20020503―世界の裏側からの刺客―
キルトカルテット順路変更担当にしてみれば、これは願ってもないチャンスであった。世界レベルでこちらを脅かす強大な謎のシステムの存在のおかげで、彼女はマイゼルグラフト警備主任を守護する必要が生じ、結果として憧れの上司の家に泊まりこむ口実となったのだから。
とはいえ、決して二人きりであるわけではなく、同じくマイゼルグラフト警備主任を守護するためにラルフリーデス見張り担当も一緒にいるのだが。
「二人きりにしたらマイゼルグラフト警備主任が何するかわかんないっすから」
と、いつものように明るく言い放って当の警備主任に殴られていた彼であったが、キルトカルテット順路変更担当としては別に何をされても構わないと思っているのだから、何と言うか、もうわざと邪魔をしているようにしか見えない。
まあ、純粋にマイゼルグラフト警備主任を守るという点においては、世界最強の能力者である彼がここに加わるのは確かに間違いなく妥当であり有益だ。
「とりあえず何か飲むか?」
閑静な住宅街の端に位置するやけに広い屋敷に連れて来られて最初に、ゲストである二人はそう尋ねられた。ホストであるこの家の主は、これまたやたらと大きな冷蔵庫を覗き込んでいる。
「何があるんすか?」
「酒なら大体何でもある」
「ええと、まあビールでいいっすよ」
「キルトカルテット順路変更担当も同じものでいいかな?」
「いえ、私は――」
「ああ、そうか。君は酒がダメだったか」
「はあ、不死種族ですから。トマトジュースかオレンジジュースお願いします」
「了解」
少し冷蔵庫の奥の方を探ってから、マイゼルグラフト警備主任は手持ち無沙汰に立ち尽くす感じになっていた二人の元に、飲み物を持ってやって来た。
「どこか適当に座ってくれ」
「はあ。失礼します」
テーブルを挟んで向かい合わせに設置された二脚ずつのソファ。その、どこに腰を下ろすべきか、キルトカルテット順路変更担当はしばし迷った。とりあえず不自然のないよう、先に座っていたラルフリーデス見張り担当の隣を陣取る。客と主人が向かい合う形となった。マイゼルグラフト警備主任は、それぞれの前に所望の飲み物のビンと高価そうなグラスを置き、手ずからそれを注いでいった。
「で、だ」
乾杯などする雰囲気ではなかったので、いきなりというにふさわしいタイミングで、マイゼルグラフト警備主任が本題を切り出した。渋い顔をしている。
「結局私達は何をするべきなのだ?」
「いや、まあそれは難しいところなんすけど」
ラルフリーデス見張り担当が即刻迷いを口にした。
「はっきりいって、事態はもう割とどうしようもない類のものなんじゃないかと思われるんすよ。いや、マジで。本来ならたぶん俺らがその、例のあれを認識した時点で抹殺されているべきなわけで、一体何で俺らが今無事なのかさっぱりわからないんす。下手なことをするとその瞬間消されるかもだし、もしかしたらこんなことを口にしてるだけでやばいのかも……」
「でも、何もしないことが安全であるとも到底思えませんよね」
「だから、それが難しいところなんすよ」
キルトカルテット順路変更担当は、一度溜息をついた。
「マイゼルグラフト警備主任を襲ったあの手に関してですが、おそらく、この世界の対象を完全に存在させなくする効果があるんだと思われます」
「どういうことだ?」
「たぶん、あの手に連れ去られた者は、この世界に元々存在していなかったことになるんじゃないかと――」
刹那。
ラルフリーデス見張り担当と、キルトカルテット順路変更担当が同時に振り返った。それは、彼らの背後に突然何らかの気配が現れたような気がしたからで、ラルフリーデス見張り担当に至ってはパターンSの能力を走査させていたがそれを完全に突破してきたわけだから、はっきり言ってこの世のものではありえない所作であった。
とはいえ、そこで後ろを向いたところで誰一人、何一つ不自然なものは存在していなかった。
「マイゼルグラフト警備主任」
ラルフリーデス見張り担当は背中で語りかけた。もしかしたらもう攫われているかもしれないと思ったからであったが、
「何だ? 何かあったのか?」
と緊迫した状態に相応しい堅い声で、どうにか返事はあった。
