足にかけた。
「さ、君も」
カバンをおいて同じようにする。中はとても温く、心地が良かった。
「……これは人をだめにしそうだな」
「ふふ、ようこそ」
脚を伸ばす。
ミナの脚にぶつかった。
慌ててどけると今度は向こうの脚がこちらの上に乗る。
足を引こうとするが出来なかった。
「ね、なにしようか?」
くつろいだ様子でそう聞いてくる。
「考えてなかったのか」
「うん。こうやっておしゃべりしてても、ゲームしても、どっかに出かけても、別に楽しそうだしさ」
「脚、重いよ」
「うるさい」
足をどけずに、彼女はごろんと寝転がった。
首まですっぽりとこたつに入っている。
「君もどう?」
「いや、人の家来てそうそう昼寝ってのもね」
「そう? 食事や性交渉がコミュニケーションなら、睡眠もそうじゃない?」
「……その考えはなかった」
っていうか。
「そういうの、言う割に恥ずかしがるよね」
「君相手に恥ずかしがるのもなって思って言いたいこと言うんだけど……言ったあとで恥ずくなる」
「言い方だけでも変えればいいだろうに」
「過激な物言いをしたくなる年頃なのよ」
「10代?」
「えっと、こっちに来たときはで幾つだったかな、それから何年経ったっけ?
……まあ10代だよ、多分」
「誤魔化した」
「いいの! 見た目は大体10代でしょ! 花も恥じらうお年頃!」
「いや、ここ大体みんなそうだから」
「何百年何千年とここにいる人だっているし! 問題無いし!」
「何百歳とかより40、50の方がすごい感じするのなんでだろうね」
「だーかーらー!」
唸る。
まあ老化も寿命もない世界じゃ歳なんか気にする必要も無いんだけど。
「そういえばエトラはいくつなんだろ」
「エトラはね……いや、これ言っちゃっていいのかな」
「まあ嫌がるかもしれないしやめとこうか」
「そうね」
給仕用の機械が飲み物を持ってくる。家で飲むのよりは高そうな味がした。
ふと、脚の上から重量が消える。
機会を見逃すまいと足を引いてあぐらをかいた。
するとこたつの布団が開く。
寝転んだままのミナが僕の隣からすっと顔を出した。
「ちょ」
「まあいいじゃんか」
「よくない」
「君も寝っ転がろうよ」
「何言ってるのさ」
「コミュニケーションだよ。大事だよ?」
「……」
「さあさ、ね?」
どうしたんだろう。
距離のとり方がいつもの彼女と違う様な気がする。
「もー、仲良くしようよ、青少年」
「……何か機嫌良いね」
「え? 飲んでないよ?」
「それ、飲んでる人のセリフでしょ」
「いや、嬉しくてさ。素直じゃない男の子が優しさを隠しきれなかったのが」
「男の子って」
「どうせ私はオバサンだもん……ヨーコさんの件、君が助けようと思ったんだなと思ったら、あったかくって。
普段ならしないだろうに、私たちにまで頼んで」
「……善意じゃないさ。自己満足だよ」
「自己のために起こしたことでも、他人を助けたんだ。
その時点でもう自己満足じゃないよ。人も満足したんだから」
「結果幸せを生んだなら、始まりが善意じゃなくてもいいの?」
「善意の方がいいでしょうね。
でも、自己満足の滲んでない善意なんて無いよ。
誰だって人を助ける自分が好きなんだもん。
だから君のそれは自分の為でも、多分善意なんだよ。十分優しいって」
寝そべりながらそう微笑んだ。
この笑顔にも、自己満足が含まれてるんだろうか。
でもミナの言う通り、確かにどっちであったとしても優しく感じられた。
「そうだ!」
急に起き上がる。
「どうしたの?」
「着いてきて」
ついて行く。
ポートがあった。家だぞ、これ。
「これがある自宅って」
「んー、広いからねー」
「自慢かな?」
「そうだよ」
流石である。
「エトラが一緒に住まないかって、そう言ってくれたんだけど。
家族と一緒にいられるならさ、いた方がいいよ」
転移し、ポートの扉を開ける。
「凄いでしょ?」
巨大な書庫があった。
「研究資料?」
「うん。どれも電子化は済んでるんだけど、原本も残してあるんだ」
紙の本の匂いのする部屋の中を歩く。
そこには、この世界で出版された様々な書籍があった。
学術書や専門的な文書だけだなく、多様な種類が取り揃えられている。
「……ねえ」
「どうかした?」
「これも研究資料?」
以前2人で対戦したレースゲームの攻略本だった。
「あ、それこんなとこ置いてあったんだ! 無くしてたんだよね」
「何で研究資料に混じってるのさ……」
「この家そこら辺に登録した本置いて放置しとくと勝手に機械が認識してこの部屋に運んでくれるから。
この本を登録したのは忘れてたけど」
「扱いきれないテクノロジーを家に導入するのやめなよ」
「ふ……人類が科学を御し得た事など歴史上一度も無いよ。
いつだって人はむしろ科学に御されてきたのさ」
「偉そうだけど情けないからね」
そういえばミナがいつもつけている空間投影イヤリングもかなり高い技術で作られているものだろう。
まあ使っているのはミナなのだが。
棚にあった攻略本を抜いて、パラパラとめくってみる。
これをやったのは確か、ミナと会ってそう経っていない頃だったか。
今よりも笑顔が少なく、弱々しい感じだった。
あれはあれで……可愛かったな……うん……
「にやにやして……女の子?」
「え?」
「すけべ」
否定出来ないのが困る。
「君さ、女に興味無いの?」
「何を言い出すかと思えば……」
「あ、いかがわしいゲームはやるんだっけ」
「黙秘するね」
「反省が見られないなら刑を増やすしかないかな」
「厳罰主義反対。よくない」
「……それはともかく、結構好かれそうなんだけどな、君」
「本気?」
「うん。そもそもさ、あれだけエトラに引っ付かれてる訳だし」
「エトラは誰とだって仲良くなれるじと思うけど」
「んーん。君はとくべつ」
嫌われているとは思わないし、仲もいいが。そこまでだろうか。
むしろエトラはミナとの方が仲がいいような。
「ちょっとわざとらしくても、隠さないで優しくすれば他の子とも仲良くなれそうだけど。
今回のレイオーガの件もそうだけどさ」
「そもそもそんなに優しくなんてないよ」
「うそつき」
意図的に優しくしたことが無いわけじゃない。
でもそれは本当は優しさなんかじゃないのだ。逃げているだけ。
「興味が無いわけじゃない。けどまあ、僕にも色々あるのさ」
言い終わって、なぜもっと上手く誤魔化せなかったのかと後悔する。
「でもいっか。君が女の子に好かれすぎても困るしね」
何故、と問うのを躊躇った。
「そしたらさ、私とはあんまり一緒にいてくれなくなるでしょ?」
頭をよぎったそれと、異なるような、等しいようなそんな言葉だった。
「よくないね、こういう醜い欲求は。エゴイズムだ。
ホントは隠しておくべきなんだろうな」
「……そんなに好かれることもないと思うけど」
「その言葉を信用出来ないくらい、君は私に優しかったよ」
今日の彼女は、感情を隠そうとしなかった。
それが何故かは分からない。
「何でこんなに雑多な本があるのさ」
「調べてるのこの世界の事だけじゃないんだよね。
あちらの経済だとか、歴史だとか、哲学だとか。
あと専門外だからそこまで詳しくないけど情報技術関連とか。
研究に関係ない本もそれなりにある……」
改めて棚を見回す。
「………なるほど」
「どうかしたの?」
「この、黒薔薇と白百合って本さ」
硬直。
動転。
目が泳いでいる。
「み、」
「?」
「見なかったことに……」
「ああそう……」
あはは……と困ったように笑っている。
書庫に案内する前に気付いて欲しい所だが。
ふと、過去の確執を思い出す。
「……人のエロゲは糾弾してたのにね」
「……」
「エトラ、知ったらびっくりするだろうなぁ……」
「そんなに意地悪しないでよ……」
仕方ないので止める事にする。
……にしても、恥じらっている様子はかつての彼女に近しいな。
もう少しからかいたくなったがやめておく。
庫内を歩き回る。
個人的にも気になる本がいくつもあった。
「ねえ、ここの本貸してもらう事って出来るかな」
「良いよ。君の知りたい事が知れるとは限らないけど……幾つか良さそうなの見繕っておいて上げる」
「? 何だか嬉しそうだね」
「べ、別にそんなことないよ」
奥の方まで歩くと何と絵本コーナーがあった。
「絵本、読むの?」
「読んだりもするんだけどね、自分で描いてるんだ」
手に取る。美しい絵だった。
学者に小説家に、絵本作家。
「ほんとに多才だね」
「ふふん」
誇らしそうに胸を張る。
「あ、無い胸張るなとか言わないでね」
「言わないよ……」
絵本は幾つかあったがどれも綺麗だった。
思っていた以上にミナは色んな才能に溢れていた。
僕はまともに絵は書けないし大して文章も書けない。
こっちの世界でも才能の差まで平等にはならないんだなと、そう思った。
「じゃそれも貸してほしいな」
「感想、教えてね」
長い髪を揺らして微笑む。
エトラにしろ彼女にしろ、僕と関わろうとするのが未だによく分からなかった。
ハウンだってそうだ。
人間としての性能が僕とは比べ物にならない。
正直に口にすれば彼女たちは傷付きかねないのは予想がつくから、言わずにいるが。
「本は帰りに渡すとして……何かしたい事ある?」
「何かって?」
「プールで泳いでもいいしゲームしたいなら筐体が結構あるし映画見たいならスクリーンもあるよ」
「どうしてそんなもの家にあるんだ……」
「ポイント余ってるからねー」
「貧乏人の恨みを買うような発言は慎もうよ」
「ん、お金無いの?」
「まあ」
「養ってあげよっか?」
……思考が停止した。
「……飯も食べずに生きていける世界で養うも何もないでしょ」
「それもそうだね」
ついてきて、と言う彼女の後ろを歩く。
「この世界での金銭……ポイントの使い道はほぼ全て娯楽な訳だけど。
でも果たして、娯楽は娯楽なんだろうか」
「どういう意味?」
「娯楽無しに人は生きていけない。心が壊れるからね。
娯楽とは必須物なんだよ、娯楽じゃない。
かつての世界の食事や水分、酸素と何ら変わらない」
「そうかもね」
「もっと言えばこちらの世界では、肉体と精神を維持するのに飯を食らう必要も水を飲む必要も無い。
それを心地よいとは感じるけどね。つまり、今の私達の必須物は娯楽だけ」
「うん」
「必須物を継続的に提供することを養うと言うなら、ここじゃ娯楽を与える事がそうなんじゃないかしら」
「……なるほど」
突飛な様な、論理的な様な。
「ただ、この理屈だと困ることがあるのよね」
「どうしたのさ」
「私はエトラや君に養われてる事になる」
そう言って楽しそうに笑う。
「エトラはともかく、僕がミナに娯楽を提供したことなんてあったっけ?」
「娯楽って言うと語弊があるかもだけど……楽しいのよ、いつも」
寂しくない時は、と彼女が言ったのを思い出す。
「そんなのミナだけじゃないさ」
「そっか、ありがと」
いつもこれくらい穏やかでいてくれたらと思った。
「エトラは……エトラに養われるのはなんか癪ね」
「僕もそう思う」
見解の一致によってそういうことになった。
「知人友人なんて、大概相互に娯楽を提供してるって言えるよね」
「そうね」
「娯楽経済……いや、幸福経済と呼ぼうか、呑気だな」
「良い呼び方じゃん、使わせてもらうね」
ポートを出ると光と音が弾けていた。
いつものゲーセンに置いてあるのより数段豪華な筐体が沢山並んでいる。
「どう?」
「何か驚くのも疲れてきたよ」
見ると以前僕が惨殺されたロボットシューティングがあった。
これでコクピットを叩き切る練習してた訳だ。
「対戦しよっか」
「いや……」
勘弁。
「ねえ、これっていつも電源ついてるの?」
「んーん。ポートでこっちにくるの選んだ時に自動で起動するようになってる」
一部屋しかない僕の家とは大違いである。
資本主義はんたーい。
「ゲーセンじゃないからRPGもあるよ」
「筐体でロールプレイングとは乙だね……」
新しいものから古いものまで結構な種類がある。
物理カードや飴玉が出る類のもあった。
「業者から買ってる」
「もうそれ、業者じゃん」
何かもう本当人の家に遊びに来ているという感覚がない。
「ね、ね、あれやろ」
ホッケーだった。
マレットでパックを打って相手側のゴールに叩き込む、古くからのゲーセンの定番だ。
この手のものでミナに負ける気はしない。
反射神経とフィジカルがものを言う競技な訳だけど、ミナはそちら方面は強くない。
エトラは鬼なので無理だが。
筐体下のポケットからパックを取り出す。
「始めるよ」
「りょうかい!」
マレットを掴み真っ直ぐにパックを打つ。
ミナの反射神経があまり良くないのは周知の事実なのである。
返せまい。
「えい」
が、ゴール前でパックが弾かれる。
彼女は当然のようにマレットを両手に持っていた。
そのまま打ったパックはこちらのゴールに吸い込まれる。
「卑怯な!」
僕も左手側の置き場を見るがマレットは無かった。
ゲーム開始前から仕組まれていたらしい。
「卑怯もらっきょうも大好物だぜーっ」
「くそっ」
パックを取りだし、もう一度打ち込む。
力の乗った良い打球。
が丁度その瞬間、盤の中心が円状にせり上がる。
「へ?」
パックは弾かれ、踵を返しこちらのゴールへ。
そんな馬鹿な。
「ミナ……」
見ると邪悪な笑みを浮かべていた。
倒さねばならぬ。我が誇りにかけて。
「ふん!」
障害物を迂回するように左の壁へ進ませる。これなら……
「ていっ」
返されたパックは盤の真ん中を飛んできた。
どうなっている?
