20031219―死の世界―

 仰向けに倒れているキルトカルテット順路変更担当にも、それは見えた。黒幕が右耳を押さえながら何事かをぶつぶつと呟くと、マイゼルグラフト警備主任の屋敷が飴細工のようにぐにゃりと曲がった。そのまま渦を巻いて景色が溶けていき、残ったのは何も無い真っ白な世界だった。少しだけ覗き見た世界の裏側とは、また違う。マイゼルグラフト警備主任の屋敷、いや、世界そのものが、そのまま無色に塗り替えられて、自分達だけが浮き彫りにされているような、そんな感じだった。純然たる白の中で、撒き散らされた赤はとてもよく映えるだろう。あいにくと、身体が動かせないため確認は出来ないが。

 そのままの位置関係で、テリアハムラフィ罠設計担当が黒幕と対峙する。対象物が何もないため遠近感の狂いそうな空間で、小さな黒幕が宙に浮きながらこちらに足を向けたように見える。

 再生は、間に合いそうに無い。不死種族の中でダントツの落ちこぼれであることが今更悔やまれる。不死種族で最も再生の速い者は、一呼吸の間に全身をくまなく再構築できるのだ。キルトカルテット順路変更担当は、だが、細胞一つ一つに対する支配力が弱すぎて、小さな怪我ならまだしも、致命傷レベルの怪我となっただけでこの有り様である。生きているだけ、ましなのかもしれないが。

 あの時。

 ……あの二人は、最期まで戦い抜いた。一瞬のことだった。背筋を凍らせるような不気味な気配が突如湧き上がって、身体を掴まれる様な感触が確かにあった。どこかに引きずり込もうとする次の動きに反抗するため、キルトカルテット順路変更担当は『絶の波紋』を使おうとしたが間に合わなかった。そこで迷わず別の力で自分の胴体を自ら切り捨てた。脳が痛みを理解するより早く、激痛はそこに厳然と降臨した。喉からは声にならない叫びが漏れた。虚空へと消えていく胴体を見送りながら、彼女の残された首から上は、ゆっくりと床に向かって放物線を描いて落ちて行った。それだけで、戦いは既に終わっていた。どさりと、重い物が崩れ落ちる音が連続して、後はゆるゆると赤い液体が広がっていくだけだった。

 あの二人は、最期まで戦い抜いた。瞬間的な判断で、世界を渡ることよりもこの世界で死ぬことを選んだ。それは諦めたのではない。生を投げ出したのではなくて、ここにしがみついたのだ。この世界で生きたという、その証を確かに残したのだ。結果、彼らは肉体の大部分を奪われながら、逝った。奴らに魂までは渡さなかった。それだけの話だ。

 死を賭して、彼らは世界に伝えてくれた。この世界の、異常を。

「あなた、全部知ってたのね?」

 テリアハムラフィ罠設計担当が、思いの外落ち着いた声音で訊いた。キルトカルテット順路変更担当には、それを見守ることしか出来ない。黒幕が、一瞬だけ足を止めて、少し笑った。近付く足取りに、迷いは無い。

「あなたこそ、全部知ってたんでしょう? あれほど忠告したのに、それでもここに来るなんて、相変わらずね、テリア……」

 言葉にはしかし、彼女の迷いがありありと浮かんでいた。そこにいたのは、完全にルイだった。テリアハムラフィ罠設計担当は、特に何も言わなかった。

 ただ、強く拳を握って、黒幕の方へと歩き始める。お互いが無言のまま、手の届く距離まで近付く。白の闇に浮かぶように向かい合い、少し体を開いたテリアハムラフィ罠設計担当が、相手の顔面に向かって拳を突き出した。ごきり、という嫌な音が僅かに聞こえ、ルイがバランスを崩して倒れる。

「あなたが…………!」

 小刻みに、テリアハムラフィ罠設計担当の背中が震えている。握り込む指が、遠目から見ても明らかに、妙な風に曲がっている。その足元でテリアハムラフィ罠設計担当を見上げる黒幕は、表情を消して俯いている。殴られた頬か、あるいは鼻の辺りを押さえる。