「いや、大局的に見れば何もなかったんすけど」
「ラルフリーデス見張り担当」
隣で同じように周囲の警戒を続けていたキルトカルテット順路変更担当は、不死種族の能力を完全に解放するためか、額から小さな角を生やしていた。それでも彼の名を呼んだその声は、いつもの口調である。
「何かやばいものに巻き込まれたみたいですよ」
そう告げた声もいつもの口調であったので、ラルフリーデス見張り担当とマイゼルグラフト警備主任は、一瞬状況を理解できなかった。
「え?」
「ほら、これ見てください」
キルトカルテット順路変更担当が、自分の右手を二人にかざして見せた。そこには大きく、ちょうど数字の5の形をした傷跡が出来ている。何かに引っ掛かれた痕などという生易しいものではなく、皮膚の表面を抉り取られて、血が滲み、広がり始めている。慌てて自分の右手を見てみるラルフリーデス見張り担当であったが、勿論傷など全く見当たらず、それはあくまで生命線が極端に短いいつも通りの自分の右手の平だった。マイゼルグラフト警備主任は落ち着いたもので、何故か内ポケットから取り出したガーゼのような布を彼女の傷口に押し当て、圧迫止血する。
「な、何なんすか、これは。一体いつの間に、どうやってこんな傷が?」
「いや、まあ、これだけのことなら大局的に見れば何もなかったのと同じですけど」
皮肉なのか素なのか、そんなことを平然と言ってのけた不死種族の少女は、上司に治療されている右手を少し頬を上気させながら眺めている。
「問題は、傷の形が意味ありげな数字であることと、誰一人として気付けない何らかの力が、人を傷つけるだけのアプローチをすることが可能であることです」
「君達二人が同時に振り向いていたということは、何らかの気配はあったのだろう?」
その気配すら感じられない自分が歯痒くて仕方がないのか、悔しそうに顔を顰めている。
「ええ、まあ、気配はあったんすけど、実は能力には全く引っ掛かってなかったっすから、何だかよくわからなくて……」
「能力に引っ掛かってなかったんですか?」
左手で角の辺りを気にしながら、キルトカルテット順路変更担当は不思議そうな顔をした。ラルフリーデス見張り担当はそれに頷いて、気分を紛らわすために手付かずで置かれていたグラスのビールを一気に飲み干した。苦い。
「昼の、あの手は能力で見えたんですよね? 今度のは見えなかった、と。ラルフリーデス見張り担当を警戒して、アプローチ法を変えてきたんでしょうか」
「まさか。こんな若造一匹に警戒心を見せるような存在なら、私達が警戒する必要はない」
マイゼルグラフト警備主任が、笑いながら言った。血まみれになったガーゼをキルトカルテット順路変更担当の手からはがし、傷の様子を見る。さすがに不死種族だけあって、すでに傷口は塞がりかけているほどであったのだが。
「…………」
その様子を見ていたマイゼルグラフト警備主任とキルトカルテット順路変更担当の顔色が変わったので、ラルフリーデス見張り担当は不審に思い、彼女の右手を覗き込んだ。
「…………」
絶句した。数字の形の傷跡は、確かにほとんど塞がりかけていた。ただし、4の形で。
「カウントダウンだ」
マイゼルグラフト警備主任がそう呟いた時、気配が再び舞い降りた。
そう、舞い降りた。
その気配は完全に上からゆっくりとこの場に現れたのであるが、そちらの方に咄嗟に目をやっても、そこに何があるわけでもなかった。
そしてそのまま消えない。
「マイゼルグラフト警備主任、この気配、わかりますか?」
キルトカルテット順路変更担当は、少し名残惜しそうに、右手を包み込む上司の手をゆっくり振り解いた。そして、不思議な構えを取りながら問う。完全に、その現れた気配と肉弾戦闘を行う姿勢であった。
「気配は感じない。しかし、わかる。極端にこちらの裏側に近い位置に存在する何者かだ。そいつが、ここにいない。何らかの手段でこちらに干渉しようとしているようだ」
「ただ」
ラルフリーデス見張り担当が、自分の右手を眺めている。愕然とした表情で。
「それはもう、こちらのレヴェルを軽く超えているみたいっすね」
赤く刻まれた数字の5を押し潰すように堅く堅く、彼は拳を握った。予想以上の痛みが襲って来たが、案外表情や動作に影響を与えない程度には我慢できる。
