20020808―システムの超越者ヒューズ―
可もなく不可もなく。
ごく普通の人間として、ヒューズは生きて来た。勿論、世界中のほとんどの人間は普通の人間なのだと彼女は思っていた。
苦もなく楽もなく。
特に何不自由することもなかったが、それほど恵まれていたわけでもなく、本当に、ただ単に、ヒューズは一般人であった。
そんな彼女は、それなりの生き方を享受できていれば満足だったので、別段これといって何をしようということもなく、いつものように、罪を犯した者を聞き込みや目撃情報をもとに追い詰めて行くといったような仕事をしていたわけである。
そんな中で、誰が予想できようか?
彼女がそこで、本当の犯人を引き当ててしまうことを。
彼女が、普通の人間などではないということを。
「止まりなさい、ちょっとそこの貴方」
と、彼女は言った。それは、その声をかけようとした相手の後姿が、彼女の捜していた連続殺人犯に似ていたからであり、まあ、これを不審に思う者は、彼女の周りにいた全ての人以外、誰もいなかった。
そんなわけで、周囲の人間は、不思議そうにヒューズを見た。一斉に見た。
ヒューズが手を伸ばして声をかけている場所には、勿論誰の姿もなく、強いて言えば通りに面した店のメニューが羅列されたお洒落な看板があるのみだった。
ヒューズが声をかけた相手は、決して振り返らなかった。ただ、腕を組んで、何もない場所で何もない方向を向いているだけだった。近付いてみると、その人物が実は女性であるような気がした。捜していた人物は男性である。つまり、人違いであった可能性が高い。非常に高い。
それでも、ヒューズはもう一度口を開いた。
「まさか、俺の姿が見えるというのか?」
これはヒューズのセリフではなかった。
さすがに彼女は突然こんな風にわけのわからないことは言わない。その声は、彼女が声をかけようとしている相手から聞こえてきたものであったが、実はその声が聞こえた者は、ヒューズ以外の全員であった。
「こちらを向きなさい。命令です、これは」
ヒューズはそれだけ言った。この時点で、ここで奇妙な事態が起こっているということに気付いた者の集合の中に、ヒューズはいなかった。彼女は、普通の人間だった。
周囲にいる者の中の一人が、
「あの、貴方には何かが見えている――」
のですか?
と勇気を出してヒューズに対し、そう発言しようとした。当然だ。その者には、「まさか、俺の姿が見えるというのか?」という謎の声が聞こえているだけで、何も見えていないのだから。
しかし、それは失敗した。
その人間の声は、自身はおろか、周りにいる人間の誰一人にすら届くことはなく、それに気付いた結果、その者は発言を諦めたのだ。
ヒューズの話し掛けている相手は、決して振り向かなかった。
「そうか。俺の姿が見えていても、声は聞こえていないということなのだな」
物分かりのいいそいつは、そんなことを言ったが、それが聞こえたのは相変わらずヒューズ以外の者達であった。
ヒューズは、反応がなかったことに苛立ち、相手の前方に回り込むことにした。いきなり拳銃を構えて恫喝したりしないところが、当然のことながら、良識的だ。
「私の声は聞こえますか?」
先程とは違う、周囲の人間の一人が、目に見えないその人間に対してその問いを発した。自身にも聞こえないため、発音には自信がなかったが、とりあえずそう尋ねた。
「まだ完全にこちら側に来たつもりはなかったが。何らかの干渉を起こしたようだな。周囲の人間も、聴覚的に俺の存在を捉えていると見える」
どうやら、周囲の人間の声も聞こえていないらしい。
その不思議な声に、周囲の人間は頷いて見せた。とはいえ、相手がどこにいるのかは勿論わからない。唯一それがわかるヒューズは、ようやく相手の正面に回りこんだところだった。しかし、そちら側に回りこんでも、いつの間にか相手が後ろを向いており、結局後姿と対面することとなった。何となく、こいつの顔を見ることは出来ないのではないかと、ヒューズは思った。
「あの、提示していただけますか、身分を証明できる物を何か?」
その相手は、それを聞いても何のリアクションもとらず、背中を向けていた。
「おそらく、こいつは俺と同じレベルだな。システムの超越者だ」
周囲の者には、これが何のことなのか全く把握できなかった。むしろ、ようやく、自分達が明らかにこの世の者ではない何かの声を聞いていることを悟った。おそらく、この会話は気がついた時にはすでに忘れさせられているような代物なのだ、と。
「敵に回すと厄介だ。こいつを懐柔するようなシステムを構築すべきだろう。いや、しばらく泳がせておけば自然と裏側に引きずられるか……」
この声が聞こえていないヒューズだけが、未だに普通の人としてそこにいた。
この時点では全ての世界で最も核心に近い彼女だけが、唯一。
「何はともあれ、この世界にこんな奴がいることがわかって良かった。さて、この調子ではそろそろロシューのシステムが発動するはずだな」
その人物が腕時計を確認するような仕草をしたのを、ヒューズは見た。
『ロシューのすれ違い』。
会話や待ち合わせにおいて発生するすれ違いの、単位時間当たり、単位体積当たりの発生件数が一定量を越えると、それが引き金となって発動する。すれ違いに関与した者同士は、今後一生かなりの確率ですれ違うことを余儀なくされ、万が一すれ違いを起こさずに会話や待ち合わせに成功すると、世界に最初から存在しなかったことになる。
そんな声が聞こえた。男の声だった。
それは、周囲の人間にも、ヒューズにも、もちろんその人物にも聞こえた。
「な、何、今のは?」
ヒューズの言葉に、しかし、周囲の人間の返答はなく、
「今の声聞いたか?」
「どういうことだ? 世界に存在しなかったことになる? 本当なのか?」
「ところで皆さん、私の声が聞こえますか?」
と、いきなり違う形の問いかけが重なり、どれに答えようとしても明らかにすれ違いになるように新たな質問が飛ぶことが予想された。いつの間にか、周囲の者達の声が普通に聞こえるようになっているのだが、あたかも当然のことのように皆の間で処理された。
そして、次の瞬間、『ロシューのすれ違い』の記憶は全員の無意識下に押し込められた。
超越者、ヒューズを除いて。
そんなわけで、周囲の人間は、何事もなかったかのように(実際問題、この時点で彼ら彼女らにとっては何事もなかったのと同じであった)、各々の用事のため、帰途のために歩き出した。ようやく、一般人らしい挙動で。
一方のヒューズは、ヒューズにだけ見え、そしておそらく彼女以外の全員は忘れてしまった、その後姿の女に向かって、まだ質問を続けた。
ようやく、一般人を超越した挙動で。
「ただ者じゃないですね、貴方は。何です、今のは? 何か知っているんでしょう、貴方は。答えなさい。命令です、これは」
そいつは、笑った。笑ったように見えた。
そして、振り返った。確かに、振り返った。
「ああ、そうさ。俺は知っている。なぜなら、俺が全ての黒幕なのだから。何もわからないことは嫌だろう? 悔しいだろう? だが、俺は決して答えを与えはしない。何故なら俺は黒幕だからだ。悔しかったら、もう一度俺を捕まえてみせるがいい。どんな手段を使ってでも、な」
聞こえた。その声はヒューズにも聞こえた。
完全なる受け答え。故意に行われた、すれ違わない会話。
そして、当然のように『ロシューのすれ違い』が発動する。
システムの超越者ヒューズと、その黒幕は世界を渡る。
彼女は、確かにその黒幕の顔を見た。
見たはずだった。
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