どうにか弾く。
よく観察すると、せりあがった円の中心にはギリギリパックを通せそうな位の隙間があった。
これを通したのか……ミナが?
「!?」
再びこちらに向かってくるパックをどうにか防ぐ。
おかしい、ミナのパワーでこの速度を出せるはずがない。
ドーナツより重いものを持ったことがないはずなのに。
パワー、コントロール、反射神経、どれをとってもミナとは考えられない。
むしろあれは……
「……エトラ」
当然のようにこちらの攻撃は通らない。
そして豪速球が襲ってくる。
ミナをよく観察する。あれがミナのはずがない。
エトラかそうでないなら新種の生物兵器だ。
「……まさか!」
「そう、そのまさかよ」
彼女のマレットは振動していた。
その上、ミナがマレットを操るのではなくマレットがミナを操っているように見える。
「これはエトラのホッケーを再現するべくAIと振動装置を搭載したマレット!
その名も……」
「その名も……?」
「エトライト・マレットっ!」
「なん……だと……」
防御が間に合わず、ゴールを貫かれてしまう。
どうする……?
エトラが相手ならば勝てるはずがない。
僕は幾度か彼女とホッケーをしたが、彼女から1点しか奪ったことは無いのだ。
その1点はミナを買収しエトラを妨害させた際にとったものである。
それ以降はゲームになったことがない。
……いや。あれはエトラだが、エトラじゃない。
やってみせる。
「……!」
中心を通してパックを打つ。速度も十分。
「残念」
ミナの体勢は「溜め」のそれだった。来る……!
「…………はあぁっっ! 空牙ぁっ!」
パックが空を裂き、弧を描く。
気が付いた時には、パックはどこにもなかった。
ポケットに落下音。
「君じゃエトラには勝てないよ」
「確かに僕じゃエトラには勝てないけど……でも僕が戦ってるのはエトラじゃない」
パックを盤に乗せ、打つ。
そろそろ頃合のはずだ。
「そろそろ諦め………っ!」
その一撃はパックを掠めることなく、ゴールに届いた。
「……やはりね。確かにエトラの動きに僕は到底ついていけない。
それは君も同じはずだ」
彼女は疲労しきっていた。
ミナの体力でエトラの動きが出来るはずがないのだ。
「ここまでのようだね」
「ふふ……あはは……」
彼女は再び邪悪な笑みを浮かべる。
「何を笑って……」
「いい? 君の言った通り、私はエトラの動きにはついていけない。
でもね?
ついて行く必要も無いのよ」
そう言ってミナはパックを盤上に落とす。
その刹那、マレットは盤上を自律機動し始めた。
……それは違うんじゃないかな。
「行きなさい!エトライト・マレットっ!」
パックは再び宙を舞う。
まあ、勝てなかった。
──────────────────
「酷い茶番だったわね」
「それ僕のセリフ」
たった一戦で燃え尽きて、テラスで休憩。
彼女がいれてくれた何かをコップから啜る。
茶色い液体で、上にはクリームのようなものがのっていた。
からん、と氷が鳴る。
「……美味い」
「どう? カフェのココアよりは美味しいでしょ」
「ココア? これがココアだったのか」
「知らなかったの?」
「名前だけは聞いたことあったんだけど。実際に飲んだのは初めてで」
「そっか」
そう言って彼女は皿にチップスを盛った。
「ココアとそれは合わないんじゃない?」
「甘いものとしょっぱいものを交互に摂る、それが栄養バランスなのよ」
「嘘だ、絶対嘘だ」
「まあいいから」
さくっと一口。
塩と油を味わいつつ、ココアをまた啜る。
……ああ、まずい。チップスが欲しい。
「……これが栄養バランスか」
「分かった?」
分からない方が良かった気がする。
「これだけ美味しい物食べても太らない、良い世界」
「そうだね」
飲み干すと、彼女は新しいココアをいれてくれた。
さっきのより甘いかな。
「……ん。おいし」
「幸せそう」
「好きな人と遊んで好きなココアを一緒に飲める。幸せね」
「……はっきり言うね」
「君みたいに恥ずかしがっても仕方ないもの」
「その割に顔赤いけど」
「仕方ないよ」
彼女は濡れたカップを置くと、こちらをじっと見つめる。
「なにか?」
「…………」
「ちょっと」
こちらの困惑をよそに、大きく深呼吸している。
何を考えているのだろうか。
「ま、もう仕方ないよね」
「?」
「こっちの話」
ミナはこちらから目を逸らして、ココアのカップを見つめる。
「……そうね」
ココアを一口。
「ね、あちらの世界で、このココアは何で出来てたか知ってる?」
「? えっと、前にもそんな話をしてくれたね。
エテリアだろう?」
「そう、エーテルを加工したもの。
じゃ、人類がエーテルとその有用性を知覚する以前は?」
「考えたこと無かったな……で、どうしたの?」
「ま、いいから聞いてよ。チョコレートと同じ原料と言えばわかるかな?」
「カカオ?」
「そう、カカオ」
人口陽でない光に照らされて、茶色く濡れた氷が輝く。
「チョコレートもココアもおもに先進国の嗜好品として好まれたけど、その産地の多くは貧しい国が多かった」
「ふーん」
「国家間のパワーバランスによって搾取という状況が作られた。
安く買われたカカオが、結果的にその国とその労働者にもたらす利益は決して大きくなかったの」
「化石燃料と同じようにはいかなかったと」
「必需品と比べられないわ。
それとカカオ農園では児童労働も横行していた」
「ありふれた話だね」
「そう、ありふれた話。何故かカカオ豆だけがやけに注目されていたけど。
諸問題の解決の為の取組は細々と行われていたけれど、そのうちにエテリアによるチョコレートやココアが生まれた」
「それは良か……いや、いいのかな。職を失うことになるんじゃ?」
「エテリアの誕生と普及は即ち、産業と世界の変革を意味するはず……だった。
カカオに限らず、殆どの食品や工業素材の原料、そして新たなエネルギー源となりえたのだから。
だけど、そうはならなかった」
「なぜ?」
「恐れたのよ。世界が変わってしまうことを」
カップの水滴がコースターを濡らしていた。
「食料なら幾らだって作れるから、飢える者はいなくなるけれど。
エテリア加工関連による雇用がある程度生まれたところで、職を失うものが多すぎる。
エテリアの生産性ならば、公共の予算ですらそれら失業者全てのある程度の生活を賄えたけれど……問題は幾らだって起きる」
あの頃は大して意識しなかったが、随分と大きな問題だったらしい。
「だから、エテリアの使用はごく一部に限られた。
配給用食料なんかがそれにあたるわ」
「つまり、その後も普通にカカオは生産され続けた?」
「うん。低い給料と、児童労働を垂れ流し続けながら。
……ね、」
あまり大きくは無い声で名を呼ばれる。
「ほんとにそれで、よかったのかな」
先程まで感じた聡明さでは無い、深い後悔のような。
それは声に滲んでいた。
「ほんとにエテリアを用いていたなら大混乱が起きてた、ミナ自身が言ったじゃないか。
それにその子供たちは仕事が無くなったらどうやって生きていくんだ」
「でも……あんな世界のままでいていいはずがないじゃない」
あんな世界、確かにあんな世界だった。
知識としてじゃなく、体験としてそれは分かっていた。
「やめようよ、昔の話なんて」
「でももし、あれを変えられたのなら」
「もういいだろ」
「今だってあそこで酷い毎日を生きてる人が沢山いる」
「そんなこと考えたって仕方ないよ、僕らは神じゃないんだから」
「……」
「どうしたのさ、急にこんな話……熱くなって」
「……昔のことはさ、もう変わらない。遡れるのは記憶だけ。
どれだけの後悔が重なっても、こんな夢みたいな場所でもそれは変わらない」
「さっきまで楽しく遊んでたじゃないか。何でそんなこと」
「ごめんね、むかしのこと話そうとすると、つい」
謝罪が欲しい訳じゃない。
過去の事を話して欲しくないのだ。
「でも、話さなきゃいけないから」
「そんなことは無いでしょ。どうせ変わらないなら黙っとけばいい」
「んーん。そういう訳にはいかないんだよね」
先程の沈黙はこの話について考えていたのだろうか。
「……君は? 君はどう?」
「どうって?」
「君は過去に何を抱いているの?」
ついにはっきりと、彼女は問うてきた。
今までそれを聞いてくることは無かったはずだ。
「何でそんなこと」
「驚いてる?」
「まあ」
「君に隠すのも、隠されるのも嫌になったんだよね」
「過去を?」
「それだけじゃないよ。ぜんぶ」
「全部?」
「そう」
彼女の顔が近付く。
「今の気持ち。昔のこと、ここに来る前のこと。
……私と君が死ぬ前、あちらにいた頃のこと」
艶やかな唇が、動く。
「私はもう何も隠さないよ。君はどう?」
瞳は此方を捉えていた。
「っ……」
声が出ない。思考も追いつかない。
「逃がさないよ」
体が硬直している。怯えている。
必死に、声を出そうとする。
「す、すすこし」
「……」
「待ってくれないか」
「……いいよ」
彼女の顔が離れる。
体の緊張が抜け、ほぐれる。
安堵。
「でも、答えは出してね」
「はぁ、はぁ……」
「そんなに怖かった?」
「ああ……」
息を大きく吸って、吐く。
「どうして、急に?」
「前々から思ってはいたんだ。
君やエトラに話してない事、いっぱいあるの、嫌だなって」
「話したくないなら無理に話さなくても」
「私が嫌なの」
「話したくないから話さなかったんじゃないの?」
「うん。話したくないけど、でも話さないでいるのもいや。
君のことを知らないのもいや」
「そう……」
「それに君さ、よく難しそうな顔したり寂しそうだったりするんだ」
「……エトラも同じ事を言ってたな。
ミナに対してもそう言ってたけど」
「別に私が君の事情を知ったからって君が癒える訳じゃないけど……でも」
また強い目がこちらを見つめる。
「それで、どうするの? 教えてくれるの?」
「……」
「答えてくれるまで、私は君を理解できない」
「良いじゃないか、今のままでも。
そもそも、他人を理解しきることなんてできっこないんだから」
「その通りね、でも関係ない」
腕を掴まれる。顔が寄る。
「理解させろ」
「……」
「私に、君を理解させろ」
今日の彼女はまるで別人のようだった。
エトラにしろミナにしろ最近変だ。
いや、僕が知らないだけでそもそも持ち合わせていた一面だったんだろう。
彼女たちが隠していた、僕が隠させていた。
でももうこれ以上は不可能なのか。
「君には私を分かってもらう」
「やだな……命令じゃないか……」
「……強引すぎるのは分かってる。でもこれくらいしなきゃ、君は」
僕の過去。
こちらに来る前、あちらにいた頃。
つまり、死ぬ前。
思い出したくなどない。
あれは……もう過ぎ去った日の事なのだから。
掘り返した所で誰も幸福にはしない。
「嫌だね」
「っ……」
「ミナは僕が話してない過去をうちあければ、僕の心が癒えるだなんて思ってるみたいだけど。
いいかい、そんなことは無い。あっちゃいけないんだ。
今だって全く思い出さないわけじゃない。怖くなることだってある。
でも少しずつ忘れられそうだったんだ。
ねえ、頼むからさ、邪魔しないでよ。貴方が僕の過去を知りたいのは勝手だけどさ、それを僕のためみたいに言わないでよ」
口から出た言葉は、想定していたよりずっと強く拒絶を示した。
違う、これじゃない。
その言い方じゃない。
「貴方やエトラが僕に関わってこようとするのは嬉しいけど、限度があるよね。
拒否しているのに個人的な事柄に無闇に触れる権利なんて無いよ」
感情的になり過ぎている。
自覚はあったのに止まらなかった。
ミナはうつむいて震えている。涙をこらえているようにも見えた。
僕のせいだった。
やがて顔を上げる。
「甘えてたよ。君は結局、私達のこと拒絶なんてしないでいてくれるんじゃないかって」
涙はなかった。ただ顔が赤く、声は小さい。
「ごめん、言いすぎた」
「……でも諦めない」
つらそうな表情のまま、確かにそう言った。
「無理なものは無理なんだよ」
「ねえ、驕ってるにも程があるけどさ。君にとって私達は何なの」
「はあ?」
素っ頓狂な声が出る。
「昔の事を話すのが嫌な程度の関わり?」
「……仲がどうだから話さないとか、そういう問題じゃない。誰にだって話したくない」
「私やエトラはね、君に依存してるんだ」
「何を…」
「君が拒絶を続ければ、狂うよ」
一度離れた顔がまた近付く。
「脅しかい?」
「そして君のことを求めてる。セックスしたいとすら思ってる」
変な声が出た。
「君が望めば直ぐに股を開くよ」
「どうしたんだよ、なあ」
「何ならこの場で服を脱いだっていい。舌を絡めてもいい」
訳が分からない。混乱していた。
「君が私達をどう思ってるかは分からない。
でも私達は今みたいな妥協の産物じゃなくて、もっと君と深く繋がりたい」
「何でエトラまでそうと言いきれる」
「直接聞いた訳じゃないよ。
でも多分そう。自覚さえ無いかもしれないけどね」
自信ありげにそう言う。
「君を理解したいの、分かってくれた? それとも信用してない?」
腕が、こちらに伸びてくる。
頬を細い指がさする、温い掌に触れる。
「ねえ、教えてよ。このままじゃいや」
「色仕掛けか……」
「私達が君を知りたい衝動と欲望は君の知ってる100倍強いよ。
無視なんてさせない」
どうにかなってしまいそうだった。
目の前にいるのが本当にミナなのか分からない。
「ね、わからせてあげよっか……」
後ろに飛び退く。椅子がガタリと倒れた。
「ん。怖いの?」
「もう、分かった」
「ほんとに?」
「2人が僕の事を本当に知りたがってるのは分かった」
「ふーん」
「だけど話せない」
意思は変わらない。
「強情だね」
「もういいだろ、こんなの……」
余計な事を言わない様に、慎重に声を発する。
ミナは溜息を吐いた。
「……なら私の事から話すよ。どうせ伝えあうんだし」
