20031220―システムの終焉―

 つう、と真っ白な世界に亀裂が走った。壁紙の隙間から刃を入れるように、無造作に空間を破って現れたのは、三人の人間だった。

 黒幕にとっては、どれも馴染みの顔だ。

 黒幕は迷わずに発砲した。

「お前が、黒幕だな?」

 ユドリフマーカスは、それだけを相手に尋ねた。飛んできた銃弾は、ヒューズが能力を使って弾き落としている。目立った武装も何も無く、しかしこの三人は強気だった。

 元システム管理者。

 黒幕は、何度も引き金を引いた。すぐに銃弾が尽きて、かちかちと撃鉄が弾かれる音だけが空しく響く。

 この場所で、既に何かがあったらしい。黒幕の左頬は、目の直下まで何かに抉られたように大きく削げており、赤黒い肉が露出していた。引き攣れたような跡があって、おそらく凄まじい熱で溶け焦げた傷なのだろう、血が流れていない。そして黒幕の足元には、背中を丸めて横たわり、右手を伸ばして絶命している一人の女性の姿もあった。今もまだゆっくりと広がりつつある、床の赤が生々しい。

 視線を少し転じれば、離れたところにも血の海と肉の塊が転がっている。体の半分以上を欠いた女性の瞳が、茫洋と白の世界を映している。

 今、この世界は揺らぎの中にある。黒幕の作り出した、いわば黒幕のための世界。何処にでもあって、何処にも無い。システムを超越する、黒幕の特権的能力。

「黒幕……黒幕、そうだ、黒幕だ」

 低く響く、しかし確かに女声だった。左頬を欠くため、ひどく曖昧な発音になり、聞き取りにくい。かろうじて見えているらしい露出したその左眼が、唯一人の人間を凝視している。話し掛けているユドリフマーカスのことも、両手で薄青いシールドを展開しているヒューズのことも、黒幕は無視した。

 よろよろと、足元の遺体に蹴躓きながら、無防備に、もう一人の方へ近付いてくる。

「ユリウ……」

 黒幕の、その瞳から、涙が流れる。

 声をかけられた方、フードを被った青年は、思わず目を逸らした。痛々しそうに、その顔が歪む。黒幕は、一歩ずつ、歩を進める。ユドリフマーカスとヒューズは、顔を見合わせてから、頷いた。黒幕のために道を開け、パターンDまでを全て開放し、その時に備える。ユリウと、黒幕が、向かい合う。

「ユリウ……語りの、ユリウ……」

 黒幕。

 そして、世界のシナリオを全て担っていた、文筆家。

 その姿を見た時、黒幕は全てを失っても良いと思った。こうして、彼が自分の元に戻ってきてくれたという、それだけで、自分は自分でいられるのだ。

 裏切った、と思っていたが、その確証は無かった。まだ、無かったはずだ。

 裏切ったと思わせておいて、相手を陥れる作戦かもしれない。構って欲しくて少し問題を起こしてみただけかもしれない。全てが自分の勘違いかもしれない。

 黒幕は、そのほんのわずかな可能性に縋った。

 何故なら、そこに、ユリウは居たから。自分の所に、来てくれたから。

 後ろ向きな、希望を求めた。

 あの時のように。あの、何の希望も無かった最期の瞬間に、自分の前に来てくれたように、今、ユリウは同じ格好で、ここに立っているのだから。

 ああ。

「ユリウ、ユリウ、俺は、今、求めてもいいのか? あの時の約束の通り、お前の申し出に従って、初めて、今、初めて、なあ、ユリウ、俺の望むように俺のシナリオを、書いてくれと、そう、言っても構わないのか?」

 拳銃が、手から零れ落ちる。滂沱のごとく涙を流し、黒幕は錯乱しながら希望の星に手を伸ばした。ユリウは立ち止まったまま、ぴくりとも動かずにずっとそこにいた。相変わらず、目を逸らしたまま、正面に立つ黒幕の姿を視界に入れようとしない。

 黒幕の手が、ユリウの両肩にかかった。みしみしと軋みを上げそうなほどに、掴みかかる、細腕。あの時とは違う理由で細い、その腕。

 女の腕。

 ユリウが、顔を顰める。痛みに耐えるふりをして、歯を食い縛る。

 黒幕の心から、完全に終幕に対する覚悟が消失する。抉られた頬で、剥き出しの歯で、傾いだ笑みを形作り、ユリウに迫る。

 依存。『語りのユリウ』というその存在に対する、紛れの無い依存。

 絶望も、虚無も、裏切りの痛手も、全て知った気になっていた。だが、全ての黒い感情の下に隠れていた、希望という名の更なる闇。

 泥沼化する混迷の中、黒幕のシナリオは紡がれる。

「幸せに、暮らしたい。本当に、それだけで、良い。人並みに、誰かと結婚して、子供を産んで、育てて、それから、その子が大きくなるのを見届けて、愛する人に看取られて静かに息を引き取りたい。些細な、ことだろう? なあ、ユリウ、お前なら、こんなシナリオ、簡単に、書いてくれるだろう? 生みの親である、この、俺の頼みを、聞いてくれるだろう?」

