20031213―無銘の世界―

――

 0。

――

 不法家宅侵入であることなど承知の上だった。今更、そんな些末なことに拘っていられるほどの余裕は、彼女には無かった。

 とはいえ。覚悟を決めたつもりではあったが、それでも心のどこかでブレーキをかけたがっている自分がいる。踏みとどまりたい、この世界に。消されたくない、私自身を。

 そんなことを願う安全志向の自分が、皺の少ない薄っぺらな脳を占拠して居座っている。

 振り払え。

 振り払ってしまえ。

 私は、今、ここに来たのだ。自らの決定を、意思を、その全てを反故にして、ここに来てしまったのだ。居ても立ってもいられず、矢も盾も堪らず、とにかくここまで、全速力で疾走してきてしまったのだから。

 決めたはずだ。

 システムへの反逆に加担する、と。

 そうだろう、テリアハムラフィ罠設計担当。

 否。

 テリア・ハムラフィ!

「皆、無事!?」

 ドアを蹴破るような勢いでリビングに突撃する。だだっ広い部屋に広がる血の匂いと、目を覆いたくなるような惨状に、テリアハムラフィ罠設計担当は絶句した。

 激しく上下する肩に震えが混じり、歯を食いしばってそれを押し殺す。

「そんな……一体、何が?」

 現場は部屋の奥、テーブルを挟んで向かい合う二脚ずつのソファだった。テリアハムラフィ罠設計担当は、恐る恐る、それでも気丈に近付いていった。

 ソファに転がっていたのは、平たく言えば人間の身体だった。夥しい血液で溢れかえり、赤の海に浮かぶように見えるそれらは、ぴくりとも動かない。

「……………………」

 二の句が告げなくなる。間違いなく、命はない。

 そこにある、三つの、塊。

 ――否。

 死体では、ない。少なくとも一人は。不死種族は死ねないからだ。どれだけ身体を切り刻もうとも、炎に焼かれようとも、水中に沈められて酸素を奪われようとも、彼らは生きることを余儀なくされる。

 一番近くのソファから転げ落ちるような格好でうつ伏せていたのは、そのキルトカルテット順路変更担当だった。彼女であると示すものは、その短めの黒髪を蓄えた小さな頭と、それから細い首、肩幅の狭い肩、細い二の腕から連なる右腕だけだった。

 それしか残っていなかった。

 斜めに、やけに鋭利な切断面が、左の肩口から右の胸にかけてを綺麗に横断していて、そこから下の、つまり身体のおおよそ七〇パーセント以上は全く見当たらない。断面から見える体内には、それだけは人間と同じで赤く、ぬらぬらと蠢く内臓があって、それを囲むようにやけに硬そうな錆色の骨らしきものが見えた。

 よくよく見れば、既に切断面からの流血は止まっており、周囲に流れ出した血液をむしろ徐々に吸い上げて、わずかずつであるが確実に、組織の再生が始まっていた。まるで発泡するように、身体に残っている細胞が猛烈な速度で分裂し、脱分化から再分化を経て正しい身体を再構成していく。じわじわと、キルトカルテット順路変更担当が戻りつつある。

 テリアハムラフィ罠設計担当は、残っているキルトカルテット順路変更担当の右手を持ち上げて、再生途中の軽い肉の塊を裏返した。ぞっとするほど冷たいが、柔らかい感触。触れた限りではいつもの彼女と同じで、血の海に顔面を押し付けていたため真っ赤に染まった顔を見た時に、叫び出したい衝動に駆られる。