直後、弾かれるように、キルトカルテット順路変更担当が気配に向かって突進した。ラルフリーデス見張り担当にしてみれば、無思慮な暴挙に出たようにしか見えなかったが、しかし不死種族ならば心配することもない気はした。
キルトカルテット順路変更担当が、何も見えないがただ気配のみは存在する空間を完全に射程にいれた瞬間、その気配は静かに動いて、彼女を包むような形状に変化した。
何らかの危機である予感はあった。だから彼女はそれをやすやすと看過することはしなかった。
「絶の波紋」
不死種族の能力で、その気配の境界を破壊する。気配は空気に溶け、その存在自体が虚無へと散華していったように見えたが、彼女はそれでも動きを止めなかった。
右手をある一点、虚空へと突き出した。揺らぎも何も生じさせないまま伸ばした右手は完全に空中に飲み込まれて見えなくなり、彼女はさらに肩を入れて、その、世界の裏側の奥へ奥へと――
「がっ!」
と言う呻き声が聞こえた瞬間、ラルフリーデス見張り担当は自らの不注意さを呪った。見張り担当である分際で、完全に自分の任務を失念していた。
マイゼルグラフト警備主任から目を離していたのだ。
「マイゼルグラフト警備主任!」
声をかけるが返事はなかった。すぐ真横にいたはずの上司の姿はそこにはなく、周囲を見渡してみるが、当然姿が見えない。
「くそ!」
ラルフリーデス見張り担当は咄嗟にいくつかのパターンを同時開放し、完全に探査に徹したが、その存在を感知することはできなかった。
「キルトカルテット順路変更担当! マイゼルグラフト警備主任が――」
言葉が止まった。彼女は、いまや上半身全部を空中に消し、服の上からでもわかるその細いウエストの辺りも徐々に引きずられるように向こう側へと消えて行こうとしていたのだ。
「ちょ、マジっすか!」
右手の傷跡を見てみると、いつの間にかそれは3の形をしている。とりあえずそれは無視して彼女のもとに駆け寄り、
「ええと」
少し躊躇した後、
「緊急事態っすからね!」
と、宣言してから、血に濡れた右手といつもの左手で彼女の腰の辺りを掴み、力の限り引っ張った。抵抗感は思ったほど大きくなく、ずるずると、虚空から彼女の上半身が現れ出て来る。腹、胸、肩、そして顔。
「え?」
両手を伸ばしたような姿勢でいたことはわかっていた。少し必死な様子のキルトカルテット順路変更担当の顔に続いて虚空から引き抜かれて来た両腕は、長袖のシャツごと至る所に切り裂かれた痕があり、真っ赤になっていた。
「お手数かけます。ちょっと私限界なんで、最後までしっかり引っ張り出してください。あと、出来ればもう少し上の方を掴んでください」
少し苦しそうな、同時に恥ずかしそうな彼女の声を聞くにつけ、ラルフリーデス見張り担当は言われた通り、掴む場所を変え、そして力をこめ続けた。
真っ赤な腕の先は傷だらけの手に繋がっており、その手にさらに引きずられて、徐々に徐々に誰かの姿が現れた。彼女が掴んでいたのは、洋服の裾の部分に当たるようで、背中から現れたその人物は、全体まで出てくることなしに、その正体をラルフリーデス見張り担当に認識させた。
「マイゼルグラフト警備主任?」
何かが明らかにおかしい気がしたが、とにかく、空中からキルトカルテット順路変更担当とラルフリーデス見張り担当に引っ張り出された彼は、どさりと床に落ち、うめき声をあげた後、背中を押さえて起き上がった。どうやら、意識を失っていたらしい。慌てた様子で周囲を確認している。
「な、何があった?」
「俺にもわかんないっすよ」
わからないことだらけだ。
この世界ではない場所へ今しがたまで繋がっていた空中を撫でてみるが、それはいつもの空気にしか過ぎなかった。
とにかくまず、満身創痍でぐったりと床の上にうつ伏せで倒れているキルトカルテット順路変更担当の様子を確認することにした。不死種族なので、滅多なことはないだろうが。
「マイゼルグラフト警備主任、彼女をゆっくり仰向けにして、それから抱き起こしてあげてください。背中を支えてあげるような感じで」
ラルフリーデス見張り担当は、キルトカルテット順路変更担当に軽くウインクして見せた。彼女は、顔を真っ赤にし、ぐったりとしたまま上司に背中をあずけた。
