20031218―在りし日の平和―

 誰が何と言おうと、それは心温まる穏やかな風景だった。

 一般的に、春として知られている季節だった。その世界では全然別の名前で呼ばれていたし、そもそも季節という概念など存在さえしていなかったのだが、そういう把握の出来る時期的背景だった。枝先に小さな桃色の花を山のように咲かせる木が沢山生えていて、その五人はそれを見るために丘を上ってきたのだ。丘の上は広場のようになっていて、同じ目的でやって来た人たちでごった返しており、酒を飲む者、舞を踊る者、詩を吟ずる者、と、各自思い思いの楽しみ方で時を過ごしていた。

 平易な言葉で著せば、お花見である。

 風が吹くたびに、小さな花びらが雪のように舞い降って来る。

 手作りの昼食を詰めた容器を抱えたまま、テリアは思わずその様子に見惚れて足を止めた。その花に正確な名前は無く、ただ誰かが何かの折にサクラと呼んだので、その呼称がこの丘に来る者の間では公然と使われている。

「姉さん、何をやっているのか? 早く行かなければ、はぐれてしまうのではないのか」

 後ろから、大きな瓶を何本も抱えたゴズドラムが急かす。相当重いはずだが、顔色一つ変えずに、ここまで持ってきたところは、自分の弟ながら流石としか言いようがない。

「わかってるわ。でもまさか、こんなに混んでるとはね……」

 慌てるように、足を進める。

 ちょっとした、流行だった。去年のこの時期に、この丘に咲く綺麗な花の下に集まった若者達が、酒を飲んではしゃぎすぎて倒れ病院に担ぎ込まれたり、決闘を始めて警衛兵に通報されたりと、乱痴気騒ぎの末に街での話題を全て掻っ攫って行き、あたかも感染するかのように、丘に足を運ぶ者が激増した。時期を外すと、桃色の花は全て散っており、何の変哲も無い緑の葉が生い茂る木々が出迎えてくれるだけであることが判明したせいで、去年に花を見逃した者達が、今年こそはと勇んで乗り込んできているのだ。

 とはいえ何を隠そう、テリア達もその口なので、文句を言える立場でもない。

「仕方ないさ。もう少し行った先、ヘビが出るという噂のせいで誰も近付きたがらない所がある。そこならきっと空いているはずだ」

 人垣の向こうから、長身を活かして平然と返事をしてくるのは、先頭を歩く桂だ。背中に括られた鞘が周りの人から恐れられており、彼の周りだけ若干空間があいていた。

「えええ、ちょっと、待ってよ。私、ぬるぬるしたもの好きじゃないんだから! しかも、ここのヘビって猛毒持ってる奴でしょ! 勘弁してよ……」

 大げさに驚いているのは、シャーリーである。桂と腕を組み、仲睦まじく歩いているのは良いとして、何の荷物も持っていないところが少し腹立たしい。桂も何も持っていない点では同じだが、用心棒的な役回りが強い彼は、剣だけあればそれで許されるような雰囲気があった。

「大丈夫、どんなヘビだって、桂がやっつけてくれるでしょ。そのためにいるんだから」

 軽口を叩いているのは、残りの雑貨を一手に担って運んでいる、ルイという女性だった。弟の話にはよく登場していたが、テリアが実際に彼女を見るのは今日が初めてだった。弟に聞いていた通りの、明るく面倒見の良さような人だったが、会ってすぐなのにまるで旧知の仲のように話し掛けてくるその人懐こさに、テリアは愛想笑いを返すしかなかった。

 弟の、女友達。

 浮いた話のまるで無かった弟に、まさかそんなものがいるとは思わなかった。桂の彼女であるシャーリーを家に泊めている、という情報は何度も聞かされていたが、ゴズドラムとも仲がいいのだとは、正直知らなかった。