「全部、嘘、だったの?」

 拳を手元に引き寄せてさすりながら、テリアハムラフィ罠設計担当は縋るような声で尋ねた。涸れ果てていてもおかしくない涙が、再び込み上げてきたのだろうか。鼻を啜ってから咳払いを一つ挟む。

「全部、あなたの――」

 パン、と乾いた音が響き、テリアハムラフィ罠設計担当が、声を失って倒れた。唐突だった。ルイの右手に何かが構えられており、わずかに白煙を上げている。

 テリアハムラフィ罠設計担当は口を大きく開き、膝を抱えて丸くなっている。わずかに蠢くことしか出来ない。喉に詰まるような呼吸と、目尻からぼろぼろと零れる大粒の涙、そして露出した細い足を伝い落ちる血液。激痛に抗う。覚悟とともに伸ばされた右腕はしかし宙を掻く。ルイが一歩遠ざかり、右手に持つ拳銃をもう一度かざした。

 キルトカルテット順路変更担当にも、それがいつ取り出されたのかはわからなかった。ただ、あの乾いた音の瞬間に、その銃から弾丸が凄まじい勢いで発射され、それがテリアハムラフィ罠設計担当の膝下を貫通したことだけは明らかだった。

――逃げて。

 声は、届かなかった。届いたとしても、それがなされたとは思えなかった。

 拳銃がテリアハムラフィ罠設計担当の体に向けられた。そしてルイの人差し指が引き金にかかり、躊躇無く折り曲げられる。

 パン。

 テリアハムラフィ罠設計担当の身体が、跳ねるように動いた。背中側から、小さな弾丸が血と一緒に服を突き破って飛び出してきた。それでもなお必死で伸ばそうとする右手が、震えながら静かに沈んで行く。

 ああ。駄目。

 さらに容赦の無い三発目が、放たれようとしている。ルイの顔には、殴られて腫れ上がった傷痕があるだけで、憐憫や同情の想いは浮かんでいない。

 そこに、躊躇は無い。やはり、迷いなど、ない。

――動いて。

 キルトカルテット順路変更担当の体に、力が込められる。だが、まだ左腕すら全て再生していない。下半身など全く間に合っていない。起き上がることすら出来ない。体を支える機構が根本的に戻っていない。

――動いて。

 血液が、沸騰するかと思った。ざわざわと揺すられるように、細胞が血溜まりの中からエネルギーを吸い上げる。だが増殖は間に合わない。

――もっと!

 能力を、使う。

 角が充血する。頭が真っ白になる。視界が狭まって、その中心に小さな凶器を持つルイの姿が拡大される。そのまま意識が飛びそうになる。再構成されたばかりの細胞が端から剥離して行く。それでも集中する。

――まだ!

 スローモーションのように、全てが見える。ルイの右手がそのトリガーを引く様も、自らの足りない体の中で練り上げられた能力が、角の先から噴き出そうとしているその様も。右目の血管が切れた。毛細血管が破裂し、爪の間から血が流れる。呼吸をする暇は残っていなかった。そのお陰で、痛みで悲鳴を上げずに済んだ。そんな無駄なことに意識を割かずに済んだ。力を解放する。矛先は一人の女。

 ぷつん、と脳のどこかで何かが切れる音がした。

――暁の暴走。

 それが、その技の名前だった。だからどうということもない。凄まじい速度で放たれた白熱球が、それだけで相当量の被曝を免れ得ないガンマ線を撒き散らしながら、ルイの顔面に突進する。

 パン。

 音が、聞こえた。キルトカルテット順路変更担当は、それだけを聞いた。『暁の暴走』は、何の音もたてずにその超高熱で相手を溶かし殺すはずだった。狭くなった視界に、酷く残酷な光景が映っているような気がするのだが、それがどういう状況なのか、把握することが出来ない。不思議な、感覚だった。確かに見えていた。見えている。だが、視覚が認識に結びつかない。そこで行われていることが、どういう状況なのか把握出来ない。どこか、致命的な大脳の機能をやられた。

 パン。

 もう一度音がして、額に何かが突き刺さって、頭蓋を割って脳の中にめり込んで来る異物を感じた。

 キルトカルテット順路変更担当の思考が止まった。


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