ラルフリーデス見張り担当は、彼女の傷だらけになっている両腕を子細に渡って観察し、そして絶句した。
「……腕、切られてるだけじゃなくて、折られてるっすよ」
右腕だけで七箇所。左右あわせて十箇所に骨折の跡があったのだ。おそらくは壮絶な痛みに耐えているであろう彼女は、それを聞いて静かに笑った。
「そ、そうですか。何かやけにつらいと思ったら、そういうことですか」
「不死種族とはいえ、治るんすか、これ? かなりやばい折れ方っすけど」
「はあ、それは大丈夫だと思います。何せ不死種族ですから」
「すまない、キルトカルテット順路変更担当」
マイゼルグラフト警備主任が、頭を下げる。
「いや、別に謝られるようなことじゃありませんよ。マイゼルグラフト警備主任が悪いんじゃないんですから」
「いや、しかし――」
何かさらに言い続けている上司を後目に、ふと、ラルフリーデス見張り担当は自分の右手の傷跡に目をやった。彼は勿論不死種族ではないので、そう簡単に傷が治るわけでもなく。
数字の1がそこにはあった。
かなり嫌な予感がした。
遅ればせながら、パターンEの能力を治療方向に働かせることにする。
と、そこへ、キルトカルテット順路変更担当から要望が入る。
「あの、すみません。ちょっと栄養が足りないんで、テーブルの上からトマトジュースを取って来てください。または、血液を分けてください」
最後の一言はジョークだろうか。ラルフリーデス見張り担当は、苦笑してからテーブルへと向かった。ついでに、残っていたビールをビンから直接飲み干し、それからトマトジュースの入ったグラスとビンを持って戻る。
「どうぞ、お姫様」
「はあ、恐縮です」
真顔でそんなことを言う彼女にグラスを手渡そうとしたが、無論、彼女の腕がそれを不可能にしている。
「マイゼルグラフト警備主任。お姫様にこれ飲ませてあげてください。両手とも使えないっすからね」
そう言った時。
グラスを持っていたのは、右手だった。
彼はその手を、マイゼルグラフト警備主任に向かって伸ばしたところだった。
右手の傷。塞がりつつあった傷跡が、最後の最後、塞がりきれない段階で、形を変えた。
0。
弾け飛んだ。
その瞬間、突然ラルフリーデス見張り担当の右手は内側から爆裂四散し、大量の血と肉の塊を周囲にばら撒いた。グラスも砕け散り、中に入っていた液体と合わせて、周囲は真っ赤に染まった。
「あ、ああああ」
痛みに、我を失いそうになる。意味のない叫び声を発するラルフリーデス見張り担当の顔が苦痛に歪み、脂汗が流れていく。
マイゼルグラフト警備主任は、大量の血を浴び、また、破裂したグラスの破片で右目の僅か下の部分を切り裂かれていたが、うろたえている場合ではなかったので、最善であると思われる指示を反射的に出していた。
「止血だ! 腋の下を圧迫しろ! そして、君なら、痛覚の遮断が出来るだろう!落ち着け!」
ラルフリーデス見張り担当は、ぎりぎりのラインで、そう、痛みで気が狂う直前のわずかな平常心で、パターンGを開放した能力を麻痺方向に使って、自らの痛覚刺激を完全に知覚できなくした。
そうなってしまうと、自分の右手の感覚が全くなく、手首の辺りから夥しい量の血液が流れているという恐ろしい状況も案外どうにかなりそうな気になってしまうから怖い。
ラルフリーデス見張り担当は、能力を使った治療を行いながら、左手で強く右腋を押さえつけた。
「あの」
一人マイペースに、飛び散って体に付着した血液を嬉々として猫のように舐めとっていたキルトカルテット順路変更担当が、おずおずと発言した。
「良かったら、私がその傷治しますけど」
妙に顔が赤い。どうやら彼女は、血を飲んだためか別の理由があるのか、人間で言うところの酩酊状態にあるようだった。そして同時に、怪我も完治したのか、傷だらけだったはずの手をついて起き上がり、膝立ちの姿勢でラルフリーデス見張り担当の右腕を取った。
「え、いや、治すってどうするんすか?」
「この右手の範囲だけ時間を戻すっていう荒技使うんですけど」
「そんなことまで出来るんすか! やりたい放題っすね、不死種族」
「はあ、まあ生き血を飲んだ時だけですから」
――
