20031207―アイニゲの歪みと黒幕の憂鬱―

 餓死寸前だった。

 大部分の迷宮否定主義者と同じように、自分もこの迷宮の中でのたれ死ぬのだ、とアイニゲが壁を背に座り込んでそんなことを考えた時、影が落ちた。

 自分の前に、誰か立っている。

 ぼんやりと霞む視界を上げてみると、不思議な格好をした細身の人間がそこにいた。

「……迷宮管理会社の者か?」

 渇き切った喉でそれだけを尋ねると、その人間は光を背に、よく表情の見えぬ輪郭の顔を横に振った。アイニゲは、ほっとすると同時に、嫌な予感に身構えた。いっそのこと、こいつが迷宮管理会社の人間で、自分を殺してくれた方が、楽だったかもしれない。

 今更、生存への道が開かれたところで、自分にはどうしようもない。

「……じゃあ、何者だ? 財宝目当ての迷宮破りか? それともただの無謀者か? 同業者あるいは俺の仲間じゃないよな……?」

 ありとあらゆる可能性を模索する。そのいずれにせよ、人生で最低の状況にある今のアイニゲを少しは救い上げてくれるだろうが、それは彼にとって、全く望むところではなかった。思い出したように、頭痛がする。

 もう、死にたい。

 死なせてくれ。

「立て。お前にはまだ死んでもらうわけにはいかない」

 頭痛がする。その人間の声は、あいつらに似ていた。だが、そのあいつらが誰なのかわからない。どこかで聞いた声。再三この迷宮内で聞かされた声。頭痛がする。

「接触の残滓を伝ってここまで来て、ようやく見つけたお前がこのザマか。俺も焼きが回ったものだな。皆がこぞって注目しているようだから、どれだけの人材なのかと楽しみにもしていたが……つまるところ、逆だったわけか。救世主となり得るだけの素質を持ちながら、個を守りきれずに変わってしまった弱者。世界の声はまだ聞こえるのか?」

 その人間が、わけのわからないことを言いながら何かを放り投げてきた。水筒だった。

「飲め。そして立て。そう楽に死なせるものかよ。俺がどれだけ苦労したと思っているんだ。奴らに灸を据えるためにも、証人としてお前には生き残ってもらう」

 アイニゲは、首を振った。頭痛が消えない。

「……死なせてくれ。俺は、俺じゃない」

 声が、出ないほどの渇き。どこに水分が残っていたのか、しかし涙が止まらない。

「俺は、俺じゃない」

 三つ首の犬の紋章をあしらった首飾りが、弱々しく胸の辺りで揺れている。それだけは、何故か信じられる。

「甘ったれるな。そこまで気付きながら逃げを打つな。一矢を報いるくらいの気概を持て。全く、ふざけるな。俺を誰だと思っているんだ。だぞ? その俺にここまでの苦労をかけさせて、何様のつもりだ、お前は?」

 その人間は、ひどく自分勝手なことを言って、投げ捨てた水筒を拾い上げ、蓋を取り、中身を無理矢理アイニゲの口から流し込んだ。大部分は、口の横から流れ落ちる。

「抵抗するな。泣くぞ、喚くぞ。俺だって必死なんだ。ヒューズを飼いならしたまでは良かったが、あいつが本格的に活動を開始しつつある。決壊したらどうなるか判っているのか? きっと、混沌が、訪れるんだ。それだけは止めなければならない」

 アイニゲの虚ろな瞳に、泣きそうな人間の顔が映った。今更ながら、それは女だった。

「いいか、お前が今からしなければいけないことは、たった一つ。次に誰かが来た時、あるいは声が聞こえた時、その相手と、何でもいい、少しでもいい、話せ。そして、叫べ。ただ一言、その時お前が心から願った言葉を。それで十分だ。俺は、その言葉だけで、そいつを見つける。断罪する。抜け穴は作らせない。反逆は赦さない。。勝手にこちら側の人間とコンタクトをとることは、一切禁止のはずだ。そう伝えておけ。覚悟させておけ。いいか? お前は立て。そして、迷宮を抜けろ」

 空になった水筒を投げ捨て、黒幕を名乗るその人間は、大きな包みをアイニゲの前に置いた。中身は食料と水と、それからこの迷宮の地図らしかった。

 黒幕は、そこで、何かしら文字にするにはやたらと難しそうな発音とテンポの音を発声し、掻き消えるようにその場から立ち去った。

 残されたアイニゲは、大きく一度むせ返った後、泣きながらよろよろと起き上がり、包みの中から取り出した赤い果物を齧る。

 自分は、自分ではない。

 迷宮否定主義。無意味なものは要らない。力があれば、それでよい。

 あなたはかわらないで。

 誰の声だ? それは、誰が言ったものだ。

 変わらないとも。俺は、変わっていないはずなのだ。

 黒幕とやらの言葉を思い出す。救世主になれた。個を守りきれない。弱者。

 力を求めていたはずなのに。変わらないはずなのに。

 果実は甘く、しかし喉を通るそれは毒のようにアイニゲを苦しめた。

 何の実だ? その、あたかも昔どこかの泉のほとりで目にしたことのあるようなほどに見覚えのあるその実は、

 一体何の実だ?

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