20031212―全ての始まり―

 『ユドリフマーカスの雑談』は、皮肉なことに、『レイトゥの話』を除けば、全システムの内で最も遅く現実化されたシステムだった。時間軸を越えて影響を与えられるシステムという枠組みのなかで、現実化の時期が早かったか遅かったかなど些末な問題に過ぎないし、逆に、だからこそ『ユドリフマーカスの雑談』という逆転の一手を打つことが出来たのであるが。ともかく、『ユドリフマーカスの雑談』が現実化されるよりも先に、その現実化を見越して現実化されていた数々のシステムのうち、最も早くからこの世に存在していたのは、当然ながら、システムの辻褄合わせを全て担っていた『語りのユリウ』だった。

 最初は、単純な発想だった。

 どこかの世界のどこかの国で奴隷として扱われていた一人の男が、責め苦でしかない毎日の生活の中で、生き抜いていける希望を求め、縋るような思いで信じ続けた妄想だった。いつか救って欲しいと、神に祈る日々は早々に破綻し、祈るだけでは何も届かないことを知った彼は、世界の運命を描く物書きが全ての人間のシナリオを手掛けていて、自分の一生は既に決められているのではないかと考え始めた。それ自体はどうしようもない発想であったが、救いの無い自身の状況と照らし合わせる内、その内容は猛烈な勢いで根を伸ばし始め、彼の脳内に定着していった。細部に渡る設定を微妙に変えながら、徐々に形成されていく『語りのユリウ』。ローブを来た美男。この世界にはおらず、基本的には誰も干渉できない。過去から未来まで、一通り人間の運命を握っている。イレギュラーが発生した場合、書き直しもある。

 そんなことを考えていると、楽しかった。過酷な重労働にだけ追われる日々が十年以上に渡って続いていたが、ユリウのことだから、明日にでも面白い展開を自分に用意してくれているかもしれないと、そんなことを思うと、少し希望が湧いた。他の奴隷が労働中に倒れ、監視員に蹴られ殴られしてから懲罰房に連れて行かれ、二度と戻らなかった時も、

「奴は、ユリウに愛されていなかったんだ」

 と、少しの憐憫を含んだ優越感に浸ることが出来た。自分は、今日も生きている。

 ユリウに、愛されている。

 だが、いつまで経っても変わらない現状がさらに何年も続き、『語りのユリウ』は腐敗していく。ユリウは、誰かの圧力を受けている。そのせいで世界は、貧富の差という最大にして最悪の不平等に満ちている。富める者がより幸せに、貧しき者がより不幸になるように、ユリウは書かされている。悪夢のような世界。ユリウの描く運命に救いは無い。救われる者は最初から救われている。救いを必要としている者に与えられる救いは描かれない。ユリウは、傀儡に過ぎない。誰かの意志を反映して、そのように描いているに過ぎない。ユリウの筆は、魔筆。こんな風な狂った世界を描き出す、悪魔の筆。

 システムに昇華するまで、あと一歩だった。そんなことは知らず、奴隷の男は、生きるために必死で生きる。生きる目的など、生まれてから考えたこともない。自分の存在意義など、迷ったこともない。そんなことを考えていられるほど、彼には余裕もゆとりもない。満足な食事も与えられず、不衛生な居住環境で、一日十八時間にも渡る過酷な労働。たいていの者は、一年と持たずに死んだ。その男は、あっという間に奴隷の最年長者になっていた。脱走も、反逆も、しようとは思わなかった。そんな企みをする者は五万といたが、誰一人無事に帰っては来なかった。死よりも恐ろしい処罰が待っていた。

 ある日、高熱でうなされながらも労働に従事していた彼が、炎天下で意識を失った時に、とうとうそれは起こった。運んでいた石材に潰されるようにして、暗転する視界の中で倒れ伏し、夢に引きずり落とされる感覚の中で、彼は一人の人間と対峙した。

 死神かと思った。ローブを着た男だった。

「残念だね。君の命運は、ここで尽きた。こんなところで倒れてしまっては、今に監視員がすっ飛んでくる。そうして、君はそのぼろぼろの身体を使い物にならなくなるまで痛めつけられ、餓死したと見なされて炎の中に放り込まれるんだ。代わりなんていくらでも居る。残酷だが、それが現実だ」