一分後、右手が復活したものの少々貧血気味のラルフリーデス見張り担当と、傷は完全完治したが目をとろんとさせて酔っ払っているキルトカルテット順路変更担当と、右目の下の傷を治してもらい、血に塗れてはいるが唯一全く普段と変わらぬコンディションであるマイゼルグラフト警備主任が、再びテーブルを囲んで座った。
「まあ、聞きたいことは山ほどあるんすけど」
ラルフリーデス見張り担当は心なしか青ざめた顔で、キルトカルテット順路変更の方を向いた。
「答えられるっすか? 酔ってても」
「はあ、まあ。私、血を飲んでもあんまり変わらない方なんで、ある程度までは」
確かに、呂律が回らなくなっている様子もなく、テンションの高さも普段通りだ。
「じゃあやっぱ酔っ払ってるのは生き血を飲んだからっていう理由なんすか?」
「はあ、不死種族ですから。不死種族にとって、アルコールは人で言う毒と同じですが、変わりに血液が人で言うアルコールと同じ効果を持つんですよ。私はあんまり飲まないですけど、やっぱりおいしいので、好きですね」
「はあ、そんなもんすか」
不死種族との溝を思い知りながら、ラルフリーデス見張り担当は本題を切り出した。無意識に、復活したばかりの右手を握ったり開いたりと感触を確かめる。
「さっき、キルトカルテット順路変更担当が、右手を世界の裏側――か何か――に向かって伸ばしてたじゃないっすか。あれは一体何してたんすか?」
「絶の波紋を使って境界が消えたので、気配の本体を捕まえようとしたんです。相手があそこの裏側にいるのは何となくわかりましたから」
「で、その途中でマイゼルグラフト警備主任が呻き声をあげたのは知ってたっすか?」
「ええ。その直後、ちょうど右手が何かを掴んで、急激にそちら側に引っ張られる力が強くなりました」
「マイゼルグラフト警備主任は、一体何があったんすか?」
「突然、腹部を強打された。勢いを殺すために後ろに一歩飛んだら、そこに床がなかった。世界の裏側に繋がっていたんだろうな。足場を失って急激に落下し始めた次の瞬間、背中側を強く引っ張られて、襟で喉を圧迫してしまい、落ちた」
ここで言う「落ちた」は「意識を失った」ということか。
「まあ、早い話、この段階でキルトカルテット順路変更担当がマイゼルグラフト警備主任の裾を掴んだため、マイゼルグラフト警備主任が気絶したということでいいっすか」
「え? 私のせいでマイゼルグラフト警備主任が気絶したんですか?」
「いや、まあそういうことになるっすけど。どちらかといえば世界の裏側に飲み込まれたのを助けたわけっすから、恐縮することないんじゃないっすか?」
「はあ」
頭を下げて感謝の言葉を述べるマイゼルグラフト警備主任に対し、キルトカルテット順路変更担当がいえいえそんな別にとか言いながら首を振っている一幕を、ラルフリーデス見張り担当は意図的に無視した。
「その後、キルトカルテット順路変更担当の両腕を切り刻んだ上に折りまくった何らかの力が働いたはずなんすけど、その辺はわかりますか?」
彼女は、少し思案げに眉を寄せた。少し眠そうだ。
「その頃は、もう頭も向こう側に行ってたんですけど、光学器官を使った視覚という意味合いでは何一つ見ることが出来ませんでした。だから力の正体は全くわからないんですけど、とりあえず、いきなり腕を切られた感じがして、つまりそれって私の掴んでいるものをどうにかして離させたいという力の働き方だと思ったので、絶対に離すものかと決意して、頑張ることにして、まあ後はラルフリーデス見張り担当に脱出を手伝ってもらうまでひたすら攻撃に耐え続けたという次第でして……」
「うわ、よく頑張れたっすね」
「はあ、まあ不死種族ですから」
その理由付けは正直よくわからなかったが、ラルフリーデス見張り担当はあえて何も言わなかった。彼女が、なんだかんだで少し酔っていると思ったからだ。
「つまり」
状況をまとめ始めたのは、おもむろに口を開いたマイゼルグラフト警備主任であった。
「向こうの目的は、私を連れ去ることだった。そのため、私には反応できない気配を囮として二人を引き付け、一人になった私を世界の裏側に突き落とした。しかし、そこをキルトカルテット順路変更担当が助けてしまったので、その手を引き剥がすために両腕に執拗な攻撃を加えた。だが、結局私は助かってしまった、ということか」