 彼女の瞳は、開いていた。血の滴る髪の奥から、赤い涙を流したような双眸が、テリアハムラフィ罠設計担当を睨む。

 掴んだ右手が、弱々しく、だが確かに、握り返される。

 生きている。

 死に損ねている。

 復活の途中。

「……………………」

 唇が、小さく、動いた。

 震えるように。全く聞き取れないが、だが、キルトカルテット順路変更担当は、何かを伝えようとしている。

 回復しきらない、今、この時に。

「……………………」

 仰向けに、横たえる。血で汚れるのも構わず、テリアハムラフィ罠設計担当は、床に這いつくばるようにして、彼女の唇に耳を近づけた。

 か細い吐息が、唇の間から、何かを伝えてくる。

「……から……く……れて…………」

 かろうじて、音になる。耳をくすぐる風が、本当にわずか、何かを伝えようとしている。

「……から…や……なれ……だ……」

 血の匂いが、踊る。

 目頭が熱くなる。何故か泣きそうになる。

 何故か?

 理由なんてわかりきっている。

 テーブルの向こうに二つの塊が見える。横になった視界の中、確かに見える。倒れている肉。右腕と右肩中心の胴体しか残っていない誰かと、首から上と右腕の肘から先以外全て残っている誰か。バラバラなのに、ピースの噛みあわないパズルのような、別々の身体。

「……から……くはな……く……い」

 服装から推察するしかない。ほとんど全て身体のパーツの残っている方が、おそらくはマイゼルグラフト警備主任。スーツの色で、何となくわかる。

 そして、身体の大部分が失われ、もはや人であったのかすら怪しい方が…………。

 軽薄で、人が良くて、でも身勝手で、いつもへらへら笑っていた、世界最強の。

 見張り担当。

 幼馴染ということに、なっていただけの、元は見知らぬ青年。

 涙が、とうとう零れた。

 別に、そんな感情なんて、持っていないと思っていた。

「ここから…………………ださい」

 耳元で、メッセージが徐々に形を取り始める。

 身体を支えるために床についた両手が、生温い液体でぬめり、滑る。

 何が、あったのだろう? ここで、何があったのだろう。

 間に合わなかった。

 ただ、それだけがわかる。

 後悔しても、遅い。自分が、ハイリスクハイリターンではなく、ローリスクの方に逃れていたがために、到着が決定的に遅れた。気付いた時にはすでに間に合っていなかった。

 あの時、ルイが言った。この選択は裏目に出る、と。

 まさに、そうだ。本当に、その通りだった。

 ラルフリーデス見張り担当は、死んだ。

 彼を助けられる位置に立つことを選ばなかった自分の目の前には、ただその最悪の結果だけが提示された。惨憺たる結末が、扉を開けたその先で身も蓋もなく晒されていた。

「ここから」

 囁く声が、耳朶を揺らす。鼓膜にかろうじて届く、微かな振動。

 微動。

 懸命に、伝えようとする何か。不死種族の意地。唯一、生き残れた者の権利。

 人間には、残せなかった言葉。

 何一つ、伝えてもらえなかった。

 視界の先で、無様に転がることしか出来なくなった、その身体。屍。骸。死体。

 何一つ、伝えられなくなった。

 もう動かない。あの二人は。

 首が無く、血が流れ、魂が抜け落ちた。

「はやく」

 もしも、自分が、ここに居れば。

 あの時、反逆を、心に決めていれば。

 こんな事態には、ならなかったかもしれないのに。

 テリアハムラフィ罠設計担当は、静かに泣いた。声は漏らさず、涙だけが流れていく。横になった顔を伝って、涙はキルトカルテット順路変更担当の顔に落ちる。

 キルトカルテット順路変更担当の右腕がほんの少しだけ揺れて、赤の海に波紋を呼ぶ。

 そして。

 そこだけは神託のように、やけにはっきりとテリアハムラフィ罠設計担当の耳を打った。

「はなれてください」

 …………。

 ここから早く離れて下さい。

 ――――。

「もう遅い」

 静かな声が、響き渡った。テリアハムラフィ罠設計担当は咄嗟に顔を上げ、周囲を見渡したが、声の主らしき人間の姿は無かった。

「この空間は、完全に掌握している」

 本当に、全てが遅すぎたのかもしれない。テリアハムラフィ罠設計担当がそんな考えに思い至った時には既に、彼女の体の自由は一切効かなくなっていた。

 システムに、捕らえられた……?