 見開かれた瞳に、正気の色は無かった。

 それはシステムで無く、ただの妄想だった。世界で最初にどこかの奴隷が考えていたものと同じだった。

 覚悟も何も無い今の黒幕は、しかし抜け殻も同じ。そして、向かい合うその相手も、黒幕が望む『語りのユリウ』などではない。

 既に、それは亡いのだから。

 ユリウが、恐る恐る、正面に顔を向けた。見るも無惨としか言えないその相貌と向かい合い、語る。

 否。

 

 全てを終わらせる、嘘を吐く。

「悪いな。……僕には、君が誰か、わからないよ」

 そう告げて、肩に乗る両手を振り切り、背を向けて遠ざかる。きっと一瞬の後に、猛攻撃が仕掛けられるはずの、その場所を。

 黒幕は、その格好のまま、動いていなかった。

 これ以上狂いようのなかった回路が繋がり、涙すら止まる。闇よりも暗く虚無よりも白い何かが、体中を覆い尽くし、脱力すら許されないまま現実を叩きつけられる。

 破られた約束。

――それでも俺のことは、忘れないで欲しい。

 忘れないで、欲しい。

 消えた。本当の裏切りだった。

 よすがを手折られた。自分を支える者の不在。

 絶望?

 虚無?

 裏切りの痛手?

 何の感慨すら、持つことは出来なかった。何かを考えられるということは、その裏でその何かを受け入れる覚悟があるからなのだ。その瞬間の黒幕には、何もなかった。

 絶望も、虚無も、裏切りの痛手も――

 もちろん希望も。

 だが、それが、幸いした。

 黒幕とは何であったのか、打ち捨てた覚悟とは何であったのか。雷光のようにその思いが黒幕の脳内を走り抜け、空っぽの心に容易く入り込んだ。

「ユリウは、消えた」

 黒幕が呟くその声に、当のユリウの背が震えた。

 そしてユドリフマーカスとヒューズが、その全能力をもって、黒幕に攻撃を放った。

 黒幕が、全てを思い出した時には、全てが遅かった。

 どんな攻撃があったのか、黒幕は把握できていなかった。舞いを踊るかのように体が翻弄される。凄まじい衝撃であちらが吹き飛び、鋭利な何かでそちらが切り裂かれ、爆風で全身が宙を舞う。血達磨になって身悶えつつ、だがしかし笑う。

 ユリウは、消えた。

 裏切られた。

 前に進むしかないのだ。本当に。本当に。

 やはり、黒幕として、生きるしかないのだ。

 ユリウは、消えた。

 そこに、いるのに。

 ユリウは、消えた。

 ならば殺せ、俺を早く殺してくれ。

 絶対に絶対に絶対に、新しい『語りのユリウ』を、現出させてみせるから。

 そして、今度こそ、今度こそ――

 ?

 攻撃が、突然やんだ。床に叩きつけられて全身に走るその感覚は、既に痛みという言葉で括るには手に余る代物だった。『痛み』としか認識しえないのであるならそれは、自らの身体感覚への冒涜だった。

 思わず叫び声を上げた。多少はその苦しみが緩和された気もしたが、錯覚に違いない。

 とどめを刺せ。

「整ったみたいです、準備が」

 ヒューズが、あの忌々しい超越者が、そんなことを呟く声が聞こえた。三人とも、既に視界の中にはおらず、目線を動かせるほどの力は、今の黒幕には残っていなかった。

「……後は、あいつを信じるしかないわけか」

「大丈夫。彼は、本当の意味で強い」

「……ああ、そうだな」

 何の話をしているのか、黒幕にはさっぱりわからなかった。

 そしてそのまま、闇に引きずり込まれるように黒幕は一度意識を失った。もう二度と戻ってこられないかもしれないと思って、それだけが少し怖かった。こんな中途半端に死んでしまったら、意志を継ぐことなど到底出来そうになかったから。