 余計なことだとは思うが、姉として、非常に気にかかる。

 お互いがお互いをどう思っているのか、詮索したくて仕方ないのだが、そんな無粋な真似をして、良い雰囲気の二人の関係にひびを入れる羽目になるのが怖かった。

 ――ま、なるようになるでしょ。

 テリアは、そんな風に割り切って考えることにし、雑踏の中で桂の背を追う。

「……平和よねー」

 呟くように、ルイが空を見上げながらそんなことを口にした。

 ぬける様な青空にアクセントをつけるよう、ぽつぽつと真っ白い雲が浮かんでいる。そして、それを遮るように視界の両側を塞ぐサクラの枝と桃色の花。

 羽根のように舞う、花びら。本当は桃色なのに、白く淡い。

「平和、か。現実に立ち返れば問題は山積みでも、今だけはのんびりと幸福に浸るのもいいかもしれないな」

 ゴズドラムが、抱えている瓶のバランスを取り直しながら言った。瓶同士がぶつかる音が、耳に障る。

「あんたねえ……もっと、前向きにこう、本気で楽しもうとか思わないわけ……」

「思っている。だからこそ今だけはのんびりするのもいい、と言ったのではないか」

 テリアは、やれやれと首を振り、思わず笑みをこぼした。

 たしかに、平和だった。

 確かに、桂は相変わらず両親の仇を探して毎日飛び回っていたし、シャーリーの記憶もまだ戻ってきていない。ゴズドラムもテリアも、決して真っ当な職業に就いているとは言えないし、国の情勢を見ても、未来は極めて不透明だ。

 それでも、今、この時だけは、平和だと、テリアは確かに思えるのだった。

「この先、右に曲がるよ」

 桂が、指を差して方向を確認しながら、皆に告げた。そこは、広場から少し離れるような向きで、まさに咲き誇るサクラの木々の間を縫って進むような感じになった。頭上を覆う花のせいで、多少周囲が薄暗く蔭るほどだ。

 さすがに、人通りはかなり減った。テリアは少し急いで、前を行く桂とシャーリーに合流した。ゴズドラムとルイも付いて来る。

「その、ヘビのいるらしいところも混んでたらどうするの?」

「……先客を追い払えば問題ないさ」

 背中の剣の柄に手をかけて不敵に笑う桂に、皆が肝を冷やす中、

「冗談に決まってるだろう」

 当の本人は至って真面目な顔でそう言い放った。シャーリーが、文字通りほっと胸を撫で下ろしている。

「でも、まだまだこっちに行く人もいっぱいいるし、私達の目指してるところに、誰もいないってことはなさそうよ」

 ルイは背中のザックの位置を修正しながらきょろきょろと辺りに目をやった。こちらと同じ考えなのか、それとも何も考えていないのか、そこそこの数の人間が同じ方向に向かって歩いている。正面から歩いてくる人の姿もあった。

 テリアは、地面から露出して張る太い根に足を取られぬよう注意しながら、

「本当にヘビでも出てくれれば、きっとみんな一目散に逃げてくれるのに――」

 と、次の瞬間、大勢の人間の悲鳴が突如響き渡った。そして、向こうの方から死に物狂いの形相で駆けて来る人々が、五人の真横を通り過ぎて行く。

「大蛇だーー! 大蛇が出たぞーー! 逃げろーー!!」

 そう叫ぶ男の声が聞こえて、何があったのかわからず立ちすくんでいた周りの人々も、顔色を変えて散り散りに走り、逃げ惑い始める。

 期せずして仲間達全員の目が、テリアに集中した。期待というか、賞賛というか、尊敬というか、それでいて多分に負の感情も込められたその視線に、

「わ、私は何もやってないってば……」

 言い訳をする子供のように、小さくなって弁解する。勿論本当に何もやっていない。

 悲鳴と怒声はやまず、逃げ惑う人々の群れの向こうから、ちらりと確かに、巨大な何かが垣間見えた。

「おい、あれ……!」

 いち早くそれに気付いたゴズドラムが指差す先、木々の隙間を縫うように首をもたげて、人間一人を丸呑みにするヘビの頭が見えた。

「うわあ、何あれ、気持ち悪!」

 シャーリーが、全身の素肌に鳥肌を立てて気味悪がっているが、その気持ちもわからないではなかった。何しろ、それは本当に大蛇だった。頭だけで人間と同じくらいの大きさがあり、胴体の太さもぱっと見た限りではそこらのサクラの木に勝るとも劣らない。

「……ねえ、桂、あんなのがいるところで私達お昼食べようとしてたわけ?」

「いや、違う。待て、そんな目で俺を見るな。あくまでもヘビは噂に過ぎなかったし、俺だってまさかあんな化け物がいるとは……」

「だが、とにかくあの者らを助けなければならないな」

 ガシャン、と地面に瓶の束を置いて、ゴズドラムは両肩を回した。その視線の先には、噛まれずに丸ごとヘビの腹の中に収まっていく人々の姿があった。中には、能力で火をおこして対抗しようとしている者もいる。

「……無茶だけはしないでね」

 テリアは、頼もしい弟にそれだけを言っておく。あんな大蛇に突っかかって行くという時点で無茶である気もしないではなかったが、人が目の前で死んでいくのを黙って見ているのも気が引ける。同じように、シャーリーの腕を優しく振り解いて、桂が剣を構えていた。背中の鞘を投げ捨てる。三つ首の犬の紋章がその中ほどに彫られている、正真正銘の名剣であった。