「いいよ、しなくて」
「だめ」
はっきりと拒否して、ミナは続ける。
「君はどうせ世界は変えられないって言ったけど。
私は変えられたかもしれないの。あの世界を」
冗談のような台詞だった。でも冗談を言っている様子はない。
「ココアとチップスを味わいながらするような話でも無いんだけど……まあ聞いてよ。
私はエーテル、そしてエテリアの研究者だったの」
過去に、触れようとしていた。
「僅か数人の仲間と一緒に、禁じられたそれを知ろうとした」
「……」
「設備も予算もない、大したことは出来ないはずだった。
でも知りたかった。エーテルは何なのか。
そしてそれはこの世界を救いうるって、そう信じてた」
初めて会った彼女の姿が思い浮かぶ。
「大した研究のできない日々の中、スポンサーになってくれるという女性が現れたの。
どうやってここを知ったのか、違法研究にどうして無条件で金をつぎ込んでくれるというのか。
怪しかったけど私たちには金が必要だった。
その話を飲んで研究は加速したわ。
人材機材、そして研究に生活全てをつぎこめる時間的余裕。
全て生まれるほどに多額の資金を提供してくれた。
ただ私もエテリアが世界を救うと信じているのだと、そう言って研究結果の報告さえ望まなかった。
いつの間にか、私達は誰も想像しえなかったほど高度な研究に手をつけるようになっていたの」
「それは?」
「エーテルと物理法則の関連について……つまり、エーテルを用いて宇宙を作り替える技術」
「……本気?」
「そうよ」
二の句が告げない。
「エテリア加工は社会を変えうるものだったけれど……もうそんなレベルの話ではなかった。
人が神になろうとしていた」
あの世界はここほどでないにしてもSFじみている。
知ってはいたが、目の前の知人に体験として語られると衝撃的だった。
「勿論、直ぐに実現出来る訳じゃない。
実現に長い時間がかかるだろう事は分かりきっていた。
それでもその理論は禁忌的で、私たちは研究の成果を大いに喜んだ。
これで何もかも変えられると、無邪気にね。
その論文の完成から2日後、研究所に銃を持った奴らが来て仲間がみんな殺されたわ」
「なっ」
「私だけが生き残ってしまったの。
小さな物入れに身をかがめて、ずっと小さな銃声と悲鳴が聞こえてた」
「一体どこがそんなことを」
「自国……じゃないといいけど」
どっかの国、というより有り得そうですらある解答だった。
「隠し通路からどうにか逃げ延びたけど、その後は居場所を転々としたわ。
奴らがやってこないとも限らなかったから」
どれだけの恐怖であったか。ミナにしか分からないだろう。
「それで、逃げられたの?」
「暫くはね。
初めに施設を攻撃してきたやつらの他にも幾つかの勢力が情報を掴んだみたいで、更に血みどろになっていった。
次第に衆目へ触れるのを厭わなくなって、民間人に犠牲が出たの」
「……」
「分からなくなった。世界を、誰かを救う研究だったのに。
逃げた先のちっちゃな女の子がね、脳漿を晒して死んでたわ。
私のせいで」
「ミナのせいじゃない」
「そうかな? 私が逃げなければ、生き残らなければ、研究なんかしなかったら」
「やめろ」
「結果的に小さな紛争にすらなった。
開戦理由は偽られたけれど、少数とはいえ正規軍が隠蔽されることなく出兵されるまでの大事と化したの。
あの子以外にも、結局何人死んだんでしょうね」
「やめてくれ」
「結局逃げきれずに私は捕まったわ。
そして殺された。
その前に自殺しようと思ったけど出来なかったよ。怖かったんだ、死ぬの。
あれだけ自分のせいで死んでるのにね」
「どうしてやめてくれないんだよ!」
「……ほんとはさ、私だってわかってたんだ。
んーん、分からないはずないよね。エーテルを研究する事がどういうことか。
勿論最初から宇宙再創造なんて馬鹿げた結果が出るとは思わなかったし、戦争になるなんて思わなかったけど。
スポンサーがついてより有意味な研究に、新たな成果物を生み出しうる状況になってまで続ければ大変なことになるのは分かりきってたよ。
でもさ、研究を止めなかったの。
人命に関わる可能性も全く想像しなかったわけじゃないのに、世界のためとか言って自分の好奇心を優先したの」
「……それは」
「私は本来、こんな幸せになっていい人間じゃない。
でも私のせいで死んでしまった人達の行き場がここだったから……死の先が無じゃなかったから、それが本当に良かった」
こんな後悔と安堵と、一人の人間が抱えていいものじゃない。
あの世界は残酷過ぎる。
「捕まった後、殺されて、気付いたらここにいた。
もっと全身汚れて、多少歳も食ってたし気だって狂ってたはずなんだけど。
どれもが消えて今の姿になってた」
「……」
「不思議ね。あの世界の記憶も感情も残ってるのに、壊れないの」
淡々と語るそれは、本当に酷い話だった。
ミナはココアをまた一口飲んで続ける。
「……エトラとは、いつ?」
「ここに来て……1ヶ月? もうちょっとだったかな?
あんまり覚えてないや。泣いてばっかだったからね……」
恥ずかしそうに笑った。
「エトラのおかげでさ、ちょっとずつ毎日楽しくなってさ。
生きてるのって楽しいんだって。
いやホントはもう死んでるんだけどさ、でもあの頃よりずっと生きてる」
「……良かったよ」
知っている話なのに体から緊張が抜けた。
「聞きたくないって言ってたのにそういう顔しちゃうとこ、好きだよ」
「……」
「その後は……言うまでもないかな。君と会って、もっと楽しくなった。
依存するくらい」
「良くないな、依存は」
「今更やめられないよ、心地よすぎるもん」
彼女は背もたれに大きく体を預ける。
「ん、やっと言えたー」
伸びて、こちらを向き直した。
「ありがとう、聞いてくれて」
「いや……」
何故それだけの話をしてしまえるのか。
……答えは出ている、更に深く関わるためと彼女は言った。
じゃあ僕は?
彼女やエトラに理解されたくないのか?
そういう訳じゃない。
でもあの事は話したくない。
何故? 忘れたいから?
それは何故?
……自分を醜い人間だと認めたくないから?
いや、そんな事はもう分かっている。
なら何だ。
それを他人に、彼女たちに露呈させたくないから?
そう、なのだろうか……
「どう?」
「……少し、時間をくれないか」
「うん、分かった。ありがと」
とても優しく微笑んでくれた。
「じゃさ、今日はもっと遊ぼうよ」
「へ?」
「いいじゃん、イカサマホッケーだけじゃつまらないでしょ?ね?」
チップスを一齧りして彼女は言う。
さっき僕に迫った唇と同じ筈なのに、違うものに見えて仕方がなかった。
────────────────────────────────
「次の方、メルシェス=カルド様」
「はい」
最後の呼名を終えて、カプセルに手を掛けて、開こうとする。
「いい」
「そうですか」
『メルシェス=カルド 享年31 無宗教 南クリルにてナロードニク軍の銃撃により逝去 頭部を始め各部に銃痕あり 遺体の見送りを望まない』
パッドにはそう書かれているが。
ナロードニク……旧ロシア側はミサイルや爆弾を除いて実弾銃を使用していなかったはずだ。
光式じゃ各部に銃痕なんて出来ない。
多分レヴォリューツァ、自軍の誤射か、内ゲバか何かに巻き込まれたのだろう。
でもまあそうやって書く訳にもいかないわけで。
それにしても、穴だらけでも遺体が残るのと、光式兵器やら爆発やらで何も残らないのとでは、遺族としてはどちらが良いのだろうか。
無宗教とあるので、手だけ合わせて、コンベアを再稼働させる。
ここからは見えないけど、この先の焼却炉に遺体だけ投げて、カプセルは再利用されるらしい。
また違う遺体を載っけて、僕らの元に来るんだとか。
目の前の上司がそう言っていた。本当だろうか。
次は小さな箱が来る。
『ベルタ=ヤマダ MIAにつき、遺体無し。当人写真にて代葬 当該作戦時14歳 無宗教』
記述通り、箱の中にはぎこちない笑顔の写真。
手を合わした。今日も大半のお客様は無宗教だ。
「今日はこれで終わりだ」
「そうですか。有難う御座いました」
リュクゼルさんは奥の方から何枚か札を取り出して僕に寄越した。
「全く、未だにこんな紙の金使ってんのこの国だけだぜ」
彼の口癖だ。
とはいえ、貧乏人以外は端末で取引をするけど。
「日本とかって名前だった頃から使ってるんでしたっけ?」
「おう、そうらしいな。
円って丸の事らしいんだが…………おめえさんこれが丸に見えるか?」
「昔は丸かったのかもしれませんね」
長方形の紙の薄い束を、畳んでカバンに入れる。
「お先に失礼します」
「ああ、ちょっと待てよ。俺も上がりだ。
一緒に帰ろうぜ、ライナーの運賃くらいは出してやる」
急ぐべきかとも思ったが、今からじゃどうせ早い便には乗れないだろう。
金払い以外は案外と気の良い上司なので、有難くそうして貰うことにした。
駅までの道のりを肩を並べて歩く。
「お前、この仕事は好きか」
「この時代に働けるのは有難いです」
「ま、そうだよな」
返答になってないことは自覚していたが、何も言われなかった。
「不思議だよなあ、この稼業は。
どこも葬儀なんて出来やしないから、まとめて簡略的に済ます。
今やこの国だけじゃなく、どこもろくに宗教が機能してねえ。
お陰で何の宗教的修養の無い俺らがこれでおまんまにありつけるんだ」
そう言いながら、彼は古びた帽子を弄る。
「南クリルに客ならいくらでもいますしね」
「の割には儲からないがな」
薄汚れた白髭の彼は元々、軍人をしていたらしい。
いや、正確には隊員だったか。
「設備は整っているようですが」
「ん、ああ。一応開設ん時に助成金が出てな。
公共の方が間に合わない分、民間の支援もある程度はしてるんだろうよ。
今も死体は増えてるからな」
ようやく、駅が見えてきた。
「あんた、どこに住んでるんだ」
「佳岡の辺りです」
「………なるほどな」
「どうかしましたか」
「いや、初日から死体に抵抗がなさそうだったんで驚いたんたが」
「佳岡に来たことが?」
「昔住んでたんだよ。あの時から治安はよろしくなかったな。
バラックかい?」
「ええ、その辺りに住んでます」
駅に着く。
彼も端末を持っていないのか、切符を二枚買っていた。
時刻表を見ると、あと15分程待つらしい。
「やっぱり、今も治安はよくねえのか?」
「今朝から死体を見ました」
教会の傍にあったものの事だ。
「そうか」
寂しそうにそう言った。
「この辺りは死体も銃も落ちてませんね」
「一応戸籍のある奴らが多いからな。 治安もそこまで悪くないし、市内の管理はされてるさ」
火葬場で働き始めて暫く。
今まで就いた職の中では1番まともだ。
危険も少ないし、賃金の不支払も無い。
お陰で食べ飽きた合成食品とはいえ飯には困らなくなってきたし、安物とはいえ妹に服も買ってやれた。
だから、この仕事が好きかはともかく、本当に有り難かった。
僕以外にも、僕みたいなやつが沢山あの火葬場で働いている。
時折僕より酷い毎日を送ってる人もいて驚くけど。
仕事の多さと、経営者、つまりリュクゼルの人柄のお陰で来た人間は大概採用され、辞めていく人も少ない、らしい。
僕より長く勤めてる人にそう聞いた。
少なくとも落とされたりクビになったのを見たことは無い。
「その腕時計、貰いもんなんだったか?」
「ええ。古い友人に」
「俺が若い頃でもつけてるやつはそういなかったな」
改札に切符をいれ、階段を登る。
「この改札だ切符だってのもこの国以外じゃもう見れねえだろうなあ」
他の国ではどうしてるのだろう。他の国見たことないしな。
ホームを見回すと、確かに時代を感じるような気もする。
少々の騒音を奏でて、ライナーが到着。
乗り込むと、貧乏人が多く、多少匂った。
………人の事言えないよね、僕。
空いていたテーブル席に座り、窓を軽く開ける。カバンを下ろした。
「お前は佳岡までだよな。俺は山園までだ」
彼は帽子を脱いで、向かいの席に座った。
「お前の2駅先だな。
暫く語り明かそうじゃねえか。………あ、おい、何笑ってんだよ」
「いえ、今日はよくお語りになるなと」
仕事中はかなり静かなのだが。実際の所中々おしゃべりのようだ。
意外に思ってたんだけど、顔に出てたみたいだね。
「ん………ああ、そうだな」
「? どうかしましたか?」
「そうだなぁ………」
暫く考える。
車体が揺れ、窓の外の街が加速していく。
「毎日あんな仕事してたらな、やっぱり考えちまうんだよ。
人は、いつか死ぬ」
「ええ」
ほんの少し、憂いを帯びた声。
「でもいつかは分からない。元から分かりきってた事ではあるんだがな」
溜息を吐く。
「だから死んじまう前に、喋りたいだけ喋っとくのさ。
死んだら語れねえからな」
「……成程、良い考え方だと思います」
「そうだろ? まあ、という訳で楽しくお喋りって訳だ。
女を見習おうじゃないか」
死ぬ前に人生楽しんどけ、って事か。まあご最もだ。
彼は最近の天候やら調子やらをひとまず話し始めた。
特に興味も無いが、それは話し始めた彼も同様らしい。
「そういえば、お前きょうだいはいるか」
直ぐに飽きて、別の話をし始めた。
「ええ、妹が1人」
ちゃんと家に帰っただろうか。
心配ではあるが、ライナーの時間は決まっている。
急ごうにも急げない。
「一緒に住んでんのか?」
「はい」
「バラックに?」
「はい」
「そうか」
「リュクゼルさんは独り暮らしですか?」
「いや、孫と2人だ」
「お孫さんですか」
「ああ。9つになる。
生意気な坊主だが何だかんだ楽しく過ごしてるよ。
まあ俺の今の生きる理由だわな」
「可愛いんでしょうね」
「いや、可愛くはないな」
そうなのか。
「おい、俺の話は良いんだよ。お前の話をしろ」
「僕の話ですか」
老いると若者の話を聞きたがるのだろうか?