 基本的には何もわかっていないテリアハムラフィ罠設計担当にも、その辺りのニュアンスだけは何故か正確に理解できた。

 世界の裏側から、何かがこちらに干渉している。

 ひたひたと、夜の廊下を歩く裸足の足音のように、冷たく不気味に背を這って来る悪寒に、必死で抗う。

 無駄ではない、無理などない、取り返せない失敗などない。

 抵抗が儚いだけで終わるとしても、何もしないよりは、ましなのだ。

 それが、テリアハムラフィという自分であるから。

「無駄だ」

 すっと、後ろに何者かの気配が立つのがわかった。それはひどく非現実的で、そのくせ生きとし生けるものを見下すほどに、あまりにも生々しすぎた。誰かがいる。何かがある。それだけを伝えるためだけに研ぎ澄まされた、気配。

 眼球だけは何故か動かせたが、そちらを視界に収めることは不可能だった。四つん這いの姿勢のままで、背後の何かが近付いて来る気配に戦慄する。床がわずかに軋む音が、右から左から、方向の定まらない反響を伴って聞こえてくる。

 赤い、色が。

「お前も、知っているのか?」

 自分の体の全てを包む。

 そんな錯覚に囚われ、テリアハムラフィ罠設計担当の喉から小さな悲鳴が漏れた。その音は、自分の耳にすら届かない。

「お前も、知ってしまったのか?」

 極めて不自然な挙動で、テリアハムラフィ罠設計担当の身体が起き上がっていく。姿勢を変えずにただ体勢だけが直立状態に改められて、それから手の方向、足の屈曲などが正されていって、背筋を伸ばした格好になってようやく止まった。

 包み込む赤。それは、生温いだけの目に見えない柔らかな感触だった。

ゆっくりと、テリアハムラフィ罠設計担当が回転していく。左回りに、『気をつけ』の姿勢のまま、あたかも彼女を掴む巨大な腕があって、それが気紛れに手首を捻っているかのように。

 対峙させる。テリアハムラフィ罠設計担当と、そこに居る目に見えない気配を。

 そしてそれは成された。システム管理者の、ほんの戯れで。

 『アリアの梃入れ』。それはそんな風な名を持つ。

「世界を渡ることは、それほど辛いことではないよ。人は、皆そうやって生きている。こうまでして、そう、死んでまでして忌避するような代物ではないはずだ」

 気配と声と。指先から伝い落ちる血だけがリアルで、テリアハムラフィ罠設計担当は瞬きすらも許されず、反駁する口だけの自由を得た。

 感情が、零れ落ちる。怒りと、憤りと、悲しみと、そして全て。

「そうね。確かに、そうかもしれない。でも、それはあなたの論理。あなただけの論理。私も、キルトカルテット警備担当も、ユドリフマーカス順路変更担当も、ラルフリーデス見張り担当も、マイゼルグラフト警備主任も、皆、そんなの望んでいなかった。こんな、勝手な、押し付けられた運命を生きていくなんてこと、誰も望むわけないでしょう? 辛くないから受け入れろ? 馬鹿言わないで。私たちはね、あなたのために生きてるんじゃないの。あなたが、私たちのために存在しているからって、私たちにまでそれを押し付けないで。相互依存? 妥協? これは、そんな言葉でまとめてはいけない、もっと禍々しいものよ。該当する言葉なんてありはしない。だからこそ、名前なんてない、ただの、システム!」

 生温い色が、言葉を塞ぐように口の中にまで入り込んだ。口腔内を蹂躙し、喉の奥にまでその指を伸ばす。

「口が、過ぎるようだな。自分の立場をわきまえろ。私がお前をまだその世界で生かしてやっているのが、慈悲だということがわからないのか? 認識すらまともに出来ていないお前如きが、何をほざくか。これまで私を出し抜いていたように、猫を被って生きていけばよかったんだ。お前の言う通りの、安寧の日々がそこには待っていたのだろうよ」