「……お前は、ユリウか?」

「そうさ。君が作ったんだ。僕は、全ての人間のシナリオを書いてる万能の文筆家、ユリウ。最近は、めっきり悪者にされているみたいだけどね」

 闇の中のような、真っ白の空間のような、足元さえわからぬその場所で、奴隷の男と向かい合い、ユリウは少し皮肉げに笑った。

「本当にいたのか」

 奴隷の男は、呆然と呟いた。

「馬鹿なことを言うなよ。この世界は、君を中心に回っているわけではない。ただ、君が君として生きているというそれだけは間違いない。だから、君の中では僕が存在していられる。僕は、君だけのユリウだ」

 奴隷の男は、ぼろぼろと涙を流した。

「……何故、泣く?」

「つまり、それは、俺が死んでしまったらお前が消えてしまうということだろう? せっかくお前がいるのに、たかだか、こんな、一人の年老いた奴隷が死んだというそれだけで、お前は消えてしまうのだろう? 俺が、倒れてしまったばかりに」

 奴隷の男の発言に、ユリウは悲しそうな顔で応じた。

「……生きる意味が、出来てしまったというわけか。僕は喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか。このままでは、君を救うことは出来ないというのに」

 君だけのユリウ。

 その言葉の意味するところ。ユリウは、まだ、奴隷の男の妄想の域を出ていない。

「俺は生きたい……。そうして、お前を、ユリウを実在させ続けたい。いや、俺が生きなくてもいい。俺という意識が、ユリウを存在させたいというその意志を、世界に残したい」

「僕が、君の思い通りの世界を描かなくても?」

 奴隷の男が、大きく頷いた。泣いて泣いてくしゃくしゃになった、酷い顔だった。

「それでも構わない。お前は、この世にあるべきだ。本音を言ってしまえば、確かに俺はお前に圧力をかける側の人間になりたかった。世界を思い通りに動かして、富める者の側にいたかった。いや、もっと根本的に、平等で平和な世界を作りたかった。だが、現実にはそうでなくて良い。……俺は、お前の親だから、ただ、お前が居てくれればそれでいい」

 ユリウが、何かを決意した。その瞬間、世界は最初のシステムを受け入れる準備に打ち震えた。

「……子供は、親孝行をするものだ。自身の存続を賭けて、僕は、君を守ろう。僕は、『語りのユリウ』だ。君の意志を、存在させ続ける。そのためのシナリオを書く。君が生きる希望を捨てていないのに不慮の死を遂げた時、君の心を誰かに引き継がせよう。君が満足して死ねるなら、僕は一緒に消える。自分の満足を求めたいと思ったら、僕に言いに来れば、君のシナリオをいくらでも書き換える。君の圧力だけには、無償で応じよう。僕は世界を好きなように描く。破綻なく描く。そうである限り、その結果がどれだけ君にとって腹立たしいものであっても、直接君に関係の無い事柄に関しては変更しないつもりだ。破綻しそうだったり、矛盾が生じたり、そういった問題を指摘してくれる分には応じる。僕は世界を回す。君は、世界を回す僕を回す。言うなれば、だ」

 徐々に、奴隷のためだけのユリウだったユリウが、世界に近付き始める。

 ユリウを思いついた奴隷だった男が、黒幕に近付き始める。

「それで、いいかい?」

「二つ、注文がある」

「どうぞ」

 ユリウが促すと、奴隷は少し考えてから、節くれ立った細い指を一本立てた。

「一つは、ここで会話をしたことは忘れて欲しいということ。お前は、ユリウとして、俺との約束など忘れた風に、自分の意志で世界を回すのに専念して欲しい」

「……いいだろう。その方が、きっとやりやすい」

 そして、もう一本、隣の指を、ゆっくり起き上がらせる。震えながら。

「そしてもう一つ、それでも俺のことは、忘れないで欲しい」

「…………」

 ユリウは、ただ、小さく頷いた。

「交渉成立だ。ありがとう、ユリウ。最期に、こんな夢を見られて、良かった」

「……僕もだ」

 こうして、奴隷の夢は『語りのユリウ』を生み、その奴隷は『ユドリフマーカスの雑談』で世界を渡るよりも前に、倒れた時の衝撃であっさりと死んでしまっていた。だが、一三番という番号で呼ばれていたその奴隷の意志は、約束の通り、そしてシステムの通り、全然別の誰かに受け継がれ、生き続けた。

何事もなかったように、世界も回り続ける。ユリウが、回し始める。

 何代も何代も、黒幕の意志は継承されていく。

 そうやって、自分の意志とユリウの存在を生かすために幸福な死を拒絶するという、極めて救いの無い生き方をする人間が、誕生していくことになる。

 ……真実に気付いたユリウが全てを裏切った時、黒幕は虚無を知った。

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