普通自分の話をしたがるものと思ってたけど。
「ああ、そうだ。妹さんと二人暮らしなんだろ」
「ええ」
「そうだな………さっさと金貯めて引っ越せ。戸籍がないなら書類手続きは手伝ってやる。
今も危ないんだろ、あそこは」
「僕らでも住めるような安い集合住宅はもう満杯ですよ」
「そうだよなあ。社宅でも建てるべきなんだろうが……」
「そんな事出来る金有るんですか」
「ねえな」
全く、金で命を買わなきゃいけないなんて。
むごいなあ。
「どれもこれもどっかのバカがドンパチおっぱじめやがったせいだぜ、全く」
そんなありきたりな事を言うので、少し笑った。
…………でもそういえば、今のこの戦争はどこの誰が始めたんだろう。
分からない。
よくよく考えてみれば、これは異常だ。
「リュクゼルさん」
「リュクゼルでいい。何だよ?」
「この戦争って誰が始めたんです?」
尋ねると、驚いた顔をして、暫く考え込んだ。
彼も分からないのだろうか。
「そもそも、何故俺に聞く」
「やけにこの国がこの国じゃなかった頃についてお詳しいので。
その辺りも知っているんじゃないかと」
「ん………」
また暫く考え始めてしまった。
「お前、学校は行ってたか?」
もしかして常識なのだろうか。
恥ずかしい。
「行ってましたよ。義務教育って事に一応なってた国民基校に3年間」
「途中までか」
「アホ臭い教師が嫌でサボった日に、爆撃で校舎が吹っ飛びました」
「僥倖と言うべきか嘆くべきか」
「ええ全くです。あの教師生きてました」
「………良かったな」
軽く笑った。
「それで、学校がどうしたんです」
「一応今この国では、アメリカの核実験の露呈からこれ、つまり第3.5次世界大戦が始まった事になってる」
「それは知っています」
「何だ、知ってたのかよ」
「僕が聞いたのは共産二国の属国の建前じゃなくて、真実の方です」
「………俺が思想者じゃなくて良かったな」
「全くです」
溜め息を吐いて席にもたれる上司の姿は、夕焼けの光とあいまって寂しさを感じさせる。
「まあ何だ、今更思想だなんだを振りかざす奴もそうはいないがな」
「昔はそれでよく戦争になってたんでしょう?
金にならないのによくやりますよね」
「この戦争も最初の頃はそんなのが理由の1つだったらしいがな」
興味深い話だ。
「どれ、俺の知る限りの事を話してやる。
記憶が曖昧な所もあるし、真偽は保証しかねるがね。
まずアメリカが核で吹っ飛んだ、ってのは本当だ。
中立国のを含めた、複数の教科書に記載されている。
人口密集地を含んだ国土の約15%が灰になったってな。
だが核実験の結果かは分からん。
当時最大の国故に敵が多かったからな、何が起きてもそう不思議じゃない」
「共産のどっかでしょうか」
「どうだろうな。宗教関係のテロリストかもしれんし」
当時はそういうのも有ったのだろう。
少なくとも物心付いた時から、そんなニュースは聞いた事がない。
「宗教テロですか。時代がかってますね」
「これも当時はそうでもなかったのさ。
でも戦争の原因はこれじゃない。
むしろ戦争が勃発した結果こんな事が起きた」
「一経過に過ぎないと?」
「そうだ。
………ボグというのは聞いたことがあるか」
聞いた事の無い単語だった。
「いえ」
「簡単に言えば、無から有を生む機械だ」
「?」
「俺も最初、SFと違えたかと思ったんだが……………文献も気も違えちゃいねえ。
どうも事実らしい。
ゼロからエネルギーを生み、消費したとすれば精々時間くらい。
人類の過去からの叡知の結果たる科学を無に帰し、願いの集合たる宗教を亡ぼす、そういう代物だ」
「歴史の話をしていたつもりだったんですが………。急に疑似科学になりましたね」
「よりにもよってこいつを造っちまったのは当時のロシアだった。
これがどういう事か分かるか」
「分かりません」
だから勿体振らずに早く話を進めてください。
「考える気がないのか、分からないふりしてんのか知らんが。
アメリカはその存在を早い段階で察知し、技術の公開をロシアに求めた。
最初は内密に進められていたが、次第に情報は漏れちまった。
科学への不信と、宗教への不信。
世界中が混乱した」
「いまいち解りませんね。確かに人類史の上ではとてつもない発明ですが。
市民には大して関係無いでしょう?」
「最初はな。科学者が大騒ぎするだけだった。
だが、武装宗教勢力が動き出したんだ。アメリカを襲撃した」
「ロシアじゃなく?」
「『悪質なデマで神を冒涜した』……らしい。
ロシアが創造技術を産み出した、ってデマをな」
「怖いなあ」
「全くだ。
ちなみにそいつらは皆トカレフを持ってた、なんて冗談を当時のネットの書き込みに見付けて笑った記憶がある。
暫く経って、少しずつ市民に影響が起こり始めた。
ネットによってあらゆる感情、感覚が直ぐに拡散していった。
モノを創れるのは神だけ、って彼らの常識を脅かし、科学の邁進者は驚愕した。
後はもう少し分かりやすい。
テロ組織を匿っていて、かつ技術の隠匿によって世界の利益を損なっているロシアへ、アメリカは「人類の為に」侵攻した。
2020年代の話だな」
「国家ってのはどこもジョークセンスに溢れてますね」
面白い冗談なら良いんだがな、と彼は苦笑する。
「開戦2週間で、さっきの核爆発と電磁パルスによる無力化、アメリカは事実上滅んだ」
「血も涙もないな……」
「とはいえ、どちらもどこがやったのか、未だにはっきりしねえんだ。
さっきも言ったが、敵の多い国だったからな」
この辺り、今この国の学校ではどう教えているのだろう?