「よし、行ってきな、二人とも。運動の後の酒は格別だし、好きなだけ暴れておいでよ」

 ルイが、どん、と両手で強く二人の背中を押してやった。弾かれるように、二人が走り出す。ゴズドラムが両手を前に伸ばし、パターンCの開放動作を行うのが見えた。

「……うーん、相変わらず平和よねー」

 しみじみと、この場で最も似つかわしくないセリフを吐いて、ルイは大きく伸びをした。周囲を逃げ惑う人はだいぶ減り、今は、テリアと同じように大蛇の様子を安全圏から眺める野次馬と、果敢にも立ち向かおうとしている振りをする勇敢でない若者が、大部分を占めていた。

「……平和、か」

 大局的に見れば、そうなのかもしれない。あの二人のことだ、きっとあんな大蛇は楽々討ちとって、腹の中から食べられた人々を助け出して周囲から賞賛を浴びたりするのだろうし、その後結局飲めや歌えの大騒ぎになるだろうことは目に見えている。

 そして将来、懐かしき日々を思い返す段になって、ああそんなこともあったなあ、とかあの頃は楽しかったなあ、なんて思い出し笑いに浸ったりするのだ。

 悲鳴が歓声に変わりつつある。ゴズドラムと桂の二人が、それぞれ能力と剣術で大蛇を翻弄し始めていた。シャーリーが声を上げて応援を始め、それに釣られる様に周囲の観衆からも桂コール、ゴズドラムコールが起こりつつある。

 まるでお祭り、だ。

「いけいけいけー、おら、そこだー、やれーー」

「今だ、ほら、打てーー」

「がんばれ、負けるなーー! ぶったぎれーー」

 怒号が渦巻く中、我関せずとばかりに、サクラは美しい花びらを舞い降らせ、凄惨な戦いに僅かな彩りを添える。いまやそれに注意を払う人間などほとんどおらず、皆、桂とゴズドラムの一挙手一投足に息を呑み、声をあげ、一緒になって拳を振るっていた。

 熱気と興奮を尻目に柔らかな風そよぐ中、隣に立つルイがテリアの横顔を見つめていた。

「ん、何?」

「……いいえ、別に」

 曖昧な笑みを浮かべて目を逸らし、とってつけたように二人の応援を再開させる。テリアは、そんなルイの様子を不審に思ったが、さして気にするほどのことでもない、と思い、問い詰めたりはしなかった。

 しばらく後、桂の一撃が大蛇の命を絶って、観衆から大歓声が上がり、雪崩れ込んだ人々によって二人は英雄だの何だのと崇められ、胴上げされて宙を舞った。困惑顔のままこちらに視線をくれる二人に軽く手を振って、テリア達三人はシートを広げて座り込む。

「ま、向こうは向こうで勝手に盛り上がるでしょ」

 さばさばとした表情でそれだけ言って、瓶に入った度数の高い酒を三人分の容器に注いで、昼食を広げる。

「えー、じゃ、まあ、女同士の友好を深めるという意味を込めまして、乾杯!」

 ルイの音頭を皮切りに、サクラの下での宴会が始まる。最初の内は桂を気にしていたシャーリーも、酒が入るとあっさりと裏切り、過激な暴露話で場を盛り上げた。

「いやー、平和だねー、ほんとに平和だー」

 ルイがけらけらと笑い、テリアが酔って顔を朱に染め、シャーリーが好き勝手に動き回って舞いを披露する。

 桂もゴズドラムも、浴びせられるように酒を飲まされ、盛り上がった観衆の中で揉みくちゃにされている。

「平和」

 呂律の回らなくなりつつある舌で、その言葉を反芻する。理解力の無くなりつつある頭で、その単語を把握する。

 テリア・ハムラフィ。

 何故だろう。涙が零れそうだ。

 胸を締め付けるこの想いは、何という名前なのだろう。

 皆が笑う。皆が騒ぐ。皆が幸福に浸る。

 本当に、世界は、こんなに平和なのに。

 なのに。

 テリアは、自分で焼いた厚焼き玉子を口にしながら、微笑。

 砂糖と塩を間違えたらしい。

 甘いはずなのに。

 涙の味がした。

――

 誰が何と言おうと、それは心温まる風景だった。

 この五人がそれぞれ後にどんな道を辿ることになるのか、この時点では世界の裏側にいた唯一人を除いて、誰一人知る由も無かったのだから。

――

「平和だ。だからこそ……」

 ルイが、ぽつりと呟いた。

 その瞳の奥にある感情を読み取れる者は、残念ながらここには居ない。

 そして

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