「いや、まあ大局的に見ればそうなんすけど、だとするとあのカウントダウンの傷をつける意味がよくわからないんすよ。あんなことしなくても、俺らの注意は引けるじゃないっすか」
「能力のパターンを、一つでも多く治療方向に割いて欲しかったんじゃないですか?」
「いや、それって俺対策ってことっすよね? あいつらは、俺への警戒なんてしないっすよ。さっきもそういう結論だったっすしね」
「しかも、二人とも右手にその傷をつけられたが、こちらに気付かれることなく攻撃が出来るのなら、胸や頭など、爆発したら致命的となる部位に攻撃して、殺してしまった方が早い。わざわざあんな技を見せ付けて――」
ふと、マイゼルグラフト警備主任は考えた。
あのカウントダウンの傷により、右手に数字が浮かび上がっていないかを警戒するようになった。
同時に、それがゼロになった時、爆発するということを印象付けられた。
さらに言えば、今のところそれによってこちらを直接殺そうとすることはしていない。
何故か?
答えは簡単だ。
右手のカウントダウンはとりあえず自分達にそういう攻撃方法が存在することを理解させる前段階。あちらには自分達を殺す気など毛頭なく、むしろ全員まとめて世界の裏側へ連れて行きたいと思っている。
そのために必要な本当の攻撃。
ゼロになった瞬間爆発するのではなく、近くにいる者全員を世界の裏側に弾き飛ばす効果を持つカウントダウン。
だが。
今更、治癒能力を使える者に数字の5の形の傷跡が現れたとしたら、警戒され、治療されるのは目に見えている。だから、次に誰かがどこかの傷を調べた機会に、そこの傷跡の形が1から0に変わる瞬間だけを見せて、「カウントダウンの攻撃を加えられていた」という自覚を引き出すのだ。
そして、その心理的効果を現実へ昇華させる何らかのシステムさえあれば、次の瞬間、その「思い込み」が事実となって牙をむく。
それも、これがそのような攻撃であることを完全に理解する鋭い人材だけが、逆に全ての謀略を先取りして想像してしまい引っ掛かるのだ。
そうだ。
これは、聡い者をこそ陥れる、乾坤一擲の罠。
相手の警戒心、想像力を逆手に取る最低最悪の罠。
『カザミの権謀術数』。
マイゼルグラフト警備主任は、それを把握した瞬間、二人の部下に内容の詳細を伝えようとした。だが、それは完全に逆効果だ。
これを一度悟ってしまうと、例え1の形の傷跡が0になるだけの、カウントダウンになっていない現象を見ただけで、「近くにいる者を世界の裏側に弾き飛ばされるカウントダウン攻撃」をわずかにでも想起してしまい、それをこそ現実化されるという最悪の攻撃を受けることになる。無知であれば、それは「ただ形の変わる不思議な傷」で済んだはずであるのに、だ。今の部下二人の状況でも、「傷の部位が木っ端微塵に砕け散る」という事態は免れ得ないだろう。だが、それはこの世界から弾かれるよりまだどうにかなる気がした。
結局、マイゼルグラフト警備主任は閃き過ぎてしまった、というわけだ。
「どうしたんですか? 急に黙り込んで」
キルトカルテット順路変更担当が、不思議そうに尋ねてくる。
「いや、何でもないが……」
マイゼルグラフト警備主任は、その時、額に手をやろうとしてしまうという大失態を犯した。その手の平に、数字の1が見えてしまった。
もしかしたらそれすらも自分の想像で作り出しているかもしれないカウントダウンの傷。
「今のうちに言いたい事を言っておこう。二人とも、本当に迷惑をかけた。すまない。そして、二人とも、ものすごく感謝している。ありがとう」
突然何を言い出すのか、と詰問するため部下二人が同時に口を開こうとするのが見えた。
その視界の端で、幻の傷は幻のカウントダウンを完成させる。
『カザミの権謀術数』が、最終発動段階に入る。
マイゼルグラフト警備主任は、覚悟を決めるように目を閉じた。
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0。
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