いやまあリュクゼルの言う事が正しいとも限らないんだけど。
主観によって見えるものが違うけれど、どの主観も信用してはいない。
なら結局、真実なんてはなから無いのかもしれない。
「その後、ロシアでは割りと直ぐに内紛が起きた。在留外国人と人道派と、政権の奪取を狙っていた党が結託したんだ。
それまで金が無かったり意思の統一やらが取れてなかったりで動かなかったEU諸国がその支援をした結果、国が分裂した。
今のナロードニクとレヴォリューツァだな。
片方はかつての農民運動を騙り、もう片方は改革を名乗った。
規模としてはナロードニク、旧ロシアの方が大きい。
軍事衝突は分裂初期に2度有ったが、その後から暫くは平和だったんだ。
意外な事にな」
「本格的に衝突し始めたのは僕が生まれるより前………2090年代前半でしたか」
「ああ。
それまでの間、ここも大きく変化していった。
日本からイポニアだかリーベンだかに、自衛隊から国防軍に。
核の傘を無くし、ナロードニクと亜連、お前の言う共産二国に実質の占領、分割されて、今は余裕が無くなって放置されてる
まあ共産なんて今になっては地域区分の名称でしかないがな。
実際の経済機構としては過去の遺物だ」
「暫定休戦地区ってやつですね」
「そうだ。
かつては北方と呼ばれた南クリルを除いて、この国では戦闘はほとんど起こっていない。
その南クリルじゃ毎日殺しあってて、葬りきれない分がわざわざ俺たちの所まで来てお客になるが。
さっき放置と言ったが、政治に干渉する暇すらないようでな。
議会にナロードと亜連の奴らが同席してはいるが、基本的には日本人による政治が行われてる。
文化もそれぞれのものが混じってはいるが、ある意味自然にそうなっただけだ。
文化侵略があったわけじゃない。
まあ、他国に攻め入ること自体自然じゃねえが。
それぞれの領地の取り合いとその後の分割を経て、地名に三国の言語が入り交じってる」
実に特殊な状況……なのだろうが、最早常識と化してしまい何のおかしさも感じなくなっている。
「2日前、偉大なる我等が同志は中人大にて、かの憎き蛮国への正義の鉄槌と、それを遂行する前線の兵士諸君への激励について述べた。
戦況は依然こちらの有利であり、愚かにも内紛などしている彼等に負けるはずな「2日前、亜細亜人民連盟の中央人民大会にて、丸々と肥えた豚のような党書記は我等が祖国に対し『これ以上の蛮行は許容する事など出来ないブヒ。今すぐに己が愚かさを猛省し、殺戮を止めるブヒ。ブヒィ』といつものよう」
朝聞いたのと反対に入れ替わるプロパガンダ。
「ちょうどですね」
「ああ、ナロード領に入った。幾ら何でもこれはバカバカしいと思うんだがな」
「日本領に入るとどうなるんです?」
「天気予報か芸能ニュースだな」
「……なるほど」
平和な様な、そうでないような。
「ま、以上が俺の知る話だ。どうだった?」
「………」
「どうした? おかしな所があったか?」
何だろう、この違和感は。
んー………
「いえ………何というか、分からない所は無い筈なのですが……」
「? 理解は出来るが納得が行かないと」
いつの間にか、彼がまとっていた夕陽は、闇に融けかけていた。
「ああ、そうだ」
「どうしたんだよ」
「そもそもの疑問が解決していないんだ」
「そういや何でこんな長え話してたんだっけ」
やっとスッキリした。
いや、まだしていない。
「結局、戦争を始めたのは誰なんです?」
「………そうだ、そんな話をしてたんだったな」
頭を掻いて、苦笑する。
「結論としてはだな」
どきどき。
「分からん」
…………。
「もう一回言うぞ、分からん」
「えー」
あんなに話長かったのにー。
「そんな嫌そうな顔すんなよ」
「してませんって」
「確かに拍子抜けかもしれないが………そんなものだよ」
「結論の出ない長話は尚更疲れます」
「長話に結論なんて求めちゃいけねえな」
笑っている。殴ってやろうかと思った。
「そういや、何で誰が戦争をおっぱじめたかなんて知りたがったんだ?」
「そうですね………」
考える。
心理としては酷く単純なものだ。
知りたがる、というのは好奇心だ。
だけどこれはそんな可愛いものでも無いよね。
そもそも、現状への怒りが有ったから、現状への疑問を彼に尋ねたんだ。
「丸ごと全部、誰かのせいにしたかったからですかね」
一種の逃避と言える。
無意味な事は言うまでもない。
「そうか」
陰の中、こちらを見つめて溜息を吐く。
「そもそも、この今はお前のせいじゃないだろ。
人生の中で、自分でコントロール出来る事なんかほとんどねえ。
どうしたくとも、どうしようもない」
「運命論ってやつですか?」
「そうだな………そうだ。大嫌いだがね、現実に他ならない。
だから、誰かのせいにしたって良いんだ。
全部自分のせいだと思い込む方がバカバカしい。
そんな悲観をする必要もないんだよ」
小さく、優しい声。
彼も僕も矛盾していた。
実に人間らしい。
「おっしゃる通りなのかもしれませんが……ですが、自分自身の選択と行動次第で何かを変え得ると…………運命は絶対じゃないと、そう信じていたい。
だから変えられなかった事を後悔する。
運命論では、後悔すら出来ない。
……何もかもどうしようもないから諦めろ、なんて方が余程悲観的だよ」
遺体から財布を抜こうとしていた人間がこんなことを言う。
だがそんな冷静な思考の前に言葉が出てしまったのだ。
リュクゼルは腹を抱えて笑い始めた。
「そんなに笑う事無いじゃないですか」
「いや、だってなあ…………」
笑い止むまでに約11秒。
「誰かのせいにしてえ、って言い出したのはお前なんだがな…………矛盾してやがるくせに正しい。
良いなあ、若いってのは」
「リュクゼルさんはおいくつでしたか?」
「もうすぐ64だ。お前は………21だったか」
「ええ」
「ん、そうか。お前は納得いかなかったみたいだが、一応俺は答えた。
だから次は、俺の話を聞いてくれや」
軽くうつむきながら。車体が少し揺れた。
「どうぞ」
何を話したいのか分からないけど。
あまり愉快な話ではないんだろうな。
「正直な、今のお前くらいか、それより下の世代を見てると複雑なんだ。
丁度新旧ロシア間が殺し合いに本腰を入れ始めた頃。
今じゃ過去の話だが、ここだって兵器の工場が増えたりなんだりで、新露の攻撃目標になってた。
どうしてこんな時代に、ガキを生もうとするのか。不思議で仕方ねえんだよ」
「そのガキに言います?普通」
「娘が孫を身籠った時、当然反対した。無理にでもおろそうかとも思った。
こんな時代に生まれて幸せになるのは難しい。
これ以上、エゴで不幸が増えるのを見たくはなかった。
………生んで良いはずがないんだよ。
死ぬために生まれるんじゃねえ筈なのに、産まれたら殺されるかも知れねえ。
気の狂ったエゴと銃弾にな。
だったら生まれてこねえ方がよっぽどマシだ。
今、本人がどう思ってるかは分からない。だが、母も父もいねえ上に障碍持ちだ」
「………そうでしたか」
「薬でおかしくなっちまったのが、家に来て引き金を引いた。
ちょうど俺が出掛けている時でな。
帰ったら血の海だった。
………孫だけ生き残ったが、利き腕と肺が1つ無くなった。
あいつと過ごすのは楽しい。
馬鹿なガキだが、いなけりゃとっくに俺は生きる意味を無くしてた。
大好きだ。好きで仕方無い。
だが、あいつが笑ってるのを見てると思っちまうんだ。
ホントに楽しいのか、って。
毎日がつまらなかったり、苦しくなかったりしないのかって。
生まれない方が良かったんじゃないのか、って」
既に生まれている人間に対してそれを思うのは、存在を否定するに等しい。
だが彼の発想は、感覚は、………苦しみは分からない筈が無かった。
全く以て同じ事を、僕も考えていたから。
「生きてて欲しいのに、生まれて欲しくなかった。明らかな矛盾だ。
今更考えたって何の意味もないんだがな」
『次は佳岡、佳岡。あと30秒で到着いたします。
お降りの際はお荷物をお忘れにならない様、お気をつけ』
「そろそろですね」
「ああ。悪いな、長話に付き合わせちまって」
「ライナーの運賃代わりという事にしておきますよ」
カバンを肩にかけて立ち上がる。
大して話した事の無い僕に、何故彼はここまで語ったのだろうか。
「気ぃつけて帰れよ」
「……リュクゼルさん」
車体が止まる。
ドアが開く。
「あまり、悩みすぎないで下さい。
貴方が苦しめば、お孫さんを不安にします。……どうか、どうか」
弱った人間を癒す言葉を、僕は知らなかった。
「リュクゼルでいい。有難うな」
ホームに降りると、風が冷たかった。
────────────────────────────────
「もうこんな時間か……」
ミナが貸してくれた本を携え夜道を歩く。
グレーなんかよりずっと綺麗な地面を踏む。
ミナ曰くランドグレーコートで覆われる前や、覆われていない場所の街並みを参考にしつつ街が作られているらしい。
恒星も宇宙も無いだろうに今日も星は遠くに光っている。
地球じゃなくても月が輝いていた。
並ぶ店々には、あちらの世界で見たようなものからそうでないものまである。
あまり外出しないので詳しくはない。
ただここに来る度に、かつての職場付近の繁華街を思い出してしまう。
あそこなんかよりここはずっと綺麗で良いところなんだけど、それでも僕の知る中ではあの街は1番大きなものだった。
あれが嫌いなわけじゃない。
でも、あれを思い出すと別の事まで思い出しそうになるのだ。
いやもう頭に浮かんではいる。
どうにか離れて欲しいけど、でもミナやエトラへ話すことはそれなんだ。
忘れたいのは変わらなかった。
けどミナは僕に話してしまったのだ。
きっと忘れさりたい記憶を。
客観的に見れば彼女の語った過去は僕のそれより陰惨なものだ。
それを語ったのだ、僕なんかと分かりあうために。
ライトアップされたレイリスタワーはゆったりと色を移ろわせている。
この前のレースで目印に使ったのが一番最近で、その前には……2人と一緒に行ったっけか。
窓も壁もない、柵すらないてっぺんから見る夜景はとても綺麗だった。
あっちの世界じゃどう考えても実現出来ない展望台だな……落っこちちゃうし。
あれはあれで綺麗だったけど、こうも街の灯りが強いと月と星が霞む。
いつかもっと田舎っぽい地区に行ってみてもいいかもしれない。
そう思うのはずっと月光と星くらいしか明かりの無いあのバラックで生きてたからかもだろうか。
あの世界はいつまでも汚いままだけど、晴れていれば空だけは綺麗だ。
曇っていれば残念だけど、その下にあるものほど醜い訳でもない。
あんな最低な世界でも、好きなところがあったんだな……
家に着く。
手をかざして鍵を開ける。
ノブを掴んで、誰もいないのにいつものように呟いた。
────────────────────────────────
「ただいま」
急いでドアを開ける。
闇の中に妹はいなかった。
明かりを点けてみる。それでもいない。
…………朝から、ずっと?
書き置きも置いてない。
何か帰って来たと思える様な、明確な変化もない。
脱ぎ散らかしたかのように、服が落ちていた。
よく考えると、朝僕が崩したまま出掛けたんだったっけ。
明かりを消し、家を飛び出す。
どこだよ、リエル。どこにいる、いるとしたらどこだ。
分からない。
ずっと帰ってきてないなら、何となくある程度離れている所にいるような気がする。
……やはり市場の方だろうか。
ひたすら走る。辺りを見回しながら。
不安で仕方が無い。
何で僕は妹を無視して出掛けた。
正当な理由はある。でもそんな風に思った所で、無意味だ。
何かが、或いは僕が僕を赦そうと今起きている事は何も変わらない。
…………また、失うのか。
あんなに嫌な思いをしたのに、どうして僕は忘れてるんだ。
愚かにも程がある。
市場までまだまだあるのに、少しずつ息が上がる。
体が重みを増していく。
………ああくそ、今日は本当に厄日だ。
朝からろくな目に会ってない。
一度息を整え、もう一度ランドグレーを蹴る。
「!」
衝撃。
何かに引っ掛かって、這いつくばる。全く、何なんだよ。
起き上がると、闇の中に黒光りする何かが落ちていた。これを踏んだのか。
拾い上げると、拳銃だった。
メーターに残弾数、最低出力で2発。光式だ。
何でこんな高等なものが落ちているのか。
………ポケットにいれて、また走る。
リエルまで、失いたくない。
過去には戻れないけど。今、この瞬間くらいは、この手で。
闇に慣れた視線を辺りに投げ掛けても、それらしき姿は見当たらない。
街灯くらい置けよ、クソ政府。
もう一度、大きく声を上げる。反応はない。
ならもっと奥へ。角を曲がり、橋の方に。
橋の下を見下ろすと、三日月を映す水面が風に揺れてるだけで、誰もいない。
………一応、降りてみようか。
踵を返して、河原へ降りる階段を下る。
結構長い。
踏み外さないように気を付けて降りざるを得ない。
一歩、二歩…………
川が空を鏡写しにして月光を放っている。
ここまで近づくと少しだけ明るい。
グレーで固められた河原の上におりて、辺りを見回す。
「………人影かな?」
丁度、橋の根元の辺りで、黒影が動いた気がする。
行ってみようか。土手に沿ってゆっくり歩く。
何だか嫌な予感がするけど…………それでも。
勘違いだったら、それで良いのだ。また市場の方に…………
やっぱりまただ。
水面から浮き、舞う光がそう見せているだけなのか。
もっと、近くに。
ふと、汗をかいている事に気付いた。……怖いのか。
何故だろう。
ただ家の無い人がそこにいついてるだけかもしれないのに。
闇への潜在的恐怖……とかそんなのじゃないはずだ。
「……!」
声だ。僅かに声が聞こえる。近付きつつ、耳を澄ませる。
…………男の笑い声と、…………荒い息。
不安が現実となっていく。息を潜め、足音を抑える。
…………音の中に、僅かに……女の声が交じって……
いや、そんな筈はない。まさかそんな筈は。
きっと僕の勘違いだ。きっとどっかの猿が盛ってるだけなんだ。
絶対に違う。
声が似ているだけだ。別人だ。あいつじゃない。
だから、こんなに震える必要はないんだ。
………それなのに、近付けば近付く程、漏れる声は妹を想起させた。
やっと橋の根元に辿り着き、影に隠れる。
奴らとはある程度距離があるけれど、声はさっきよりしっかりと聞こえていた。
男共の盛る声の中に、嬌声の様な、悲鳴のようなものが混じっている。
今、そこに有るものは何だ。
もし予想通りなら、………予想通りなら、どうする?
ふとカバンの中に、おあつらえむきにある銃を思い出す。
こいつで男達を撃ち殺すのか?
出来るのか、僕に? もしくは見守るのか? 逃げ帰るのか?
…………もし仮に、その通りだとして、彼女が望んでそうしていないと言えるのか?
レイプだって言えるのか?
まさか、彼女がそんな事………いや、俺がそう思い込みたいだけかもしれない。
俺は、あいつにろくな毎日を与えてやれてない。
不味い飯もそうだし、家にはまともなトイレも風呂もない。
思春期の青春どころか、家の中で働かせた。僕と違って学校なんか一回も行った事がない。
全部、金が無いからだ。だから、金が欲しくて当然だ。
十代の女なら、買いたい奴はいくらでもいるだろう。
でも、でもリエルがそんな事………
嫌だ、嫌だ。
認めたくない。
認めない。
そんな訳無い。
有り得ない。
勘違いだ、気のせいだ。
…………「じゃあ目の前のそれは?」
別人だ。
…………「どうして見てもいないのにそう言える?」
当然だ。
リエルは僕の妹だ。
…………「僕がリエルに何をしてやったって言うんだ?」
今まで全力で育てた。
このろくでもない世界で、必死に生きながら。
…………「それは、僕の言い分だ」
それでも、必死でやってきたんだ。
苦しくても、妹に幸せになって欲しくて。
…………「いくら努力したと、そう振りかざした所で、リエルにまともな生活をさせてやれなかったのは事実じゃないか。そして今、男とまぐわってる」
やめろ。
…………「それにいつも思ってるじゃないか。リエルは生まれない方が良かった、って」
そんな事無い、僕は………こんな時代じゃ………幸せになれないから…………
…………「違うだろ?