――

 ユリウが、黒幕の使っていた拳銃を拾い上げた。どこに持っていたのか、弾倉に一発だけ銃弾を詰め込んだ。

「……お別れですね、ここで」

 ヒューズが、少し悲しそうに言った。

「……そうだな」

 深刻そうな顔で、しかしユドリフマーカスに不安の色は無かった。

「これが、俺の責任の取り方だ」

 そして、ユリウから拳銃を受け取る。

「……やっぱり、銃が一番楽なんだろうか」

 自らのこめかみに、銃口を突きつける。ふう、と一度溜息をついた。

「……やりましょうか、私が?」

「いや、お前は、手を汚さない方がいいだろう。これくらい、一人で出来るさ」

 死ぬ。

 元々、決めていたことなのだ。黒幕が死んだ時に『ユドリフマーカスの雑談』が消えていなければ、意志が引き継がれ、そして『語りのユリウ』を復活させられてしまう恐れがある。現在のユドリフマーカスはシステムの管理者を辞めているつもりだが、何せシステムの根幹を成すシステムである。念には念を入れておいた方が良い。システムとその管理者は一心同体。しっかり、消えておいた方が良い。

 ユドリフマーカスが死ぬつもりだと言った時、二人とも「自分も一緒に」と随分ごねたが、最終的には折れた。ユリウは『語りのユリウ』を完全に返上して出てきたことが確認されているし、ヒューズは『警告のヒューズ』の管理者である前にシステムの超越者である。死ぬ必要は無かろう。これ以上、無駄な悲劇を見ることは正直遠慮したかった。

 犠牲者は、自分で最後にしたい。

 いや、違うか。

 黒幕が自分の後で、死ぬ。

 本当の名前を知らない、今はルイという名前らしいこの女。

 ユリウはぎりぎりまで、黒幕の正体について教えてくれなかった。ユリウを仲間にした一番の理由は、早い段階で黒幕の正体を聞き出せると思ったからだったのだが、その目論見は外れていた。裏切ってもなお、強い絆が、そこにはあったのか、それとも……。

 犠牲者。被害者。

 黒幕も、その中の一人に過ぎないのかもしれない。

 歪んだ閉鎖システムの口火を切らされただけのただの人間。

 そう言う意味では、一番の加害者は、自分だ。

 歪んだ閉鎖システムを作り出した人間。

 本当の黒幕は、自分なのかもしれない。

 システムを破る。

 自分の力だけではどうしようもないと思っていた時期もあったはずだ。だが気付けば、破られるためのシステムを構築していたのは自分だった。

 自己矛盾。それこそが、システムの本質。天城が気付かせてくれた、それ。

 システム破りの最大の功労者にしてシステムの創設者。

 ユドリフマーカスの自己矛盾。

 もう、どうでもいい。過ぎてしまったことだ。今から取り返せる。

「この後は、わかっているな? 万が一ゴズドラムが黒幕になるようだったら、済まないが、すぐに手を打ってくれ。天城に話を聞けば、対策を考えてくれるだろう。そしてもし、システムがこのまま消えるようであれば――」

「……アイニゲ・リアルカスタムの元を訪ねて、世界の声を聞く。世界が元のように歩き出したか確認する」

「運良く記憶が残っていれば、ですけどね」

 その言葉に、ユドリフマーカスが苦笑。

「記憶が残ってない方が、幸せだろうさ。それこそが、あるがままの世界なんだから」

 ユドリフマーカスは、銃のグリップで頭を掻いた。

「そういう、何でもない幸せを、思う存分楽しんでくれれば、それでいいさ」

 以前、ヒューズが本気でシステム側の人間として活動していた時期に、ユドリフマーカスはそのシステムに巻き込まれた。

 まさかあの時は、協力してシステムを打倒する関係になるとも思っていなかったし、システムの基礎を構築するのが後の自分であるとも思いもしなかったはずだ。ただ、あの時から、基本的に自分は何も変わっていないと思う。記憶ではなく、知識としてしかその状況を知らないため、自分のことながら断言は出来ないが。

 自分が自分であることは、世界を渡っても、記憶を書き換えられても、何をされても変わらないのだから。

 たとえ、死んだとしても。

「ま、言い残すことはそれくらいだ。じゃあな」

 最期くらいは、笑って死にたかった。自分では笑ったつもりだった。かちゃかちゃと震える指先と、どうしようもない恐怖のせいで、きっと泣きそうな顔になってしまったに違いない。それも、ある意味では自分らしいかもしれない。

 引き金は、思ったよりもずっと軽かった。

 何故か、銃声が自分の耳にも届いた気がした。

――

 白い世界が塗り替えられて行く。ヒューズとユリウはそれを見届けてから、その場を辞した。松倉天城の道場に向かうつもりだ。

 一人の少年が何かに導かれるようにここを訪れるのは、もう少し後の話である。

 放課後の学校は、どこか神秘的だった。

――

 システムの、終焉。

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