20031214―世界の声―

 今。

 聞こえた。

 小さく、だが、確実に。

 それだけで、アイニゲには十分だった。

 もはや、何を信じればいいのかはわからない。

 忘れていたはずの、何かが、彼の中で鎌首をもたげつつある。

 地図を見る限り、迷宮を抜けるにはしばらく時間がかかりそうだった。

 今。

 やる。

 そうだ。

 それしかない。

 あの女の言葉通り。

 この声が聞こえたことを。

 叫び、ただ、伝えればいいのだ。

 だが、何と叫べばあの女に伝わるのだろうか。

「久しぶりだな。とは言っても、君は何も覚えていまいが」

 頭痛がひどくなる。声が頭を内側から叩き割ろうとしているようだ。

 相手が誰か、聞いても無駄だ。どうせ、何もかもを忘れてしまうだろう。

 今。

 この今。

 どうにかして。

 伝えるしかないのだ。

「どうした? やけに大人しいな」

 声が聞こえる。誰もいないはずなのに。

 ああ、以前にも、こんなことがあったような気がする。

 毎日のように、幻聴を聞いて、幻覚を見て、それでも笑っていた。

 どうしてだろうか? これは、こんなにも辛く、苦しいというのに、何故?

 あの頃は。

 幻覚も幻聴も。

 甘く、ただ自分を。

 素晴らしい世界に誘って。

「おい、聞いているのか? 元救世主」

 あの頃。世界の声が聞こえた、あの頃。

 自分が、偽物になる前の、あの幸せな日々。

 泉のほとりで、世界の平和を願った、安寧の中の暮らし。

 魔王に破られた、力の優劣とは無関係に綴られていた、愛しい日々。

 『エラスティオンの孤独』に巻き込まれて世界を渡るまで居た、こことは別の世界。

 ああ。

 そうか。

「アイニゲだ」

 小さく呟いてみた。

 アイニゲは、自分の名を。

「わかっているよ、そのくらい」

 だが、アイニゲはさらに名を告げる。

「俺の名前は、アイニゲ・リアルカスタムだ」

「……どうしたんだ? 前とは随分と雰囲気が違うようだが」

 アイニゲはゆっくりと立ち上がった。頭を振って頭痛を振り切る。

「そうか、そうか、そういうことだったのか。ははははは、墓穴を掘ったな」

 笑う。

 不敵に。

「……何だと?」

 声に、怒りが混じる。

 感情の色を読んで、彼は、

「黙れ。お前に言ったんじゃない」

 声を一蹴する。もはや、相手にする価値はない。

「お前は、もうすぐ消される。黒幕が動いているからな」

 明らかに、声の方に狼狽した気配があった。返答まで間が出来た。

「まさか、君は全てを思い出したわけではあるまいな?……その、全てを」

 それに対するアイニゲの返事は、極めて短かった。単刀直入に、答えを口にした。

「ああ」

 その瞬間。

 空気が揺れた。

 不気味に。ざわりと。

「梃入れをする必要があるな」

 声が、くつくつと楽しそうに笑う。

「それには及ばない。お前らの方が先だ」

 アイニゲは、ゆっくりと立ち上がり、息を吸い込む。

「あいつは確か、システムを守ると言った。それが裏目に出る」

 死刑宣告に近い。全てがわかってしまった。世界の声は、何と言った?

「全て、裏目だ。守ろうとすれば壊れ、良かれと思ったことが悪評を買ってしまう」

 アイニゲは、ただしかし、彼女の言う通りに、告発すればよい。システムを守るべく。

 だが。

 その実。

 システムを。

 壊すためにやる。

「待て、待ってくれ」

 声に本当に焦りの色が混じる。

 アイニゲは、にやりと笑った。心から。

 世界の声は、何と言った。それは思い出せないが。

 だが、感じる。自分が自分でなくなる前の、その自分を。

 だから、告げる。黒幕への密告。全てが裏目に出る黒幕の意に沿う。

 つまり、彼女の思い通りには絶対にいかない。システムの崩壊は、必然。

 告げる言葉は、決まっていない。ただ、そこにある必定を破るために、逆を唱える。

 叫ぶ。

――

「どんなに絶望しても、力に押しつぶされそうでも、あなたの理想は諦めないで行け!」

――

 黒幕は、その瞬間、約束通りシステム管理者の中で禁を破った者の名を把握した。一人見つけてはまた一人と、芋蔓式に発見していく。こちらの世界の人間との勝手な接触以外にも、次々と余罪が判明していく。

 そして、粛清を加える。ユリウに過去を書き換えさせる。システム管理者に矛盾や歪みが生じていく。それが、罰。表面上は波風が立たない。

 そのはずだった。システムを守るために、決まりごとを遵守させる必要があった。だからいつも、何かしらの形でやってきたことだった。粛清。修正。どんな形であれ、システム自体を統括しなければならないのだから、これは仕方ないことなのだ。

 だが、今回、黒幕にとっての大誤算が起こる。

 ユリウとヒルスが、造反の企みから疑心暗鬼に囚われ、受けてもいない粛清を受けて、消え去ってしまったのである。

 システムは、非常に脆い。

 黒幕の焦燥は、極限に達していた。

 そして、アイニゲが迷宮から脱出し、ヒューズと出会うのはしばらく後の話だ。

――

 また、何かが聞こえた気がした。

 あなたはかわらないで――――

――


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