あいつさえいなけりゃもっと楽に、楽しく幸せに、生きていけたのに、って。
そう考えてるんだ、僕は」
ふざけるな、僕はリエルを愛してる。
「なら何で、妹をぶっ殺す夢なんて見たんだ?」
……
「それに、そんな事はどうだっていいさ。
愛してようが憎んでようが、僕は確かにリエルにいなくなって欲しいと心のどっかで考えてるんだ。
そしてそれが良くないことだって解ってるから、認めまいとして服なんて買ってやったりする」
そんな………そんなの………。
僕はそんな屑じゃ……
「僕は屑だよ」
………リエルが売女な筈無いじゃないか。
あのバラックのクソ女共なんかとは違うんだ。
きっとあそこで喘いでるのは、その淫売の誰かだ。きっと、絶対にそうだ。
困るなぁ、リエルと似たような声なんか出されたら。
あの女も殺すべきかもしれない。
「っ」
水滴。夜波の飛沫が跳ねた。
我に返る。
何だか意識が虚ろになっていたようだ。
何を考えていたのか、思い出そうとするけど出来なかった。
緊張しすぎているのかもしれない。
もう一度問い直す。僕はこの角の向こうを見るべきなんだろうか。
後悔しないだろうか。
…………何を言ってるんだ。
このまま確かめずにのこのこと変えるのか?僕は?
賢者になったつもりは無いけど……そこまで愚かになったとは思いたくない。
だから僕はこの角の向こうを、忌々しいの声の方を見つめなきゃいけないんだ。
カバンから銃を取り出して握った。
身体が震える、汗がにじむ。
風が吹いて、闇から闇へと顔を出した。ばれないように、少しだけ。
じっとそれを見る。
光と影、声。黒い影が傾いて、戻って。
その度に汚い吐息が漏れていた。
男が二人、女は一人。
三日月を写した水面が揺れていた。
僅かに目の前の光景が照らされる。
手前の痩せた男の手元が黒く光った。
拳銃のように見える。護身か、脅迫か。
………手元の銃を強く握る。
バレたら僕も撃たれるかもしれない。
奥の男は端末を横にして、背面を女の方へ向けている。撮っている様だ。
女の方は時折喘ぐだけで、他に何も喋らない。
だからリエルかどうか何て分からない。
でも、どうしてもその声はリエルを感じさせる。
もしそうなら今すぐにでも彼らを殺さなきゃ。
暫く観察してたけど、結局ここからじゃ全容は分からない。
もっと近くで確認したいけど、それも出来ない。
もう仕方が無いだろう。
「……ん、あぁ……………」
殺しちゃえ。
「…………」
水滴。
一粒、二粒。
今度は雨の様だ。
雲に月が覆われないまま雨粒が注いでいた。
頬から、体へ、さめていく。
体温が下がって、火が消える。
僕は何をしていたんだろう。
何を狂っていたんだろう。
手元には銃。
途端に怖くなった。
目の前にある状況も、どうかしていた自分も。
本当に撃とうとしていたのか。
目の前でセックスしてただけの人達を。
震える、竦む。
動けない。
妹を置いて逃げ出したい。
妹がいるから出来ない。
怖いから銃を捨てたい。
怖くて出来ない。
死んでしまいたい。
死にたくない。
殺したい。
出来ない。
愛している。
いない方がいい。
分からない。
分かろうとしない。
分かりたくない。
────────────────────────────────
「なあ、いいのか? ボクも聞いて」
「ん、ミナにだけ話すのおかしいでしょ?」
「ミナとお前は仲良くしろって言ったけどボクにまで」
「ミナだって、昔の事エトラに話してくれたんでしょ?」
「うん。昨日通話で……」
「エトラだけ仲間外れなんてミナも僕もしないよ」
「でもお前、あんまりいいたくないんじゃないのかっ?」
「あんまりね。
でもミナは話してくれたから……正直ね、僕のもあんまりいい話ではないけど、ミナほどじゃないんだ」
「ん……確かにすごい話だった……」
「怖くなかった?」
「恐怖よりも……もっと早く助けてやりたかったなって……」
「……」
「? どうしたんだっ?」
「いや、何でもないよ。……エトラは本当にいい子だね」
俯いて顔を隠す。
泣くところは見せたくなかった。
「子供扱いするなっ、ボクのが大人だぞっ」
「そうだな。僕よりずっと大人だよ」
「やっとわかったのかっ」
「いいや、分かってたよ。ずっと前から」
インターホンを押すとミナが応答した。
明るい声に導かれて中へ。
「いらっしゃ」
がばっとエトラがミナに抱きつく。
「ちょ、ちょっとエトラ、苦しいよ……」
「苦しかったよな……ミナ……ごめん……」
更に力が強まる。
「そうじゃなくて……た、たすけて」
「エトラ、程々にね」
「むりだっ」
体格差から、ミナは完全にエトラに埋もれていた。
「うー」
「エトラ、落ち着いて、ね?」
どうにかエトラが離れる。
年の離れた姉妹……と言いたいが、エトラは僕より大きい。
親子か?
「もう……びっくりした」
「ミナ……話してくれてありがとうなっ」
涙ぐんでいた。
「昨日何度も聞いたよ、エトラ」
「でも、でも」
「そんな焦らなくてもどこにも行かないよ」
「……うんっ! ずっと友達だからなっ!」
「ありがと」
またエトラがミナに抱きつく。
ずっと眺めていたいと、そう思った。
……何と言うか、こんな保護者じみた気持ちによくなる。
気持ち悪いことこの上ない話なんだろうけど……
エトラが顔を離してこちらを見る。
「何だ、羨ましいのかっ?」
「んーん」
答えてから、ミナを抱きしめるのがなのか、エトラに抱きしめられるのがなのかという問に至ったが、どちらにせよ答えは変わらない。
母性愛だか父性愛に近い何かだ。
「そろそろ部屋行こ?」
ミナが冷静な判断を下し、以前のこたつの部屋へ通してくれる。
今日はコタツはなかったものの、室温は丁度いい。
この前と同じように飲み物を入れてくれた。
今日はアイスココアじゃなく暖かいミルク。
夜中に飲みたい味がした。
「美味しい?」
「よく眠れそうな味かな」
「膝貸してあげよっか?」
「そうしてもらえっ」
何故エトラが推奨してくるのか分からない。
「馬鹿な事言ってないでさ、話す事話すよ。僕の昔の事」
「冗談言ったつもりじゃないんだけどな」
はいはいと流す。
「そうだな……どう話したもんか」
ホットミルクを一口啜る。
「イポニア、リーベン、或いは日本に住んでたってのは言ったよね」
「ええ」「うん」
「僕が住んでたのはスラムのような所だった。
生まれは普通の家だったけど、親がどっかに消えて妹と2人で貧民街に行き着いたんだ」
家で何度もしたように、記憶を辿る。
「その時僕は9で、リエル……妹は7歳だった。
父はそもそもいなくて、母に育てられてたんだけど。
今考えると古びて安っぽい所だったけど、遊園地に生まれて初めて連れて行ってもらってさ、一日中楽しく遊んで、ほんとに楽しくて。
2人で乗っておいで、って言われて妹と何かのアトラクションに乗ったんだ。
当時流行ってたキャラクターのだったかな? 2人で元の所に戻ったらさ、母がいないんだ」
エトラがもう泣きそうな目でこっちを見ていた。
早いって。
「探しても叫んでも母はいない。
その内さ、迷子センターに連れてかれて……それから色んな大人と話して……養育施設に引き取られた。
生活は一変して、不満が無いわけじゃないけどあとから考えたら全然ましな毎日を送れてた。
暫くはそこにいたんだけど……戦況が一変してね。
市街で戦闘が起こるようになった。
施設は機能を停止して、住むところが無くなったんだ。
必死に戦火から逃げて、そしてスラムに辿り着いた。
他にも孤児がいて助け合っていたからどうにかそこで生きることが出来そうだった」
思うと良く生き残る事が出来た。必死だったな、あの頃は。
辛そうなエトラに大丈夫と伝える。
「家を作るのも仕事を探すのも力を貸してくれた。
それでも市場のゴミを漁って飯を食うこともあったりしたけど……まあ外に水道は通ってたからね、喉が渇く事も体を洗えないことも無い。
世界的に見ればマシな方なんだろう」
「コミュニティみたいなものが出来ていたの?」
「まあそんなに大袈裟なものじゃないけど。
何かあると集まって話し合いなんかもしたな。
それからはずっと、妹とそのスラムのバラックで過ごした。
病気や事故で仲間が死んだりもした。
でも僕はたまたま運良くまともな仕事にありつける歳まで生き残ることが出来た。
いつか、他の仲間のようにスラムを出たいと思ってた。
治安も衛生も悪いのは事実だったしね。
少しずつ、ほんの少しずつだけど金を貯めて、まともな所で生きたいと思ってた。
ある日起きると、リエルがいなくなってた」
ここからか本題だった。
「探しても見つからなくて。でも仕事には行かなきゃならない。
きっとどこかに出かけてて、その内に帰ってくるだろうって思ってた。
仕事から家に戻ってもまだ居なかったんだ。
後悔した。
辺りを走って探した。
……橋の下で、男達とセックスしてた」
2人の顔を見ずに続ける。
「遊びたかったのか、金が欲しかったのか、脅されたのか。
そいつらの手には銃があった。
でもだからってレイプとは限らない。周囲への警戒かもしれない。
どうすればいいか分からなかった。
そいつらを止めればいいのか、見過ごせばいいのか、殺せばいいのか。
というか何で、今更こんな事でを動じているのかも分からなかった。
転がってる死体から金を盗もうとした事もあった。
そうでなくても金目のものを盗んで売ったことはあった。
ドラッグの受け渡しもした。
虫の湧いたパンも食べた。
紙が買えずに糞に汚れた尻を水を手につけて洗った。
今更妹がセックスしてたから何だ。大したことじゃない」
言いつつ、感情が増大していくのが分かった。
「それでも頭がおかしくなりそうだった。許せなかった。
だけど、目の前でセックスしてただけの人間を撃ち殺そうなんて思った自分も怖かった。
訳が分からなくてそのまま走って逃げた」
「そのあと、拾った銃でそのまま自殺した」
「屑だよね。
仮にレイプだったんだとしたら、辛いのは僕じゃないはずだし。
そうじゃないにしたって僕が死ぬ理由はない。
妹を置いて行っていいはずがない。
その後妹はどうやって生きる?
これじゃあのクソ親と一緒……いやそれ以下だ。
……それからここに来た。
昔の事を思い出さないわけじゃないけど、忘れさろうとしてた。
ま、君らがそれを許してくれなかったけど」
ミルクをまた一口飲んだ。
「まあこんなとこかな。
ずっと隠してたけど……話のスケールからするとミナよりずっと小さいよ。
ただひたすらに、屑なだけ。
話さなかったのは自分の悪性を晒したくなかったから」
話し終える。
逸らしていた目を2人のほ
「ぐわぁっ!」
飛びかかってきたエトラ。無理矢理抱きしめられる。
「ちょ、離して」
「ダメだっ!」
「ミナ、たすけ」
「だめ」
後ろに回ったミナからも捕まえられる。
「ごめんなさい。ありがとう」
「今日はもうずっとこうだっ!」
「は、な、し、て……」
苦しい。
特にエトラ、骨が折れる。
「ごめんな……お前は苦しかったのに、何にもしてやれなかったっ」
「違う、僕は救われる側じゃない、寧ろ」
「でも辛かったでしょう? なら癒されるべきよ」
「……罪を犯していてもか?」
「天国があったんだっ、もう罪とか罰とかなんてどうだっていいだろっ!」
そう、なのだろうか。
僕はゆるされてもいいのか?
「君を罰する人なんて、ここにはいない。ゆるされる必要すらない。
それでももし君が君を責めるなら。
私たちがゆるすよ」
エトラに頭をさすられる。
我慢したいのに、涙が止まらなかった。
「……っ」
嗚咽が出そうになって、慌てて抑える。
こんな風にされたのはいつぶりだろうか。
多分まだ母がいた頃だ。
暖かい。
とても暖かい。
ありがとうと言おうとしたけれど、声が出なかった。
________________
「泣きやんだ?」
「……ああ」
「そう、もうちょっと甘やかすのも良かったんだけど」
「そうだなっ」
「人を赤ん坊みたいに……」
「さっきまで美味しそうにミルク飲んでたじゃない」
「いれたのはミナだろ……」
「あ、ボクも飲んだっ」
「じゃあ2人とも赤ちゃんね。ほら、おちちの時間よー?」
「……」
「ミナに母性を感じた事はないぞっ」
「はっきり言うのね……」
左右からの圧迫からどうにか解放される。
お陰で1ヶ月分の体力を消耗した感覚だ。
女々しく泣いてるからだと言われれば否定はしない。
「寧ろボクのがおかーさんに向いてるぞっ」
「へえ、エトラが?」
半ば笑いながらミナが答える。
僕は薮蛇を警戒して肯定も否定もしない事にした。
賢い。
「お前ら2人ともボクのこどもみたいなもんだからなっ」
………へ?