「それでも」

 喉に詰まる不気味な気配を吐き出すつもりで、テリアハムラフィ罠設計担当は大声を上げた。生まれてから、こんな声を出すのはもしかしたら初めてかもしれない。

 叫ぶ。

 涙が伝い零れる。

 嗚呼。

 強さが、欲しい。

「私は、あなたなんかを絶対に認めない! 絶対に、絶対に、絶対に! 世界は、世界は、もっと、あなたが思うよりも、上手く回るのよ!」

 ラルフリーデス見張り担当は、死んだ。

 あれでも、まだ足りない。もっと強い力が、欲しい。

 違う。力なら、ある。ただ、それに気付きたい。手を伸ばしたい。行使したい。

 強いか弱いか。

 ――『何が』でも『誰が』でも、とりあえず『自分が』でもなく、主語のないままに語り出されたその疑問文。

 そしてその本質。

、あなたなんかより……んだから!」

 そこにある、それだけの事実。

 誰もが信じたかったが、ユリウの辻褄合わせに紛れて完全に見えなくされていた、それこそが最後のシステム。

――

 『無銘の世界』。

――

「良く言った! テリアなんとかさん! あなたの言う通り、世界は、負けないよ!」

 全ての雰囲気を打ち破る女の声が突然、気配と同じ方向から同じように聞こえてきて、

「な、お前、まさか、ここにどうやって入ってき――――が、ああ!!」

 悲鳴とともに『アリアの梃入れ』が完全に消失した。

 テリアハムラフィ罠設計担当を包み込む生温いそれも、ほどけるように空気に溶けた。

 後は、呆けたように崩れ落ちる、テリアハムラフィ罠設計担当だけが残される。

「……な、何、何なのよ……?」

 くい、と弱々しく裾を引っ張られる感触に振り向くと、未だに大部分の欠けた体で横たわるキルトカルテット順路変更担当の姿があった。彼女は、弱々しく、今にも消えそうな笑みを浮かべてから、唇だけでこう告げた。

「勝ったんですよ、あなたが」

 テリアハムラフィ罠設計担当は、キルトカルテット順路変更担当の額にある小さな角に軽く触れてから、ぼろぼろと涙を流して泣き崩れた。

「世界は、負けません」

 右手だけで、テリアハムラフィ罠設計担当の頭を撫でて慰めながら、キルトカルテット順路変更は笑むように瞳を閉じた。耳の奥へ、システムを打ち破った女性の、今はただ普通の女性の泣き声が、渦を巻くように染み透って行く。

 大丈夫、世界は、負けない。

――

 そして、静かに扉が開いた。

 何の比喩でもなく、ここ、マイゼルグラフト警備主任の屋敷の、リビングへのドアが、ゆっくりと、開け放たれていく。

 表情のない女が、その向こう側から容赦なく足を踏み入れてきた。

「俺が成すあらゆる全ての物事が裏目に出て、世界の全てが俺に対して仇なすと言うのならば、俺は一体、一体、何を成せばいいのだ?」

 引き攣った笑顔は泣き顔に似ていた。困惑を浮かべた瞳は狂気に似ていた。右手に握られているのはただのハンドバッグだったが、彼女の全てはあらゆる意味で自らの正体を暴露していた。

 つまりは、黒幕である、と。

 テリアハムラフィ罠設計担当は、その黒幕を一〇メートル弱の距離から見上げた。涙で滲む視界の中でも、相手が誰であるかは一目瞭然であった。

 憎悪ではなく、憐憫を多分に含んだ視線が、その彼女には向けられる。

 そして、涙で失った水分のせいで随分と渇いてしまった喉で、かろうじて告げる。

 最後の戦いの、幕開け。

「やっぱり、あなただったのね――――」


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