20031221―旅の終わり―
「君か」
その作業場は、燃えるように暑かった。入り口に立つ気配を感じて、アイニゲは鉄を打つその手を止め、振り返った。首にかけた布で汗を拭い、一度作業を完全に中断する。
魔王の居ない平和な世界で、剣を打つ必要はもう無い。彼が創るのは、日常的に使う、一般的な刃物。人々の生活に必要な、包丁であり、斧であり、鎌である。代々伝わってきていた家紋は、今も証として彫り込んでいる。
自分が、この世界に生きる証として。
「僕が誰かわかるということは、やっぱり君は記憶を保っているんだね?」
旅人、だった。その青年はこの暑い中、季節感のないローブを頭から被り、表情の見えない顔で静かに尋ねた。戸口で待つ彼の元に、アイニゲは悠然と歩いて来る。
「……捜したよ、アイニゲ・リアルカスタム」
アイニゲは、彼の横を通り過ぎ、そのまま背を向けて歩き出す。太陽が高い。しゅわしゅわとやかましいまでに鳴く蝉の声を聞いて、アイニゲは少し顔を顰めた。手をかざして空を眺め、一度大きく伸びをした。
「付いて来な」
旅人は、その声に、黙って従う。作業場の裏手に周り、木々の間に延びる一本の道に足を踏み入れる。陽光を切り取る木々が、風を受けてさわさわと揺れた。
「聞こえるか?」
前を歩くアイニゲが、振り向きざまに訊く。日に焼けたその顔と、よく発達した二の腕は、以前の彼と比べ物にならない。旅人は小さく微笑んだ。
質問の真意が、彼にはわかっていた。
「聞こえないよ、僕には」
「君を歓迎している」
「……それは光栄だ」
その道は、決して平坦ではなく、しかも曲がりくねっていた。どうやら、木々の間を縫って踏み固められた獣道であって、整備するつもりが全く無いらしい。足をあまり高くまで上げない歩き方のせいで、旅人は何度か躓いた。
「……ここに来たのは、君だけなのか?」
全てを憶えているアイニゲは、残りの二人がこの場にいないことを訝しんだ。年齢の良くわからない美人の女と、生意気なほどに理知的な少年が一緒にいたはずだったが。
システム管理者を、裏切った三人。
「ユドリフマーカスは、死んだまま戻って来なかった。ヒューズは、たぶん、元の世界で暮らしてると思う。けど、僕には、元の世界が、無いから」
旅人、ユリウ。
あるがままの世界になった結果、そのどこにも居場所の無い、人間。黒幕の妄想から生み出された、最初のシステム管理者。
消されてしまっても、おかしくはなかった。
「でも、僕は消されなかった。気付いたらこの世界にたった一人で居た。……記憶も、残っていた」
「それで、俺を捜していたわけか」
進むに連れて、蝉の声が、少しずつ静かになっていく。
「三年、かかった」
「何せ、人目を避けて暮らしているからなあ、俺は」
くくく、とアイニゲが笑う。ユリウも、その背中を見て笑う。
「あの時」
声のトーンが突然変わる。
「何もわかっていなかった俺は、世界の歓喜の歌声を聞いた。世界の勝利を知った。だが、ありのままの世界が再構成されるその段になって、根本的な問題が生じた」
蝉の声がやむ。辺りは恐ろしいまでの静寂に包まれ、道を行く二人の足音だけが響き、木々に吸収されるように薄れて行く。ほんの時折、風が木の葉を揺らす。
「システムを、完全に否定することは、出来なかったんだ。システムは世界の一部であり、世界はシステムの一部だったから」
「…………」
視界が、突然開けた。森の中に広がる、それは泉だった。太陽の光を跳ね返す水面には波一つなく、静寂の包み込むそこは、あたかも神聖な社のようだった。
いや、泉は泉だった。だが――
ユリウは、声を失ってその光景に惹きこまれる。鏡面のような泉の真ん中に、艶やかな裸身を晒した半透明の女性が立っていたのだ。その背からは、大きな純白の翼が伸びている。女神、という言葉がユリウの頭の中を巡る。
アイニゲが立ち止まり、泉を背に振り返った。
「そりゃ、システムを全否定して辻褄を合わせることは、簡単だ。システムが無かったらどうなっていたのか、ちょっと考えて、そのシナリオ通りに世界を変えていけばいいんだから。でも、それだとやってることがシステムと同じだ。……世界は、迷っていた」
泉に浮かぶ女神は、穏やかな表情で、まるで眠っているかのように目を閉じていた。
「君には、『世界の姿』が見えているようだな」
ユリウの視線の先を辿って泉の中央を見やり、アイニゲが肩を竦めてみせる。
「俺は、一度世界を裏切ったせいで、目を潰してしまった。声は聞こえるけれども、姿は見えない。君は、俺とは真逆なんだな」
そう言われて、ふと目を凝らせば、周囲の木々の一本一本に、うっすらと半裸の女性が生え出ているのに気付いた。彼女らは互いに何事か言葉を交わし、時折くすくすと笑いながら優しげな瞳でこちらを見る。そのたびに、さわさわと木の葉の揺れる音がする。
ユリウがきょろきょろと落ち着き無く周囲を見回していると、