奇怪極まりない言動に、ミナと目を見合わせる。
「ねえ、そうだったのかしら……?」
「僕に聞くなよ……」
「私たち2人ともエトラのお腹から産まれてきたのよ……?」
「ち、父親は誰だろうね……?」
「私に聞かないでよ……」
何だか知らないけどエトラは微笑みを浮かべている。
やめろ、その「やんちゃだけど大きく育ったね」みたいな目でこちらを見るな。
「辛い時とか、悲しい時とか、寂しい時とか、暇な時とか。
幾らでも甘えていいんだぞっ。ボクはお前らが大好きだからなっ!」
そう言って僕とミナの頭を優しく撫で始めた。
「……何だろう、私これでいい気がしてきた。ていうか、これがいい」
「僕も絆され始めてるよ……」
数秒後にはミナが「ママー!」とか言い出して抱きついていた。
もっと節度を持って甘えるべきだと思う。
茶番のようなことを続けていると、ミナがエトラの胸から顔を上げた。
「ねえ、所でさ」
「なんだ?」
「エトラはここに来る前、どうやって生きてたの?」
「そういや言ってなかったなっ。でも2人みたいな大した話は無いぞ?」
ミナを撫でて抱きしめしつつそう答える。
「ママ、教えて!」
完全にそういう認識になったらしい。
「えっとな、自分じゃわからなかったから役所に行って聞いたんだけど」
情報センターか。
「知能に障碍があったみたいでな? 車に轢かれて死んだらしいんだっ」
何てこと無いように言う。
反芻し、理解するまでに時間がかかった。
それはある意味で、僕やミナよりずっと重い話だった。
「ごめん」
「謝るなっ。お前らだって話してくれたろ?」
ミナはエトラに抱きついたまま固まっている。
彼女をそっと撫でながら続けた。
「他にもそういう人はいっぱいいるっ。
心とか、体とか。
どこからが障碍でどこからが一般的な個人差と見なされるのか分からないけど、ここでは生きてた頃の障碍が消えるんだ」
あまり詳しくはないが、どうもそうらしいというのは分かっていた。
義肢をつけている人や車椅子に乗っている人を見たことも無い。
「お前らはそういう反応するけどな、向こうにいた頃のこと正直あんまり覚えてないんだ。
障碍の関係なのかもしれないけど……ま、覚えて無いことをあんまり気にしても仕方ないだろっ?」
泣きそうになっているミナを更に強く抱き締めて、そう言った。
「だからさ、ここがあって本当に良かったなって思うんだ。
そうじゃなかったら、ボクはあれで終わりだったから」
微笑むエトラに寄って、抱きしめる。
「ちょ、おま」
「ごめんね」
許されるのか知らないが、衝動にかられてしまった。
向こうも僕をこうしたのだから許されるのかもしれないが……やっぱり男からはアウトだったりするのだろうか。
「んあ………っ」
見るとミナも黙って抱きしめていた。
「こ、こういうのはだめだ……」
「悪かった」
「あ……」
離すとミナが顔だけ傾けて抗議の視線を送ってきた。
エトラは何を思ったかこちらをじっと見つめている。
「えっと……」
小さな声で、名を呼ばれる。
「その……ごめん」
元の体勢に戻る。
「それでいいのよ」
ミナはそう言うがエトラは何も言わない。いいのか?
「んっ……」
エトラの声が漏れる。
今更、爽やかないい匂いがするのに気付いた。香水と言うには薄い、爽やかな香りだった。
……気持ち悪いな、僕。
「ところでさ」
「どうしたの?」
「私は抱きしめて貰ってないんだけど」
……そう来るか。
「確かにエトラのことは抱きしめなきゃダメだけど。
私はちゃんと抱いてって言ったのにしてくんないんだ?」
「へっ?」
エトラが先程と違う表情で固まっている。
ちょっと待て。
抱いてって……確かに言われたけどさ! 意味違うじゃん!それ!
「誤解を招く様な発言は慎んでもらえると……」
「誤解? 何が?」
「えっとその……」
「仲良くしろって言ったけどっ……お前らとっくに……」
抱き合いながら何て会話してるんだろう。
一旦離れる。
「エトラよく聞いて。やましい事は一切無い」
「ふーん。……なかったことにするんだ?」
「はーいやめ、この話やめ」
「いいんだ、お前らはもう大人になったんだもんな……子どもなのボクだけ……」
とんでもないこと言い出した。誰かどうにかしてくれ。
「じゃあ、はい」
ミナが両手を広げてこちらを向く。
……どうする?
いや、別にさっきと同じくすればいいんだけど。緊張する。
「いやかな?」
そう言われて、諦めて抱き寄せる。
エトラのとは違う香りが鼻腔をくすぐる。
腕や顔をさわさわとさすってきた。
「んー。何だろ、そんなにいい匂いじゃないんだけど、おちつく」
「あ、そう……」
「……そっかー。エトラはこんないい思いしてたんだ」
体をすりつけてくる。
なんかいろいろあたる。えっちい。
「ね、エトラよりおっきいでしょ?」
ごめんなさい、それは微妙。
「そろそろ離れて頂けると……」
「けちだねえ。ちゅーくらいしてもいいじゃん?」
こちらからだけ見える。
エトラが赤くなっていた。
以前までエトラの前でいかがわしい事は言うのを控えていたのだが。
何か心変わりでもしたんだろうか。
「思春期の少年には色々刺激が強いんだ、頼むよ」
「思春期なの? いつまで?」
「明日も明後日も思春期だよ」
どうにか離れてくれた。ほっと一息。
「エトラ、気持ちよかったね」
「なっ、べ別にそんなこと」
「顔真っ赤だよー?」
目の前でそういう会話をしないで欲しいな。
……やっぱミナはやらしい。
「仕方ないからエロゲの件は許してあげるよ」
「……そうだな」
「まだ覚えてたのか……」
「……幾ら待ってもお前から返信来なくて。正直、嫌われたのかもとかちょっと思ったっ」
……そこまで。
「ボクと関わらなきゃいけない義務なんかないけど……」
「ほんとにごめん」
耳元に寄ってくる。
「ミナにはそんな風にするなよっ」
「……もうエトラにだってしない」
「……そっかっ」
「あー、なんか2人でイチャイチャしてるー。私もー」
……良かったんだな、全部話して。
昔の事はずっと話すのを躊躇っていたけど、でも後悔は無い。
僕は本当に幸せだ。
好かれて、触れられて、受け入れてもらえて。
「ね」
「なんだっ?」「どうしたの?」
「今度、別のエリアに遊びに行こうと思ってるんだ。
はっきりと決めてないけど、ここより田舎で、夜は星と月しか見えない様なとこ」
「旅行?」「旅?」
「ん。3人で行きたいなって」
「どこに行くのかも決めてないのに誘うあたり、君も分かってきたじゃん」
「へ?」
「ボク海のあるとことかいいなっ」
「来てくれるの?」
「ボクたちに話した時点で1人で行けると思うなよっ」
「……そうだね」
良かった。
一緒に行けるのか。
「楽しみね。何で行く?」
「まずどこに行くかすら決めてないからなあ」
「ポートとライナーだけじゃつまらないし。リニアバイクとかエアムーバーとか」
「さすがに持ってないなあ」
「用意するよ」
「ミナ持ってるの?」
「んーん。いいの見繕って買ってもいいし、ご所望なら新型を研究開発させられるけど」
「ちゅ、中古でいいっ」
「そう?」
「レンタルでいいよ……」
「金持ちには甘えとくべきだと思うんだけどな」
「自分で言うんだ……」
「いくらあれば金持ちなのか分かんないし、私より持ってる人も沢山いるけど……でもそうね、2人が欲しがるものなら多分大体買ってあげられるかも」
「聞きました? エトラさん?」
「はい聞きましたっ! 嬉しいとかよりこわいですっ!」
「エトラさん、いいお返事」
「はいっ! エトラいい子ですっ!」
「君たちは何してるの……」
一緒にどこへ行こうか。一緒になにをしようか。
そんな話は本当に楽しかった。
でもきっとどこでもよくて、なんだっていいんだ。
二人が笑ってくれるなら。
明日を楽しみにしながら、今日を過ごせる。
明日だってきっと、明後日を待ち望む。
そうやって未来が続いてく。
────────────────────────────────
僕は一体何をしてるんだろう。
やるべきことがあったはずなのに。
走って逃げて。妹を見捨てて。
何故……僕は。
切れた息を整える。
顔の水滴を払う。肺が痛い。
暫く荒い息を続け、顔を上げる。
目の前に教会があった。
今日の朝、リエルを探しに立ち寄った廃墟。
ここまで走っていたのか。
月明かりに青白く染められたそれに、妙に吸い寄せられた。
近寄っていく。
半身だけの死体に雫は注いでいた。
扉の隙間から中に入る、並べられた長椅子に腰掛ける。
月光は建物の外側だけでなく内も照らしていた。
ステンドグラスが青く濡れ、白く瞬いている。
疲労が少し癒える様だった。
雨音が響く。
僕はリエルを助けなきゃいけない。
なのに何故、あの場から走り去って逃げたんだ?
それは狂った行いだ。
いや、そうだ。
本人が望んでやっているのかもしれない。
金か快楽か知らないが、セックス位するだろう。
そうだとしたら?
そうでないとしたら?
僕は屑だ。
妹は苦しんでいるのに。
自分が苦しいからって逃げたんだ。
いや、苦しいとは限らないんだったな。
自分でそれを選んだのかもしれない。
そんなはずは無い。
あれはレイプだ。
そうに決まっている。
リエルがセックスなんてするはずがない。
なら何故逃げた?
見捨てた?
妹が犯されているのに。
あの男たちをぶち殺してリエルを助けるべきだったはずだ。
いや殺していいはずがない。
それだけはしちゃいけない。
レイプよりずっと重い罪だ。
だがもしかすると売春だったのかもしれない。
金は欲しいだろう、仕方の無いことだ。
或いは単に、男とまぐわりたかったとしても何らおかしい事じゃない。
仮にそうなら別段引き留める必要は無いし、好きなように楽しませておけばいい。
そんな訳ない。
あれは強姦のはずだ。
リエルがセックスするはずがない。
だが彼女には娯楽も自由もなかったんだ。
そういうものを求めるのは当然だろ?
お前は何も与えてやれなかったんだから。
いや俺は必死に妹を幸せにしようとした。
その努力をした。
それで幸せにできたのか?
自己満足だろう?
本当はいなきゃ良かったって思ってるのに誤魔化そうとしたんだろう?