「君がそんな風にフードで顔を隠すものだから、彼女らは気にしているのさ。基本的に、美しいものに目が無い」
試しにフードを下ろしてみた。ざわざわと一斉に木々がざわめいて、その根元の方で乙女達がはしゃいでいる様が見える。アイニゲはにやにやと笑っている。
ユリウは再び顔を隠す。少し、頬が赤い。
「それで、世界は結局どうなったんだい?」
誤魔化すように、話を本題に戻す。アイニゲはそのままの表情で、
「なーに、簡単なことさ。俺は、世界の背中を押してやったんだ。誰一人として傷つかずに、皆が幸せに暮らせるような世界になれ、と」
「だが、そんなのは理想に過ぎない。全員が幸せになるなんて、そんなことは――」
「不可能、か。それは、そうなんだろうな。最大多数の最大幸福。きっとその影で何人もの人間が、満足の出来ない死を迎えてしまうんだろう。たぶん、システムってのも、その無念や執念が凝り固まって出来たものなんだとは思う」
「そうさ。誰かの幸福の裏では誰かが不幸になる。世界は、そうやって帳尻を合わされて回っているんだから……」
アイニゲが、不適な笑みをより一層深いものにした。
「だからこそ、世界は、もう、帳尻合わせをしない。辻褄も合わさないし矛盾や歪みも全て容認する。ただし、誰をも見放さない。俺は、世界にそう頼んだ」
「そんな――」
ユリウが絶句する。
「だって、馬鹿な! シナリオを書いていた僕にはわかる。そんなことをすれば、積み重なった問題のせいで、世界はひび割れ、やがて崩れるぞ! あの時のシステムのように!」
「……そんな風に、見えるか?」
「――え?」
アイニゲが、泉の真ん中を背中越しに見る。自分では何も見えないが、しかし何かがいるらしいその場所を。
「君には、そこの世界が、そんな風に見えるか?」
ユリウは、はっとなってもう一度泉に浮かぶ女性に視線を戻した。穏やかそうに眠る、その表情。ひび割れてもいない、崩れてもいない。美しく柔らかな姿で、そこに在る。
「…………」
アイニゲが、静かに続ける。
「システムは、世界が人々を見放すように仕向けた。一つの世界から弾き出し、何度も何度も世界を渡らせた。そのために生じた矛盾や綻びが、システムが滅んだ理由だと思っているみたいだけど、仮に辻褄が完璧に合っていたとしても、システムは滅んだだろう。世界は人々を必要とし、人々は世界を必要としている。世界は、誰もが思っている以上に強く、そして弱い。全てを容認しながらそれでも回ることが出来るが、その反面非常に脆く崩れ易いんだ。システムは、間違っていた。人々は、自分で世界を回して行くことが出来、そしてそうしなければならない。なればこそ、世界は人々を見放さない。まあ、なんだ、つまりわかりやすくシステム風に言えば――」
ユリウには、その瞬間、世界の声が聞こえた気がした。
「『生きとし生ける者の世界』だ」
システムも無い。
黒幕もいない。
ただ、世界に住むありとあらゆる全ての生き物が、自分で世界を回すのだ。
いくら失敗しても、世界から弾き出されることは無く、黒幕に粛清されることもない。
どんな歪みも過ちも問題も矛盾も、世界は見逃さず、見放さず、穏やかに回り続ける。
だからこそ、ユリウも、ここにいることが、出来たのだ。
安寧の日々を享受出来るのだ。
涙が、一筋だけ目尻から流れた。
アイニゲが、眩しそうに蒼天を見上げる。
「……平和だろう? この世界は」
ユリウが、小さく、だが力強く頷く。
この世界がこれからどうなっていくかは全くわからない。だが、それでもいいのだ。今、世界は平和であり、きっと多くの人が幸せに生きている。不幸な人もいるだろうが、世界は彼らを見放したりしない。生きとし生ける限り、自らの運命を切り開く機会を奪ったりはしない。本当にこの世界が正しいかどうかはわからない。ただ、仮に間違っていたとしても、あの頃の世界よりは余程良い。
それだけは、確かだ。
さわさわと、木々が囁く。
世界は、きっと皆に語りかけている。喩え、聞こえていなかったとしても。
女神は泉の上に立つ。
世界は、そこに在る。誰もが手を伸ばし、触れられるその全て。
ざわめきが一層強くなる。蒸し暑さを吹き飛ばすような一陣の風が通り抜け、ユリウのローブの裾を揺らした。水面にさざ波が立ち、女神の長い髪もふわりと踊る。
白い羽根が、女神の翼から一枚だけ舞い上がる。
透明な空気の中、半透明のそれがゆっくりと落下していき、泉の上に静かに着水する。
波紋もなく、ただゆらゆらと漂い、そして空気に混じるように掻き消えてしまう。
目には見えずとも、確かにそこにある。
世界に溶け込む、微かな幸福の徴。
そして、ユリウは今、ここにいる。
ほんの小さな偶然で、それでも世界の必然で。
――
世界は今日も回る。
回され続ける。
――
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