関係無い。
あれは犯されていただけだ。
彼女はそんな事しない。
リエルは俺のものだ。
気が付くと、雨は止んでいた。
月光は輝きを増していた。
リエルを絞め殺した夢を思い出す。
銃口を頭に当て、引金を引い
────────────────────────────────
「……ん」
目が覚める。腕時計を見ると朝6時頃。
20分ほど寝ていた。
最早不要な行為とはいえ、やはり眠りはひどく心地が良い。
机の上に昨日の砂時計。昨日と変わらず砂は昇っている。
……そうだ、返さなきゃならない本がある。図書館にでも行くかな。
戸棚を開けてみると乾麺も切れていた。
カップにパウダーとミルクを入れてとく。
氷を何個か入れて、アイスココア。美味しいけれどミナのほどではなかった。
鞄に本をまとめて、外へ出る。
朝焼けがレイリスの街を照らしていた。
薄明を穿つように、今日もタワーがそびえている。
変わらぬ街もこの時間に出れば神秘的ですらあった。
こんな早くに出かける事はあまり無いけれど、ある程度の店と公共施設はやっているはずだ。
橙色の床石を図書館へ向けて歩く。
ポートやライナーを使ってもいいけれど、せっかく世界が綺麗なのだ。歩いてもいいだろう。
履き潰した古靴は良く馴染んで、これ程歩きやすいものもない。
街にはもうそれなりに人がいた。
概ね皆朗らかな表情で、それぞれの人生を歩いていた。
普段自分が家に籠っている間も世の中は動いているんだなとか、そんな事を思う。
彼らの人生も世の中もその多くは僕の人生とは交わらない。
けれどそれでも、確かにあって、それは世界となって僕を有している。
遠くに見える線路の上をライナーが駆けていく。
これにもある程度人が乗っているようだった。
彼らはこれからどこに行って何をするのだろうか。
こちらに来てから人の営みを好むようになった気がする。
以前に比べればだが。
散歩を終え図書館に至る。こちらにはほとんど人がいない。
まあ物理媒体の図書を好む人間も余りいない。
館内には熱心に小説やらを読み耽る人が僅かにいた。
がらがらの返却コーナーへ本を置く。
……よく考えたらポータブルポートで転送すれば良かったような。
借りるのはともかく返す時まで来なくても良かったかもしれない。
近くにあった新聞を抜き出して手に取ってみる。一応今でも発行はなされているのだ。
向こうでは現物を見た事は無かったが。
目次から何枚かめくってみる。
あまり事故も事件もないこの世界だ。
どこかの店の飯が美味いとか、劇的な誰かの人生だとか、天気予定だとか、あまり目を引くものは無かった。
唯一、人工陽システムの値引きが書かれていたのが有意義なニュースだった。
コラムはそれなり。
記事の三分の一を過ぎたあたりで、何か雰囲気が変わった。全体的に彩度が落ちている。
「……ん」
どうやらあちらの世界の事が書かれているようだった。
端末からあちらの世界や自らの知人友人、家族までどうなっているのか見れる事は知っていた。
身の回りの事はともかく、大きな範囲のことは新聞にも掲載されているらしい。
内容は戦争の激化が主だった。
人死が増えるのは、一般的に好ましい事じゃない。
ただその一般は、もう既に覆されてしまっている。
新聞を閉じて図書館を出た。
空の青は柔らかく色を変え、陽の光も和らいでいた。歩く人々はさらに増えている。
あとは買い物だ。
たまには外に出て自分で買い物するというのもいいだろう。どうしても引きこもりがちだからね。
近くに店はいくらでもあるけれどどこに行こうか。
個人の商店から大きなスーパーマーケット、或いは市場。選択肢は多い。
レイリスはそんな感じだが他のエリアはどうなのだろうか。
金銭が生存そのものに不要になった事から、逆に一種の趣味として店を開く人達がそれなりにいる。
休みも多く、開店時間も長くは無いことが多いが。楽しいんだろうか。
……個人商店という語からあの胡散臭い男を思い出してしまった。
あまりはずれを引きたくないな。市場にでも行ってみようか。
近くのポートからなら一瞬だが、たまにはライナーに乗る事にする。
ライナーは待ち時間や移動時間、小回りなどどれをとってもポートの方が優秀なのだが、移動そのものを娯楽とすることが出来た。
観光に来た人はよく乗っているそうだ。
駅までの道のりを歩く。
民家から店から公共施設まで、色んなものがあった。
優しく彩られた床石や屋根、街灯、看板、ライナー、街。
人。
普段そう出歩く訳じゃない。
ただそれらがやけに魅力的に映って仕方ないことがある。
何故かは分からない。
家にいることも一人でいることも嫌いじゃないし、寧ろ好きなのだ。
勿論一般的にこの世界は良いところだが、それだけじゃない。
その理由は僕の中にあるような気がする。
通りすがった公園で移動販売車がドーナツを売っていた。ミナが食べていたやつだ。
車には「どうなっつ?」と書かれている。
気の抜ける駄洒落だがお菓子屋にはちょうど良さげかもしれない。
僅かに列が出来ていたが、まあ散歩には甘いものだろう。
列の後ろに並んで待つ。
メニューを見ると移動販売にしては多くのメニューがあって、どれも値段は一緒だ。
確かミナは「プレーン。プレーン以外認めないわ。焼きたてのやつね」と言っていた。
次第に列が短くなっていき、自分の番が来る。
「レモン&メープルソース下さい。あ、ダブルカカオチョコレートも」
「温かいの? 冷たいの?」
「もちろん冷たいので」
値段が同じなのにプレーンを頼むのは愚かだ。あとお菓子は冷たい方が好き。
「まいどありー! あ、プレーン1つおまけね。
あったかいやつだけど」
どうやら食べる運命にあるらしい。
袋のどーなっつを手に下げて駅へ歩く。
やがて辿り着くと、目的の電車はあと3分のようだった。
ドーナツを一口。
「……んっ」
メープルの甘みとレモンの酸味がここまで合うものとは……これは発明だ。
2、3個買っておけばよかったな……
ミナにメープルレモンの美味しさを語るメッセージを送信する。
プレーン教から改宗してもらおう。
2つ目に取り掛かる前にライナーが目の前へ停車した。
市場へは2駅先。
ライナーに乗るのは久しぶりだ。ここ何ヶ月か乗っていなかった気がする。
人はそれなりにいるが、座ることが出来た。
窓の外に移るレイリスの街の眺めは心落ち着くものだ。
僅かにライナー特有の走行音を鳴らしながら、線路を駆けていく。
風景も同様に流れていって、それはやはりポートでは得られない何かだった。
新しく出来たらしい映画館が目に入った。
そういえば映画も長いこと見ていない。彼女たちと何か見に行きたいな。
ライナーが停車して、メロディが扉の向こうから聞こえた。
駅から流れるこれも味わい深いもので結構好みだ。
何か、旅のテーマの様なそういったものを感じていた。
そうだ、珍しく出かけたのだから2人やハウンに何かお土産でも買っていこうか。
エトラにはあの砂時計のお返しもしないといけない。
怪しい男の店の怪しい品物だが、ひたすらに美しい事は確かだったし、それにエトラがくれたものなのだ。
それは本当に嬉しい事だった。
再び停車し、車両を降りる。
構内に入るとあの駅よりも大きく様々な施設が併設されているようだった。
弁当や惣菜、お土産なんかが多いようだ。
先程ドーナツを買ったばかりなのだが、また何か食べたくなってしまう。
駅そのものではないようだけど、大きな商業施設が構内から直通になっている。
どうやら服屋がメインのようだ。まあそちらはあまり興味はない。
駅構内の弁当屋なんかは見て回ってもいいのだが、先に買い物を済ませてしまおうか。
半ば迷路になっている駅を抜け、外へ。出口からすぐ近くに市場が見えた。
業者だけでなく個人も出入りする市で、今日も盛況のようだった。
……よく考えたら、乾麺なんて置いてあるだろうか。色々売ってはいるけれど。
とりあえず中を見ていこうか。
市場の入口には何かよく分からないキャラクターのモニュメントが飾ってあった。
あまり可愛くは無い。
「いらっしゃい! 安いよーっ! 安いよーっ!!」
様々な店が大きすぎない声を上げている。大きすぎてもダメなのかもしれない。
どれ、パスタと土産とを探すとしようか。
店の連なりを見回しながら通っていく。
多くの客と店員で溢れていた。
市というのは基本的に食材を取扱う店が多い。魚介や肉、野菜など。
しかしそのどれもがエテリアである以上、ある意味全てエテリアの店なのである。
つまり「エテリア安いよ〜」とか「高級エテリア」、「特上エテリア」「100年に1度のエテリア」ということだ。
目に付いた魚屋は氷の上に刺身のパックを乗っけて売っていた。
しかし、この刺身もエテリアである。腐りもしないのにわざわざ冷やす必要があるのだろうか。
氷を1つつまみ上げてみる。
ひんやりとしているが何か不思議な感じだ。
なんだろう、これ……
「あんちゃん、気になるかい?」
「へ?」
「それ、溶けないんだよ」
「あっ」
氷なら触っていれば融けて水になっていくはずだ。
でもこれはどれだけ触っていても融けない。
「エテリアなんです?」
「そうなんよ」
「でもなぜ?」
「使いまわせるからな!」
納得のいく理由だ。
「エテリアは腐らねえし、冷やす必要なんざないんだが。
やっぱ氷の上が1番見栄えがいいんだわ」
「なるほど」
店主は客に呼ばれて向こうへ行った。
魚屋以外にも肉や野菜、菓子や雑貨と多くの店が賑わっている。
その後暫く見て回っていると、普段の安い乾麺とは違う生麺が置いてあった。
僅かに値がはったが、いつも同じ味のパスタを食っているのだ。
麺くらい違うものを使ってもいいだろう。
幾つか買って鞄につめた。
あとはお土産と……何か面白いものあるかな?
「……ん?」
背中に衝撃。
「あ、ごめんね」
小さな女の子。ぶつかってしまったみたいだ。
「そっちは大丈夫?」
「はい」
「良かった、気を付けてね」
言ったそばから少女は走って去っていってしまった。
大丈夫だろうか。何を急いでいるんだろう。
その子の走っていった先に視線を向けると、大きな看板が目に入った。
『オメガ この先』
……ああ、なるほど。余程欲しくて走っていったのか。
にしても、あの歳の子がオメガを。
オメガ、いわゆるドラッグだ。
エテリアの一種らしく、多幸感と高揚感をもたらす。
他の歴史上のドラッグと決定的に違う点は副作用がほとんどない点だった。
絶対的な依存性を持っているが使用による身体機能の劣化、精神汚染は確認されていない。
ただし1度摂取したならば、二度とそれなしでは生きられなくなる。
使用後2週間を過ぎたあたりでひたすらにオメガを欲するようになるらしい。
現状、オメガの再摂取以外にこれの回復手段は無い。
家族が摂取を無理矢理辞めさせようとした結果、殺人や自殺が起きたケースもあったと聞く。
これを致命的な「副作用」とした相当数の国々はオメガを禁止した。
がしかし定期的な摂取が可能ならば何ら問題は起きず、かつ製造も個人レベルで可能なほど容易だったため実際に検挙はされない地域が多かったそうだ。
既に服用者が増えすぎていたから、という理由がいちばん大きいかもしれない。
それに仮に捕まえても、結局オメガを服用させなければならないのだ。
オメガという存在については大きな議論が巻き起こった。
依存性以外に身体への悪影響が無い点において酒や煙草、生活習慣病を招く過剰な糖分や塩分、油分よりも安全と言え、それら栄養分や水といった必須物の数がひとつ増えただけで何ら問題は無いという意見すらあった。
また、その他のドラッグの排除策へなり得るとも。
転じて、この世界。
『衝撃のアッパー感! リキッドオメガ、新パッケージで登場!!』
死も怪我も病気もないここでは、オメガは依存性を発揮しない。
ただひたすらに、快感のみがあるらしい。
気分の高揚や多幸感はあっても、正気を失うことは無い。
2週間を過ぎても禁断症状は無いが、服用をした多くの者はそれを継続する。
薬の服用によって快楽を得る、という構図から忌避感を覚えるものが多いが依存性も副作用もない以上、酒や煙草、自慰や性交と何ら変わらないのだ。
端末のネットワーク上で誰かを非難して快楽を得るより利口である。
それでもああも小さい子が使っているとなると少し驚きもするけれど。
……ふとあいつの顔がよぎる。思い出しても仕方がないのに。
とにかく、あとはお土産か。
しかし何がいいんだ? 難しいな。
何をあげても喜んではくれそうだけど、やっぱり本当に喜んでくれるものを贈りたい。
問題はそれが何なのかなんだけど……苦しいね。
その上持ち合わせもあまりないと来ている。
彼女たちやハウンが好きな物を全く知らないわけじゃない。
だけど、そればかり贈るのも何かつまらない気がするし。
うーん……別の機会にしようかな……
もっとポイントがあるときに……
様々な店があって色々な品物があるけれど、どうも何をあげようか決めかねる。
良さげな雑貨の店もあったけれど少々手の届かない値段をしていた。
人混みを抜けて、仕方なく市場を出た。
結局お土産は見つからなかったな。お返しもしなくちゃなのに。
モニュメントは変わらず気の抜ける姿をしていた。
台座には「まーたん」と書かれている。
そんな名前だったのか。まーたん……マーケット?
ぼんやりした笑顔は、そこまで市場の売上に貢献していなさそうだ。
……ん?
眺めていると、開かれた口の奥に何か突起があるのに気が付いた。
ボタンか? 押してみる。
カコン、とカプセルが口から出てきた。
開けると物理メディアが入っている。
僕の端末なら読み込めるはずだ。差し込んで中身のデータを開く。
……『まーたんのおこづかい帖』?
中身を見ると、どうやらこのレイリスの市場の決算報告のようだった。
なんだ、これ? 何でこんなものをここに……
あれ、総データ量とお小遣い帳のデータ量に差があるな。
何か他にデータがあるはずだ。
スクロールして中身に目を通していく。
半分を過ぎたあたり、よく見ると小遣い帳に1つ空欄があった。
周囲の数字から記せるものだ。
これを入れてやればいいのか? しかし、何故そんな仕掛けを?
市場のモニュメントにこれを隠しておく意図がそもそも分からないのだが。
計算して記入すると、今まで見えなかったデータが出現した。
どうもやはり、これで当たりらしい。
何なんだ、一体。
『アンチエーテル研究報告書』
アンチエーテル? 聞いたことがない。
だが、こんな書類があるということは多分存在しているのだろう。
中身は素人がちらっと見て理解出来るものではなさそうだった。
しかしその名称から何か不吉な響きがあるように感じた。
とにかく、詳細は帰ってゆっくり見ることにする。
市場を離れようとすると、ちょうど端末が震えた。
『わたしにもどーなつちょーだい!』
ミナからだった。お土産、これで良かったようだ。
「あれ?」
遠くに見た顔がいた。ヨーコさんだ。
近くにはエイスケさんと……
そうか。あの人、言い出せたのか。
2人と共に、レイモンさんは歩いていた。
いや、もしかするとただ仲良くなった彼と一緒に買い物でもしてるだけなのかもしれないが……
それでも親子は共に歩いていた。
彼等がこれからもずっと一緒にいられるかは分からない。
何かふとした拍子に喧嘩でもして別れてしまうかもしれない。
それでも再び共にいられる事は優しい事だった。
声をかけるのは躊躇われる。
また幼い幻想を頭に浮かべたまま、僕は彼らを見送った。
でもきっと大丈夫だ。
これから先、彼女たちは僕の隣にいる。
共に歩ける。この楽園で。
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